予感08
峰岸が藤堂を好きなんだということは、諦めたと言われたいまでもわかる。以前より確かに僕と藤堂から一歩引く感じはあるけれど、一緒にいる時はなんとなく嬉しそうだ。
正直に言うならその様子は複雑で、あんまりいい気分ではない。でもなぜこう僕に対しても本気で怒るのかがいまだに理解出来ない。
「峰岸、鬱陶しい」
背中にべったりと張り付く大型猫、どうにかならないものか。廊下を歩く生徒があからさまに僕を避けて通っていく。
「嫌だ」
「あのな、駄々こねるんじゃない」
「嫌だね」
ボソリと呟き、峰岸はついには思いっきり僕を背後から抱き抱えるようにして、廊下の真ん中で立ち止まってしまった。ぎゅうぎゅうと締め付けられていささか苦しくなってくる。本人は擦り寄ってるだけなつもりだろうが、僕と峰岸の体格差を考えて欲しい。
「おぉーい、こんなとこで立ち止まるな」
生徒会役員を解散させて、あとは役員室の鍵を返しに行けば僕の業務もこれで終了だと言うのに、職員室まであと五十メートル足らず。しかも生徒玄関のほぼ中程だ。
これは嫌がらせなのか? 廊下を歩くよりも生徒の目が痛い。
「センセはなんで先生やってんだ」
「は?」
重たいため息が僕の口からもれたのと同時か、なんの脈絡もなく唐突に問いかけられた意味不明な言葉。一瞬なにを聞かれたのかわからず、そのため息を飲み込んでしまった。
「峰岸? どうした」
「いや、ふと思っただけ。先生になりたかったんだ?」
「……まあ、うん。そうだな」
ありきたりな理由だけれど、高校の時に新崎先生みたいな先生がいた。ちょうど父を亡くしたばかりで、へこむ僕にすごく親身になってくれたその先生に憧れたのが、多分一番の要因だろう。けれどなんだっていきなりそんなことを聞くのだろうか。つい先ほどまでまったく違うことでぶつくさ言いながら怒っていたのに。
「なんだ? 急に進路相談か」
「いや、なんでセンセはいまここにいんのかなと思っただけ」
「意味がわからないぞ。なんだかいちゃいけないみたいな言い方だな」
いや、いないほうが峰岸にはいいのか?
肩の上に顎を乗せた峰岸がふっとなにやら複雑げなため息を吐くものだから、ますます意味がわからなくて困惑してしまう。
「バーカ、んなこと思うわけねぇだろ」
しかしそんな僕の心などすぐに読み取ってしまうのが、やはり峰岸のすごいところだ。目一杯きつく抱きしめていた腕を緩め、まるであやすみたいに肩を優しく撫でる。
「じゃあなんだよ」
「やっぱり俺と付き合おうぜ」
「はぁ?」
真剣な顔でなにを言い出すのかと思えば、驚き過ぎて言葉が続かない。なんだか今日の峰岸は変だ。生徒会室でもなんとなく違和感があっておかしいと思っていたけれど、いまは明らかにどうかしてる。
「ちょっと待て、峰岸離せ」
「センセは幸せになりたい?」
どこか胸騒ぎがするような、ただならぬ雰囲気に僕は慌てて峰岸の腕を振りほどこうと試みた。けれど逆にしっかりと峰岸に腕を掴まれてしまい、逃げ出すことは叶わなかった。それどころかじっとこちらを見る目が、あまりにもまっすぐ過ぎて、思わず怯んでしまう。峰岸はこんなに寂しい目をするような男だったろうか。
「お前は、なんて顔してるんだ」
「なぁセンセ、俺にしとけよ」
「それは、いまにも泣きそうな顔で言うことか?」
掴まれた腕がたまらなく痛い。でもなぜかそれよりももっと、峰岸のほうが辛そうで苦しそうで、その手を再び振りほどこうとは思えなかった。そしてそれをはぐらかすうまい言葉も見つからず、お互い視線を合わせたまま時間が止まったような気がした。
「なにしてるんだ二人とも」
ふいに背後から聞こえてきた声に、僕は驚きと焦りで肩を跳ね上げた。
「あ、飯田」
恐る恐る振り向けば、飯田がどこかあ然とした面持ちで立っていた。久しぶりに言葉を交わした場面がこんな状況になるとは思わなかった。けれどそんな戸惑いに気づいたのか、飯田は僕の腕を離さない峰岸を一瞥して大きく息を吐いた。
「峰岸、西岡先生を離せ。困ってるだろ」
少しとがめるような飯田の口調。
その声に峰岸はふっと表情を消して目を細めた。そしてその瞬間を見てしまった僕は、なにかとても嫌な感じがして鼓動がやけに激しくなった。峰岸はこんな風に人を見下すような、冷たい目をしたりしないはずなのに。人をからかい無邪気に笑ういつもの姿までも、どこかへ消し去ってしまった。そんな気がする。
「あんたらって、いっつもそうやって上っ面しかのことしか見ない。面倒なことは誤魔化して真実には蓋をする。そのくせ上から目線で反吐が出る。そんなやつの言うことなんか聞けねぇ」
「は? なにを言ってるんだ。わけわからないこと言ってないで」
「大人って、いつだって自分の都合で他人を振り回すよな」
なぜだろう。言葉は確かにナイフのように鋭利なのに、内側にある心は脆いくらいに傷ついて震えている。いまの峰岸はなぜだか泣いているみたいに見えた。飯田を見る目は鋭くて手に負えない猛獣みたいなのに、腕を伸ばして抱きしめてやりたくなる。どうしてそんなに傷ついた悲しい目をしているんだ。
「……飯田、なんでもない。峰岸は悪くないんだ」
藤堂も峰岸も本当に心が大人だ。二人ともそっくりで見ていると心配になる。
物わかりがよくて、とっさにつく嘘がうま過ぎて。僕たちはそんな彼らの偽りの姿に騙されてしまう。この子なら大丈夫、きっと大したことないって思ってしまうんだ。でも違う。彼らはほんとは繊細で傷つきやすくて、だから心を固く防御しているだけ。いまの峰岸は胸に溜まるなにかを飲み込んでしまっているように見えた。
「でもセンセは俺が守ってやる。あんただけは特別だ」
「峰岸?」
ふっと自分の目の前へ落ちた影に僕が気づいたのと、飯田のあっ――という小さな声が耳に届いたのは同時か。目を見開いた僕の唇に優しく触れた峰岸のそれは、まるでスローモーションみたいにゆっくりと離れて行った。
「こら峰岸っ」
驚いている僕にやんわりと目を細めて笑った峰岸は、飯田の怒声など気にも留めない様子で身を翻した。そして素早い動きで靴を履き替えると、生徒玄関の扉を押し開きその姿は小さく見えなくなった。
「だ、大丈夫か? 西岡?」
「……あ、ああ。大丈夫、ちょっとびっくりしただけだ」
慌てたように僕に駆け寄る飯田は、去って行った峰岸と僕とのあいだで視線をさ迷わせながら、言葉が見つからないのか魚みたいに口をパクパクと動かす。
「びっくりしただけって、のんきな」
「油断したな」
怒るとか嫌悪とかそんなのを通り越してなんだか笑えてきた。それは去り際見せた峰岸の笑みに、少しほっとしたからなのかもしれない。