別離09
バスと電車を乗り継いで最寄り駅に帰りついたのは日の暮れた頃だった。冷蔵庫の中身を思い出しながら近くのスーパーで買い物をして、マンションについた頃には外灯に明かりが点っていた。
そして随分と日暮れが早くなったものだなと思いながら、郵便受けを覗いていたら背後に人の気配を感じた。
「こんばんは」
突然かけられた声に身構えてしまった。けれど振り返ってその姿を確認すると僕は安堵の息を吐いた。あの事件以来、ひと気のないところで見知らぬ人に遭遇すると緊張するようになってしまった。
「こんばんは、まだなにかご用ですか」
胸をなで下ろす僕を見ているのは、もう数回顔を合わせ覚えた顔だった。野崎さんと館山さん――警察の人だ。僕の問いかけに野崎さんは「少しお時間よろしいですか」と答える。
特にもうこちらが話すこともないが、まだなにか確認をしたいことがあるのだろう。時間がないと言ったところでまたやってくるのだ。追い返すよりも話を聞いて帰ってもらうほうが早い。
「もしよかったら、部屋のほうへどうぞ」
幸い母親も実家へ帰って家には誰もいない。事件の話を聞かせて余計な心配をかけることもないだろう。小さく頭を下げる二人を僕は部屋に招き入れることにした。
「お母さまはいらっしゃらない?」
「もう腕のほうもだいぶ動かせるようになったので帰りました」
こちらを窺うような野崎さんの声に、僕は右腕を持ち上げて経過は良好であることを伝えた。
そういえば前に来た時は母親がいるからと手短に話を済ませたのだった。わざわざ確認するということは今日は話が長いのだろうか。そんなことを考えながら、僕は乗り込んだエレベーターの閉ボタンを押した。
「お加減よくなったようでなによりです」
本当にそう思っているのか、正直わからない単調な声音だったけれど「ありがとうございます」と返して僕は前を向いた。それから後ろに立つ二人は特に口を開くこともなく僕のあとに続いた。
「今日はどんなお話ですか」
部屋につき二人をリビングに通すと、僕はお茶を淹れるべくキッチンに立った。そしてソファで並んで座る二人に話を切り出した。
ここまで来るあいだに色々と考えたが、聞かれることはもうあと一つしかない気がする。ほとんどのことはもう答えてきたし、それ以上のこともない。
それは僕にとってできるだけ避けたい話題だ。
「事件以来、身辺にお変わりはないですか?」
「え? 身辺?」
てっきり藤堂のことを聞かれるのだろうと思っていた僕は、心の準備をして身構えていた。しかし実際は想像しているのとはまったく違うことを聞かれる。それは少し予想外のことだったので、思わず聞かれた言葉を聞き返してしまった。
「現場を立ち去った二人はまだ身柄確保できていません。なにもなければいいのですが」
問いかけられた言葉の意味を飲み込めずにいると、野崎さんが言葉を補足するように答えてくれた。その言葉で僕は忘れかけていたことを思い出す。
「ああ、そうでしたね」
藤堂を刺した仁科という男は逃げ遅れて現場ですぐに逮捕されたが、先に姿を消した二人の足取りはいまだつかめていないらしい。
警察の調べで判明しているのは三人が暴力団の関係者だということ、彼らが今回も含む四件の事故、事件に関わりがあることだ。それ以外の情報はいまのところ聞かされていない。
「下っ端の仁科とは違い、残りの二人はヘタを打つ真似をするとは思えませんので、心配はいらないと思うのですが。念のため気をつけていてください。一応こちらでも住宅近辺の巡回は増やすよう依頼しています」
「……ありがとう、ございます」
できればずっと忘れていたかった出来事だが、そうもいかないようだ。あの日のことを思い出すといまだに震えが止まらなくなる。
事件のあと、腕の痛みが続いた数日は夢に見て毎晩うなされたほどだ。あの時あの瞬間、自分は殺されるかもしれないと本気で思った。
あの二人がまた現れる可能性は低いが、まだしばらくは野崎さんの言うように身の回りに気をつけていたほうがいいのかもしれない。
「それと写真が送られてくるようになった時期はいつ頃ですか」
「時期、ですか。いつだったかな……確か、八月半ば頃だと思います」
最初に写真が届いた時は母親が荷物を受け取っていて、しばらくそれに気がつかなかった。でも夏休みに帰省する前、母親が実家に帰った時だったから八月で間違いないだろう。
「八月ですか」
「時期とかもなにか事件に関係あるんですか?」
写真の出処は藤堂の母親であることは藤堂からも聞いている。野崎さんの話では写真は僕だけじゃなく、藤堂の母親に襲われた女性にも送られてきていたようだ。
夏頃から様子がおかしいことも聞いていたから、事件の発端は藤堂や夫に執着し過ぎての凶行とかそういうことなのかと思っていた。
「いま事件を洗い直していまして、ほかにも犯人がいる線が浮上しているんです」
「え? ほかにも犯人がいるんですか?」
思わぬ言葉に少し声が大きくなってしまった。慌てて咳払いで誤魔化すと、淹れたお茶をお盆に載せて僕はリビングに足を向けた。
「今回、藤堂彩香は二つの事件を起こしましたが、西岡さんの事件は容疑者の精神状態から一人で計画や犯行は行えないだろうという結論が出まして」
「そう、なんですか」
テーブルに湯呑みを置きながら、僕は少し考えてしまった。藤堂の母親は確かに精神状態はかなり悪かったと聞いている。
だから藤堂も母親のことをはっきりと疑えずにいた。しかしいくら考えてみても、藤堂の母親以外に僕は恨まれるようなことはしていないと思う。ほかにいるという犯人は協力者ということなのだろうか。
「そういえば、僕の事件と言いましたが、今回の事件に僕の名前がないのはなぜですか?」
事件後に新聞を読んだら小さな記事が載っていた。公園で男子高校生が刺されたという事件だ。しかしその記事を詳しく読むと、なぜか被害者である藤堂が通り魔的に被害にあったということになっていた。
そしてそれだけではなく僕の存在がないものになっていたのだ。事件の原因になったのは僕だと言うのに、そこだけが切り取られたかのようになくなっている。
色々な媒体を確認してみたがどれも同じような内容、もしくは記事にもなっていない状況だった。
「確かに報道のほうで誤りはありましたが、こちらからも訂正を求める指示は出ていないのでなんとも」
野崎さんは僕の問いかけになんだか歯切れの悪い回答をする。このあたりはあまり口外ができないことなのか。警察が誤った報道を訂正できないとはどういった状況なのだろう。
そういったことに詳しくない僕には想像もつかない。けれどふいに野崎さんの隣に座っていた館山さんの身体が前のめりになる。
膝に両手をついてこちらをじっと見つめる視線に、僕は訳もわからず首を傾げた。
「あー、要するに上のほうからの圧力ですね」
「おい、館山」
「本当のことじゃないですか」
言葉を濁し難しい顔をしていた野崎さんだったが、いままで口を閉ざしていた館山さんが突然とんでもないことを言い出すので、慌てたように声を大きくした。けれど眉間にしわを寄せる野崎さんとは対照的に、館山さんは飄々としている。
「え? 圧力?」
館山さんの言葉に驚き過ぎて僕は思わず大きく首を傾げてしまった。まさか僕などの事件にそんな影響力がある人間が関わっていると言うのだろうか。僕は一介の高校教師だ。大それたことには関わりなんてないし、館山さんの言う言葉は簡単には飲み込めないものだった。