この先、あの人と俺のあいだに起きること?
それは考えるほどに色々あり過ぎて、どれが問題なのか、なにが起きるのか、それさえもよくわからない。今朝だって泣きそうな顔をして自分を見ていた。なにがあったのかは聞けなかったけれど、多分きっと彼を不安にさせるなにかがあったんだろう。
でも現在、過去未来――どこを見たって、なにごともない場所はない。
ふっと吐き出した自分のため息が思いのほか重たく、肩が落ちた。しかし制服のポケットで震えた携帯電話に、そのため息すら一瞬で忘れてしまった。
「佐樹さん?」
恐る恐るそれを耳に当てれば、柔らかい声が自分を呼ぶ。それだけで嫌なこともなにもかも忘れてしまう、そんな気さえした。
「いま、大丈夫か? もう家に着いたか?」
「大丈夫ですよ。丁度、玄関の前です」
どこかたどたどしい声に自然と笑みが浮かぶ。普段からまったくと言っていいほど電話もメールもして来ない彼が、自分のことを気にしながら時間を過ごしていたのかと思えば、ニヤニヤと口元が緩んでしまう。
「そうか、かけ直したほうがいいか?」
「構いませんよ。どうせ誰もいませんから」
鍵を開け、扉を引けば真っ暗でしんとした空間が目の前に広がっていた。けれどそれもいつものこと、帰って人がいることはほとんどない。
「……そうか」
ふいに沈んだ声になんとなく胸が苦しくなる。優しい彼にこんな些細なことで気に病ませてしまう、それが悲しくなった。
「佐樹さん、明日はなにがいいですか?」
「あ、ああそうだな」
紛らすように明るく声をかければ、それに気づいたのか電話の向こう側で、はっとしたような気配を感じた。でもそれは素知らぬふりをして唸る彼に俺は笑った。
「今日は洋食にしたので和食がいいですか?」
片手を塞いでいた鞄をリビングのソファに放り投げ、俺はキッチンの電気をつけて冷蔵庫を覗いた。
自分で買ってきた物以外、ほとんど入っていないのでその中身は容易く知れる。食費だと言って彼に渡されるもので週に一度まとめ買いをして、時折足の早い食材を買い足す。つい最近買い物をしたので冷蔵庫の中は充実していた。
「今日の夜はなに食べました?」
「あー、今日は麻婆茄子?」
「ふぅん、やっぱり佐樹さんのお母さんはレパートリー多いですね」
「お前、最近もまだメールしてるのか?」
なぜか急に声をひそめる彼に首を捻りつつ、いまも相変わらずメールのやり取りが続いていることを告げれば、今度は重たいため息をつかれた。
「母さんお前のこと、絶対に高校生とか思ってないよな」
「ああ、もしかしたらそうかもしれませんね。なんとなく言いそびれると言う機会もないですし」
多分、大学生か。もしかしたら社会人くらいに思われてるかもしれない。どこで知り合ったのか聞かれたことがあるので、学校で知り合ったことはなんとなく伝えた。だから卒業生と思われているかもしれないが、深く追求されることもないのでそのまま曖昧な状態だ。
「なにかありました?」
「んー、お前にまた会いたいとか言うから、なんかヒヤヒヤしてさ。この前、作ってもらったの食べ損ねて、冷蔵庫に入れてんのバレたんだよな。いい人出来たの? なんて聞かれるし」
「ああ、なるほど」
弁当用にレシピを聞くことは多い。勉強にと理由こそつけているが、物や味を見られると正直誤魔化しようがなく。俺が彼と頻繁に会っているのはなんとなくは気取られるだろう。
「あ、別にやましいとかそんなんじゃないからな。ただ、まだちゃんと話すのは」
「わかってます。大丈夫ですよ」
自分との関係を公にして欲しいと思ったことはない。不利になるのは彼だし、悔しいがいまはまだ俺は自分自身の責任すら取れない立場だ。
あと少し、もう少し時間が経って自分の手で彼を守れるようになってから、それからじゃなければ絶対に言えない。言ってはいけないと思う。
「ごめんな」
「どうして謝るんですか」
「あ、いや。なんとなく」
言葉を濁す彼をいますぐにでも抱きしめてあげたいと思った。彼が謝ることなんて一つもない。母親にさえ簡単には言えない相手と付き合わせてしまっているのは俺なんだ。
それでも彼はいつだって言葉に出来ないことを、人目を気にせずいられないことをごめんと言う。彼が悪いわけではないのに。
「……藤堂」
「なんですか?」
「ん、好きだ」
「俺も佐樹さんが、好きです」
たった二文字に込められた彼の精一杯が、たまらなく愛おしい。単純だけど、それだけで幸せだと感じる。
「佐樹さん、可愛いね」
「からかうなよ」
「本音です。そういえば明日からしばらく会えませんね」
「ん、ああそうだな。でも十日くらいだけだぞ」
たかが十日程度でも、準備室にも行けず週末さえも会いに行けないのではかなりきつい。俺にとっては彼に会うことが一番の楽しみであり、癒やしでもある。
「お昼はどうしますか?」
「うーん、テスト期間は職員室にいることが多いから、やめといたほうがいいかな」
「そうですか。じゃあ明日のご飯もやめておきますか?」
「んー、そうだな。準備室は入れないから、受け取るタイミングも難しいしな」
「それじゃあ、仕方ないですね」
ここでごねて我がままを言っても仕方がない。ちゃんと線引きしてあげなければ困るのは彼だ。いまでさえどこか声が不安げだ。
「正直、少し寂しいけどな」
「え?」
「な、なんでもない」
ポツリと呟かれたあまりにも可愛い独り言に、一瞬だけ心臓が大きく脈打った。急に飛び出す彼の本音には時折大いに驚かされる。でも同じように想ってくれることがなにより嬉しくもあった。
「落ち着いたらまたどこか出かけましょうね」
「そうだな」
いまは創立祭で生徒会に係りきりだけど、それももう少しで終わり、テストが終わればまたしばらく忙しさも薄れる。ゆっくり二人でいられる時間も多分きっと少しは増えるだろう。
「あ、すみません」
「どうした?」
ふいにリビングから聞こえてきた電話の呼び出し音。タイミングの悪いそれに内心舌打ちしながら、なかなか切れない音にため息をついてしまった。
そのまま留守電に変わるまで待っても構わなかったが、平日このくらいの時間に決まってかかってくる電話がある。高校に入ってからほとんど遊び歩かなくなった俺が、最近になって週末になると家に帰らないことに気づいた母親だ。普段はまるでこちらのことなど目に入っていないような素振りなくせに、なぜか急に俺の周りに干渉してくることがある。
「ちょっと電話が……あとでまた連絡します」
変に勘ぐられて彼に迷惑がかかるのは困る。なるべくバレないよう細心の注意は払っているが、面倒に巻き込みたくない。
「そうか、悪かった。またな」
「いえ、こちらこそすみません」
名残惜しさを感じつつ、携帯電話の通話をオフにしたと同時に受話器を取れば、丁度アナウンスに切り替わる寸前だった。
「はい、藤堂です」
「ああ、よかった。優哉くんだね」
受話器から聞こえてきた声は自分の予想とは違った。親しげに自分の名前を呼ぶ声その声を訝しく思い聞いていれば、黙っている俺に気づいたのか。突然謝りながら大きな声で笑いだした。
「すまんすまん。最後に会ったのは随分前だから覚えてないだろうな」
「はぁ、すみません」
名前も名乗らず覚えているもなにもない。けれどこの自分主義で上から物を言う雰囲気には覚えがある。間違いなく父方の誰かだろう。
「父のお兄さんですか」
「そうだ、覚えてたか? 川端だよ」
なにがおかしいのか一人で笑っている電話の向こうにいる男は、川端――つまり本家の人間か。
この家の主は父親の川端ではなく母方の姓を名乗っているので、兄弟でありながら名字が違う。本家には入れなかったいわゆる妾の子だ。最近は家にも寄りつかず、どこでなにをしているのかもわからない。けれどいまはそれさえ考えるのが面倒くさかった。
「父はいませんが」
「いや、今日は君に用があったんだよ」
「は?」
いつ会ったのかさえわからないくらいの親戚が、自分になんの用があると言うのか。途端に嫌な気分になった。ふいに峰岸の言葉を思い出す。
「お母さんから話を聞いてね。いま、優哉くんが通う学校は伯父さんも少し出資してるんだ。なかなか成績優秀らしいじゃないか」
いい予感がしない?
まったくだ。聞こえてくる声に胃の辺りがジリジリとした。以前、峰岸に親の話はしたことがある。面倒くさい家だなと笑っていたのが懐かしく思えた。
「いえ、それほどは」
私立であるうちの高校には、多くはないがいくつかの会社や資産のある卒業生が出資している。本家の川端は資産家だ。元々、母親が結婚したのもそれ目当てで、当時は親戚に男がいなかったから、うまくいけばと打算があったんだ。でもいまは本家に直系の男子も生まれた。すでに俺の父親が違うと旦那にもバレている。
今度はなにを考えているのか――重たいため息がもれた。
[予感/end]
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