別離06
僕が足を踏み入ることで藤堂が困るとわかっていても、藤堂が傷つけられているのに黙っていることはできなかった。戸を引く音に驚いたのか、ベッドの傍にいた男の人は肩を跳ね上げて振り返る。そして僕を見て気まずそうな表情を浮かべた。
「佐樹さん」
部屋に入ってきた僕を見た藤堂は戸惑ったように瞳を揺らした。勝手に身内の揉め事に頭を突っ込むのはやはり迷惑だったかもしれない。藤堂の視線を受け止めた僕の中にそんな思いがよぎる。
けれど意を決した僕は無言のまま足を進めると、まっすぐベッドへと近づいていった。そんな僕の行動に部屋にいた男の人は少し気圧されるようにして数歩後ろへ下がっていく。
手にしていたものを藤堂の前にあるオーバーテーブルに載せ、僕はこちらを伺い見る男の人を振り返った。そこにいる人は四十代くらいの一見どこにでもいる穏やかそうな雰囲気を持つ人だ。
身なりもきちんとしていて真面目そうな印象を受ける。けれどこの人が藤堂を追い詰めているのだと思えば、向ける視線もきついものになってしまう。
「あ、その、優哉、また来るよ」
僕の視線を受けた目の前の人は、うろうろと視線をさ迷わせる。それでも藤堂に視線を向けると、まっすぐに見つめた。その態度に苛立ちが募る。
懲りずにまだ来るつもりかと、そう言ってやりたい気持ちを抑えて拳を握りしめたら、そっとその手を藤堂が包んでくれた。その感触に驚いて振り返ったら、藤堂はゆるりと首を横に振った。
「帰ってください。いま答えを求められても決断できません」
「そうか、また来る」
藤堂の言葉に暗い表情を浮かべると、男の人は少し背を丸めて部屋を出ていった。その姿は哀れみの気持ちを誘うけれど、だからといって藤堂に負担を押しつけるのは違うと思う。
血の繋がりはないかもしれないが、ひと時は我が子として愛した子供だ。それなのに簡単に切り捨てて放り出してしまうなんて、どれほど身勝手なんだろう。
人の愛情はそんなに軽薄なものなのだろうか。親も一人の人間。確かにそうだ。それでも目の前で苦しんでいる子供を見て、さらに傷つけるその神経がわからない。
「藤堂、お前の様子が最近おかしかったのって、さっきの人のせいか」
「……すべてではないですけど、考えることは多かったかもしれません」
「少しは頼れよ」
藤堂が困っているなら、苦しんでいるなら一緒に考えるのに、どうしてこの手は僕にすがってはくれないのだろう。触れられていた手を握り返すと、僕は藤堂の瞳をじっと見つめた。まっすぐに覗き込んだその目は、少し戸惑うように揺れていた。
「すみません」
「謝るなよ。余計に寂しくなるだろ」
俯きがちな藤堂の視線を引きつけたくて、繋いだ手をもう片方の手で握りしめると、ゆっくりと引き寄せて指先に口づけた。
「なあ藤堂、行き先がなくて立ち止まっているなら、僕の家族になればいい」
「え?」
「西岡の籍に入ってもいいし、僕の籍に入ってもいい。それなら行きたくないところへ行かなくて済むだろう」
どちらも簡単ではないがそう難しいことでもない。藤堂が躊躇っているなら、この二つを選択肢に入れてもいいんじゃないだろうか。
「それは、考えてなかったですね」
「これじゃあ、駄目か?」
「……駄目ではないです。駄目ではないですが、少し考えさせてください」
しばらく考え込むように目を伏せた藤堂は、僕の視線に気づくと少し困ったように笑う。ずっと思い悩んでいたくらいだから、なにかほかにも方法があるのだろうか。
もしそうならば無理に押し進めることできない。小さく頷いてみせると藤堂は安心したような表情を浮かべた。
「佐樹さん」
「ん?」
「ありがとう」
「うん」
それからしばらくは重たい話題を避けて、二人で他愛のない話をして時間を過ごした。久しぶりに藤堂が笑っている姿を見られて少しほっとした気分になった。
けれどいつになったら藤堂は大人たちの都合に振り回されることなく過ごせるようになるのだろう。早く周りにある問題が解決すればいい、そう思わずにはいられなかった。
「あ、そろそろ帰るな」
「ああ、もうそんな時間なんですね」
「ちょっと今日は来るの遅かったからな」
「いつもすみません」
「いいんだ、好きで僕は来てるんだから」
時計の針は気づけば十五時を回っていた。最近は学校の生徒たちが見舞いに来ることもあるらしいので、鉢合わせないように僕は早めに帰らなくてはいけない。
藤堂と同じく学校を休んでいる僕が見舞い来ているのが知れたら、間違いなく疑問に思われてしまうだろう。余計な詮索をされても返答するのに困る。
「佐樹さん」
「なんだ?」
先ほどまでとは違う少し緊張感を含んだ声が僕を呼ぶ。その声に帰り支度をしていた僕は動きを止めて藤堂を振り返った。どうしたのだと問いかけたいのに、まっすぐと僕を見つめる藤堂の瞳に言葉が詰まってしまった。
「佐樹さん、俺がいなくなったらどうしますか」
「え?」
「俺がいなくても待っていてくれますか」
どういう意味だろう。これはなにかの例えなのだろうか。それとも本当に藤堂が僕の目の前からいなくなるということなのか。そこまで考えて胸が締め付けられるほどに痛んだ。
藤堂がいなくなることなんて想像しただけでも怖くて、辛い。また消えて失ってしまったら、僕はきっと耐えられない。けれど待っててもいいならいくらでも待つ。それで藤堂がまた隣に立ってくれるなら。
「すみません。なんでもないです」
僕の返事を待たずに藤堂は言葉を打ち消した。けれど僕の中にはもうその答えは浮かんでいる。
「藤堂、僕は待つよ。お前のことならいつまででも待てる」
「……」
僕の答えに藤堂からの返事はなかった。
二人のあいだに沈黙が広がり、僕はしばらく立ち尽くしていたが部屋を出ることにした。目を伏せた藤堂が一人にして欲しいとそう言っている気がして、とどまることができなかったのだ。本当はもっと話を聞きたかったけれど、いまは聞いて欲しくないのだと思った。
きっと呟かれたあの言葉は藤堂の弱音と本音なのだと思う。けれどまだ心の中で整理のつかない部分なのだろう。おそらく彼自身答えが定まっていない。でも思わず言葉にしてしまったんだ。
「もう少し待とう」
なにかを思い悩んでいる藤堂。彼の答えがどんなものになるかわからないけれど、僕ができることは紡ぎだされるその答えを待つことだけだ。それにいままでだってずっと待ってきたじゃないか。そして藤堂はちゃんと僕のところへ戻ってきてくれた。
だからきっと今回も大丈夫だ。いまは色んな悩みがあるかもしれないけれど、いつかそれも解決するはず。それは僕の強がりなのかもしれないが、そう思っていないと不安に押しつぶされそうになる。
「でももし離れ離れに、別れてしまうようなことになったら、その時はどうするだろう」
深く考えたことはないけれど、もし万一そんなことになったら僕はいったいどうするだろう。そこまで考えてまた胸が痛くなった。自分で思っている以上に僕の中で藤堂の存在は大きい。一度手に入れたぬくもりはそう簡単に手放せはしないのだ。
いまの不安定な藤堂を見ていると、本当に目の前から消えてしまいそうで。別れてくれなんて言われたら、きっと息の根が止まってしまう。
「いまは考えるのはやめよう」
藤堂はいなくなったら――と言ったのだ。まだ別れようと言われたわけではない。どうにも頭の中が先ほどから後ろ向きになっている。
首を左右に振ると僕は心の隅に引っかかっているものを振り払った。そして想像して落ち込むのは無意味なことだと言い聞かせると前を向いた。