予感05
人は他人に触れないままでいると、どんどんと触れられるものも見えるものも減っていく。そしていつしか自分の世界が狭く小さくなって、身動きが取れなくなった自分に気づいた時にはもう自身の力ではどうにもならない。
それはまるで砂地獄みたいにすべてを飲み込んでいく。でも気づかないあいだに、傍で見守ってくれる人たちの優しい手で僕は救い出されていた。
藤堂が傍にいてくれるようになって、それに少しずつ気づくことが出来るようになってきた。いつも道から外れて立ち尽くす僕を、藤堂がいつの間にか導き正しい道へと戻してくれる。
「どーしたよ、センセ。お疲れ?」
「え?」
ぼんやりとした思考がふいに感じた背中の重みと声に引き戻される。判子を片手に持ち、じっと紙を見つめていたらしい僕が顔を持ち上げ振り返ると、無遠慮に大きな手が髪の毛をかき回した。
「重い、退け」
いつまでも人の頭を撫で回す峰岸の手を振り払おうとするが、その手を掴まれてそれをさえぎられた。そしてのしかかる重みでさらに身動きを封じられてしまう。
相変わらず峰岸は人の背後に回り貼りつく。
「癒やしが足りないのかと思って、俺がこうやって癒やしてやってんだろ。センセ最近つまんないな反応が」
「いい加減、怒るのに飽きた」
「……あいつと同じこと言うなよ」
小さなため息と共に背中の重みがすっと離れた。それを追うように視線を向ければ、峰岸は肩をすくめて自分の椅子に座る。そしてその姿を見た僕は思い出したように周りを見回した。
気がつけば僕はまた、心配と怪訝さを含んだ視線に見つめられていた。
「あー、悪い。大丈夫だから」
見回したこの場所は放課後の生徒会室。創立祭の準備も一段落し、実行委員は早めに切り上げることが多くなった。いまは会長である峰岸と書記の野上七緒、生徒会補佐の柏木三國がいるだけだ。生徒会にはほかに役員があと四人ほどいるが、今日はまだ姿が見えない。
目の前で心配げな眼差しをしているのが野上。その背後で書類を片手に訝しげな顔をしているのが柏木だ。二人の視線になんとも言いがたい気持ちになる。
「ニッシー、だいじょーぶ?」
パソコンで来賓名簿の作成をしていた野上が、ハガキを片手に頬杖をつきながら目を瞬かせた。視線とは裏腹なのんびりした声音に思わず気が抜けそうになってしまった。
二年生の野上は担当教科でも顔を合わせるが、今回実行委員長になった神楽坂の幼馴染みらしく、僕へのあだ名がどうも完全に移ってしまっている。いまだ僕の名をまともに呼んだ例しがない。
「ああ、大丈夫」
「そ、ならいいけど。五分くらい魂抜けてたよ?」
僕の言葉に苦笑して、小さく首を傾げた野上の髪がさらりと揺れた。
その少し長めなキャラメル色の髪と、ネクタイを緩めて着崩された制服はいかにも今時の子だなという印象。そしてその印象を助長させるように野上は誰に対しても言葉も態度も軽く、生徒会以外の場所で出会うといつも女子をはべらせていた。
けれど峰岸同様、見かけによらず意外と真面目な子だなんだと最近知った。今日も誰よりも先にここへ来て、コツコツと名簿作りをしていた。
「お前こそ大丈夫かよ。人の心配より自分の仕事しろ」
「ひ、ひどい会長。これでも一生懸命やってんのに」
野上や僕が作業している長机から少し離れた場所にある峰岸の机。そこから小さく丸められた紙くずが飛んできて、見事にそれは野上の頭にこつんと当たった。それは吹けば飛ぶような紙くずだったけれど、野上は大げさに痛がった素振りをして口を尖らせた。
「いてぇのはお前の頭が空っぽだからだ」
「がーん、会長の愛って冷たい」
さらに立て続けて飛んでくる紙くずに、しょぼんと肩を落とす野上の姿は申し訳ないが笑いを誘う。峰岸の気に入ったものをいじる悪い癖は相変わらずで、よくよく見ているとすごくわかりやすい。とはいえ相手は峰岸、いつでもいじられている本人たちは戦々恐々だ。
「俺に愛されたきゃ仕事しろ」
でもその癖に気づいているのか、不思議と野上は恐れることなく峰岸によく懐いている。
「会長こそごみ撒き散らしてないで仕事したらどうですか」
しかしそれをよく思わないのもいる。二人のやりとりに大きなため息を吐き出し、床に落ちた紙くずを拾い上げた柏木だ。あからさまに苛ついた表情で峰岸を黙視し、眉をひそめた。
「やることやってんだよ俺は」
ふいと顔をそらした峰岸の態度に、柏木はさらに苛々とした感情をあらわにする。
「やっていればなんでも許されるわけじゃないです」
「ハイハイ、毎日毎日うるせぇな」
その苛つきを感じながらも、投げやりな態度で峰岸は手元のファイルを強く机に叩きつけた。その乾いた音に野上は目を丸くし、柏木は小さく舌打ちする。
棘のある言葉が行き交い一見すると険悪かと思える二人のやりとりは、意外とよくある見慣れた光景だったりする。
「峰岸の愛情ってほんとにひねくれてるな」
「会長はあれで実は優しいから」
ポツリと呟いた僕の独り言に野上がふっと小さく笑う。
「まあな。野上は峰岸好きか?」
「好きだよ。会長は俺の憧れだもん」
無邪気に笑う野上に思わず肩の力が抜けてしまった。ちゃんと見抜いていたのかと納得する面と、気づいてなさ過ぎる無防備さに苦笑いが浮かぶ。
しかし周りに茶化されたり怒られたりする野上のフォローをしながら、小言を言う柏木も、それを峰岸がのらりくらりとかわしていくのもいつものことだ。
「お前は小舅かっつーの。七緒が大事なら、もうちょっとそっちに気を回せばいいだろ」
「……そんなこと、会長には関係ないです」
「あ、そ」
口ごもり言葉尻が小さくなる柏木の声に、肩をすくめた峰岸は横柄な態度で目を細めた。
「会長、あんまりみーくん苛めないでよ」
さすがにこう毎回では、いつも疎いと言われる僕でもそこにある感情に気づくと言うのに――のんびりした野上の声にため息をついた峰岸と、ふいに目が合った。
「苛めてねぇだろ。噛みつくのはこいつ」
「……」
椅子の背もたれに身体を預けふんぞり返る峰岸に、まっすぐと指をさされ柏木は口をつぐむ。どうやら今日は峰岸に軍配があがったようだ。
「なんだかんだで甘いんだよな」
柏木はあまり峰岸が構いたがる性格ではないけれど、少しだけ藤堂に似ている。サラサラとした綺麗な黒髪や落ち着いた光を宿す切れ長の目。小柄で華奢な印象以外は並び立つと兄弟みたいだと周りからもよく言われるくらいだ。
「お前はほんと口ばっかり達者だよな」
「会長には負けますけど」
それに峰岸自身も気づいているのだろう。鼻先で笑いながらも峰岸は柏木に対しどこか苦手意識があり、攻撃的な部分が一歩引く時がある。普段は言い澱むことがない峰岸が、時折ふと言葉に詰まるさまは見ていると不思議な感覚で面白い。
「みーくん勇者だねぇ。会長に進言出来る強者はみーくんくらいだよ」
「七緒、ファイル三冊追加するぞ」
「自分の仕事、七緒先輩に振らないでください」
どうでもいいことでああでもない、こうでもないと騒ぐ峰岸と柏木。二人のあいだでへらへらと至極楽しそうに笑う野上。なにやら色んな感情がそれぞれの内にあるのだろうが、見ていると可愛らしく思えて和む。
残りの四人を追加すればさらにこの部屋は賑やかなものになるが、普段はきちりとした生徒会役員たちの高校生らしい子供っぽさが垣間見られて、この場所は案外居心地がいい。けれどふとよぎったそんな想いは寂しさも心に滲ませる。
「……寂しいか」
肩の荷が下りると思っていたけれど、実際はこうして峰岸たちと接しているうちになんとなく寂しいという気持ちが湧いてくるのだ。この先もう会えなくなるというわけではないが、いまのように接しあうことはきっと極端に少なくなるだろう。
「おい、なに年寄りが孫みるみたいな顔してんだよ」
「え?」
「ニッシー、おじいちゃんみたいだよ」
いつの間にかまた集まっていた視線と響く野上の笑い声で我に返れば、弧を描いて飛んできた紙くずが僕の額にこつんとぶつかった。