部屋の中がしんと静まり返ってどのくらいの時間が過ぎただろう。足にしびれが来るくらいだから、もう十分以上は過ぎたかもしれない。けれど僕も荻野さんも衣擦れの音一つさせることなく、この静かな空間で口を閉ざしている。
けれどずっと視線は感じていた。じっと僕を見つめる視線。それはなにを思い見ているのかわからないけれど、さながら審判を待っているような気分だと思った。
ここで頷いてもらえなければ死刑が確定、藤堂には会えなくなる。話している限り荻野さんは藤堂の行方を知っているようだし、彼以外に知っている人物を探すのは僕には困難だろう。
そう思うと下げた頭は上げられない。しかしずっと身じろぎ一つしなかった荻野さんが、急に小さなため息と共に立ち上がった。
「荻野さん!」
このままでは部屋を出て行ってしまうと、僕は思わず頭を上げてしまった。彼はふすまの前で立ち止まり、僕をゆっくりと振り返った。こちらを見るその表情から心の中は覗けない。
失敗してしまっただろうか。焦りで一気に身体が冷えていく。追いすがりたい気持ちを抑えてぎゅっと手のひらを握ると、また荻野さんは小さなため息をついた。
「俺の一存では居場所は教えられません」
「え、それは」
「優哉の面倒を見ているのは俺ですが、保護しているのはまた別の人です」
「じゃあ、その人に連絡を取ってもらえるんでしょうか」
一存では教えられないという言葉の裏を返せば、もう一人の相手に連絡をしてもらえるということではないのか。期待をしてもいいということだろうか。
じっと荻野さんを見つめたら、少し居心地の悪そうな表情を浮かべる。しかし浮き上がった気持ちを抑えることができるはずもなく、僕は荻野さんから視線を離せなかった。
「待っていてください。連絡を取ってみます」
「ありがとうございます!」
相変わらずのため息交じりだが、荻野さんは僕の顔を見て小さく笑った。それは蔑むようなものではなく、思わずこぼれたような笑みだった。
ふすまを引いて部屋を出て行く後ろ姿を見ながら、僕はほっと胸をなで下ろした。まだ第一関門をクリアしただけだから喜んでいる場合ではないのだが、居場所の特定ができそうだという安心感が湧いてくる。
「よかった、見つかった」
ずっと連絡がつかなくて居場所がわからなかったから、安否がずっと心配で不安だった。手がかりは荻野さんしかなかったので、宛てが外れていたら振り出しに戻るところだった。
しかし手がかりらしい手がかりもなく、一発で当たりを引き当てたのはかなり奇跡的なことなんじゃないだろうか。
まだ僕と藤堂の縁は切れていないということか。まだ僕たちは繋がっていられる、そういうことならばいいなと、はやる胸を押さえ僕は大きく深呼吸した。
それから再び訪れた静寂の中で荻野さんを待った。音もないほどの静けさは待っている時間を随分と長いもののように感じさせる。そういえば時計があったのだと、気がついたのは十五分くらい過ぎてからだろうか。
腕時計を見るともう少しで二十時半になるところだった。ここに来たのは十九時だから、思っていたより時間が過ぎていた。
「あっ」
ぼんやりと壁を見つめたまま少し放心していたら、急に微かな音を立てふすまが開いた。それに気がついた僕は、気の抜けていた佇まいを直し慌てて正座する。
「寛いでいていいですよ」
「いえ」
「そんなに緊張しないでください」
向かい側に腰を下ろした荻野さんは僕の顔を見て目を細めて笑った。そんなに緊張が顔に出ていただろうかと、思わず頬に両手を当てたら、吹き出すようにして笑われた。
「あなたは本当に素直で可愛い人ですね」
「え?」
「俺にはやはりあなたには普通の優しい家庭が似合う気がしているんですが、あなたはそれを望まないんですね」
僕に非があって藤堂とのことを認めてくれないのだとそう思っていたが、もしかして彼は僕のことまで気にかけてくれていたのだろうか。予想外の言葉にうろたえていると、荻野さんは困ったような表情を浮かべて小さく笑う。
「俺は西岡さんが思っているほど優しい人間じゃありませんよ。俺の願いとしては、早々に別れてお互い最良の選択をして欲しいんですが」
やはり荻野さんの願いはそこなのか。けれどそれに僕は頷くことはできない。
「確かに、その願いは優しくないですね。それに僕にとって別れることは最良の選択とは言えません」
「あなたの、ではなくお互いの最良を考えてみてください」
まっすぐな言葉と眼差しに無意識のうちに目を伏せてしまった。最良の選択――それがいったいなんなのか、正直に言えばよくわからない。
けれど僕にとっての選択は一つしかないし、藤堂もまだ僕のことを想ってくれていると信じている。伏せた目を持ち上げて、僕はまっすぐと前を向いた。
「僕は誰に止められても藤堂と一緒にいることを望んでしまいます」
「けれど優哉は、最愛であるはずのあなたにすら連絡を取っていない。いまあなたに助けを求めていないんですよ。それでも望みますか?」
「そうですね。藤堂は僕に頼ってくれていないけれど、僕が藤堂の傍を離れる時は、彼に僕を必要としないと言葉にして伝えられた時だけです。それに藤堂は不器用過ぎるほど不器用です。助けを求めないのではなく、求められないでいる可能性のほうが高いと思っています」
助けを求めてもらえないことは、すごく寂しくて歯がゆくて辛いことだ。けれど僕にとってはそれと傍を離れるということは別の問題だと思っている。僕が信じるのは藤堂の言葉だけだから、それ以外のことで心を揺らしていてはいけない。
「優哉の言葉を聞くまでは引かないと言うことですね」
「はい、それを聞かない限りは最良の選択はできません」
藤堂に会うまでは一歩も退けない。会ってその言葉を聞くまで僕はなにも手放すつもりはない。その意思を込めて荻野さんの視線を見つめ返すと、少し重たいため息を吐き出された。
「見かけによらず頑固ですね」
「すみません」
「いえ、そのくらいではないと優哉を預けてもいいとは思えませんしね」
肩をすくめて笑った荻野さんの表情が少し和らいだ。もしかして少しは認めてもいいと思ってくれたのだろうか。そうであればいいと期待を込めた視線で荻野さんを見つめたら、やんわりと目を細めて微笑まれた。
「その日のうちに俺にたどり着く運も持ち合わせているようだし、期待してもいいのかな」
「会ってくださったことは感謝してます。荻野さんが会ってくれなかったらまだ途方に暮れていた」
ここまで僕は本当に運がよかったと思う。いなくなった藤堂はなんの手がかりも残していかなかったというのに、こうして荻野さんに会い藤堂のところまでたどり着いた。人生の運をすべてここで使い果たしているのではないだろうかと、そう思わずにいられないくらいだ。
「まさか優哉が誰にも連絡を取らないとは思わなかったのですよ。近いうちに連絡がいくだろうと思っていたんですけどね」
「あ、だから会う日を先延ばしにしたんですか」
「ええ、わざわざ俺が出るまでもないと思っていたので」
確かに普通ならその日に連絡ができなくても後日連絡がいくだろうと、そう思ってもおかしくない。結果的にはいい方向へ進んだけれど、僕の行動は焦り過ぎているように見えたかもしれない。
けれどあの時の藤堂はすでにかなり追い詰められていたし、このまま音信不通になる恐れは大いにあった。周りから見れば大げさでも僕の目から見たら、焦らずにはいられない状況だった。
「本当は優哉が連絡を絶つような頼りにならない恋人は、もっとなじって切り捨ててやりたかったんですけど」
「気持ちを改めていただけて、助かりました」
「西岡さんには少しほだされたかな。こじれやすい優哉には、あなたくらいまっすぐな人がいいんでしょうね」
大きく息をついた荻野さんは肩をすくめて笑う。至極優しく微笑んだ荻野さんに僕は少し戸惑ってしまった。いままでのやり取りから見ても、まさかそんな笑みを見せてもらえるとは思わない。けれど荻野さんは僕をまっすぐに見つめて、少し眩しそうに目を細めた。
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