離れることは辛いけれど、きっとこの距離は藤堂を変えてくれるはずだ。そう信じているからこそ、僕はその背中を押してあげられる。ゆっくりと身体を離して、まっすぐに藤堂の瞳を見つめた。
涙で潤んだその目は薄明るい中でもキラキラして見えて、それに誘われるようにまぶたに口づけた。
「藤堂、どんなお前でも僕は許せる。どんなお前でも僕は好きだ。だけど、いまもこれから先も、もうお前の世界から放り出されるのは勘弁だ」
「一人でも、平気になりたかったんです。だけど佐樹さんの言葉を知るたびに会いたくなったし、離れているのが我慢できなくなりそうだった」
携帯電話に残したメッセージは全部伝わっていたんだ。一件だけの着信は、一人でいる我慢ができなくなったからなのだろう。もしあの時、僕が電話に出ていたとしたら、きっとなにかが大きく違っていたのかもしれない。
それがどんな未来だったかいまはもうわからないけれど、どんな未来だったとしてもいまが最善だと思いたい。
「離れたら余計に佐樹さんが恋しくてたまらなくなった」
「我慢なんてするもんじゃないってわかっただろう」
不器用過ぎるほど不器用な藤堂。きっと独り閉じこもって僕のいない世界を想像していたに違いない。自分一人だけで生きていけるか試そうと思ったんだろう。
馬鹿だな、誰も待っていない世界で我慢したって苦しいだけに決まってる。待ってくれている人がいるから頑張れるんだよ。
「佐樹さんのいない世界は真っ暗闇でした」
「離れるって、二度と会えないってことじゃないだろう」
「自信がなかったんです。あなたのいない世界で生きていくなんて想像できなくて」
離れたくないのに離れる。会いたいのに会えなくなる。触れたいのに、触れられなくなる。この矛盾の中で藤堂ができることは、自分を殺してすべての感情を押し込めることだった。
けれど胸に押し込めた感情はあふれるほど膨れ上がって、心がひび割れそうになるほど藤堂を苦しめた。
「本当に馬鹿だなお前は。極端なんだよ。ほら、こうして繋いでる手だって、離れても心でちゃんと繋がってる。僕たちはいつだって一緒だよ」
「佐樹さんは寂しくないですか?」
「馬鹿! 寂しいに決まってるだろう。寂しくて仕方がないよ。だけどお前が帰ってくるって信じてるから待っていられるんだ。お前も僕が待っていると思って頑張れ」
涙で濡れた頬を包み込んで引き寄せる。そしてもう一度唇を重ねれば、伸ばされた腕に抱きすくめられた。少し強いくらいの抱擁に安堵した気持ちになる。愛おしいこの男は自分のものなのだという安心感。腕を伸ばして首元に絡めると僕も強く藤堂を抱きしめ返した。
「藤堂、僕はお前を許してはいるけど、怒ってるぞ」
「……すみません」
「藤堂の考えることは僕のことを一番に想ってくれているけど、僕の気持ちを無視してる。お前の決めたことが間違いだとは思わないけど、僕のことを想うなら僕の気持ちも想像してくれ。お前が僕を想うように、僕もお前を想ってる」
藤堂はまだまだ心が未熟だ。大人の中で振り回されて、自分のことを考えるだけでも精一杯なのかもしれない。だけどこれからは離れてしまうのだから、僕が傍で補ってあげることもできない。
「なんでも自分で解決するな。人を頼る癖をつけろ。お前は一人で生きてるわけじゃない。お前のこと心配してる人はたくさんいるんだ」
「佐樹さん」
「僕に謝るな。謝るならほかのみんなにだ」
藤堂のことを想っている人は想像するよりも多いんだってこと、彼は知らなきゃいけない。知ってそのありがたみをもっと感じなくちゃ駄目だ。
「これからたくさん経験をして、色んな人に出会って、お前は成長していかなくちゃいけないんだ。お前の世界にいるのは僕だけじゃない。もっと広くちゃんと見渡すんだ」
新しい世界は藤堂にどんな変化をもたらすだろうか。まったく新しい場所に行くのだから、藤堂の世界を大きく塗り替えてくれるくらいの変化だといいなと思う。
愛情をたっぷり与えられて、望むことを自分で選び取っていけるそんな自由な世界だったらいい。これから先は誰の存在にも怯えることなく、のびのびと暮らして欲しい。
「向こうへ行ったら働きながら勉強をさせてくれるって言ってました」
「そうか、学校で勉強するより実践で覚えるほうが役に立つことが多いかもしれないな」
「もう店の候補は考えてあるから好きに選んでいいって」
「それは至れり尽くせりだ。ありがたく思って目いっぱい頑張らないといけないな」
ぽつりぽつりと語る藤堂の言葉を聞きながら、僕は未来を想像した。彼が時雨さんの元へ行くのはきっと藤堂のためになる。ここにいるだけでは経験できないことを体験して、それが将来に生かされる日が来るだろう。そうしたらきっと藤堂の夢も叶えてあげられる。
「でも少しだけ怖い。受け入れてもらえるか」
「大丈夫だよ。藤堂なら大丈夫だ」
これから未知な土地へ行き、会ったこともない家族と暮らす。不安は尽きないだろう。でも言葉にしていくうちに少しずつ藤堂の心が落ち着きを取り戻しているのが感じられた。躊躇いや不安はまだ拭えないけれど、心が確かに未来を形作り始めている。
「そうだ、いつか藤堂の店で一番のお客にしてくれよ」
「何年先ですか、それ」
僕の言葉に目を丸くし、ふっと笑みをこぼしたその表情に胸が高鳴った。藤堂はやっぱり笑った顔が一番似合う。
「んー、わかんないけど。でも何年後でも信じて待ってる」
夢を形にするために、家族を手に入れるために藤堂は旅立つんだ。それは僕にはできないことだから、しっかりと背中を押してあげたいと思う。そして何年か先の未来、もう一度藤堂の隣に立てるように僕も頑張らなくてはいけない。
「そうだ、学校は卒業しろよ。退学届は無効だからな。まったく、びっくりさせやがって」
「すみません。このままじゃ、もう傍にはいられないと思って」
「あんまり一人でなんでも決めるなよ。ちゃんと相談しろ。僕じゃなくてもいい。誰にでもいいから」
「……わかりました。佐樹さんが、そう望むなら」
「途中で放り出したら駄目だ。全部ちゃんと片づけて、行くのはそれからだ」
あの退学届は僕が辞めることになってしまった時、自分も辞める覚悟をするためのものだった。けれど学校を辞めて旅立つ覚悟でもあったのではないだろうか。しかし藤堂は三年ずっと頑張ってきたのだ。ここで中途半端に終わらせたくはない。
「佐樹さんは、あれから学校はどうしました?」
「あー、うん。実はいまはずっと休んでる」
「え? なにかあったんですか?」
藤堂の問いかけに少し言葉を濁してしまった。しかしここで誤魔化しても仕方がない。藤堂もひどく焦ったように僕を見つめている。
「僕が生徒と付き合ってるって投書が学校にあったんだ。いま学校の審査待ち」
「もしかして川端ですか?」
「うん、多分な。でも新崎先生が免職処分にならないように動いてくれてるから、きっと大丈夫だ」
泣き出しそうに顔をゆがめた藤堂は僕をきつく抱きしめる。その抱擁を受け止めて、僕はなだめるように藤堂の背中を優しく叩いてあげた。僕からなにも奪いたくないとそう思っている藤堂だから、きっといま胸が苦しくて痛くてたまらないだろう。
「大丈夫だよ」
「俺の選択は間違っていたんでしょうか」
「どの選択でもそれがその時の最良なんだよ。間違いはない。僕だってこれからまだまだ頑張る」
せっかく藤堂が残してくれた道だ、ここでこのまま終わらせるつもりはない。もし万一に駄目になったとしても諦めるつもりはない。また最初からやり直す覚悟を決めた。それは簡単なことではないけれど、藤堂のためと思うならいくらでも頑張れる気がする。
「もしかしたら卒業式は見られないかもしれないけど、お前の卒業証書は一番に見せに来いよ」
「はい、頑張って卒業しますね」
まだ少し悔やむ気持ちが残っているのか藤堂の表情は晴れない。けれど不安をいっぱい胸にためた藤堂のぎこちない笑みがひどく愛おしいと思った。
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