疑惑06
渉さんが歩いていった先には喫煙室があるらしく、長い撮影の合間にもし煙草を吸うならと、スタッフの人が場所を教えてくれた。けれど僕は生憎と喫煙者ではないので、気持ちだけ受け取って聞き流していた。
いまどきは禁煙禁煙と言われるが、やはり根を詰める仕事は喫煙者は多いのかもしれない。普段渉さんは僕の目の前では吸わないが、待ち合わせていると煙草を吸っている横顔をよく目にする。たまに香りがすることもあるから、頻度は多いのだろう。
「すいません! 十五分くらい休憩になります!」
しんとしていた室内に声が響くと、全体に張り巡らされていた緩やかな緊張が解きほぐされ、少しだけその場にいる人たちの声も大きくなった。にわかにざわめき始めた中で、僕はふと時計を見上げる。
午前十時頃に始まって、いまはもう十七時になろうとしていた。ただ見ているだけでも少し緊張するくらいだから、携わっている人たちはもっと糸を張っているのだろう。長い間その中で仕事をするのは、想像以上に大変そうだ。
先ほどまでの緊張感と、打ち解けたいまの空気の違いに思わず息をつく。プロの仕事というのは、やはり並大抵のことではないのだなと思った。
「佐樹さん」
「あ、藤堂、お疲れ様」
ふいに名前を呼ばれて振り返ると、先ほどまで遠くにいた藤堂がすぐ傍に立っていた。それに気づいて笑みを返したら、じっとこちらを見ていた藤堂にいきなり片手を取られて、無言のままそれを引っ張られてしまう。
それに驚いて声を上げそうになるが、そんな隙もないほど足早に藤堂は出入り口を抜けて建物の廊下へと進んでいく。
「藤堂?」
どんどんと進んでいく背中に戸惑いを覚えて、少しばかり上擦った情けない声で呼びかけてしまった。けれど強く握られた手は離れることもなく、藤堂の歩みも止まることはない。
しばらく廊下を歩いた藤堂は、どこかの扉を開いたかと思えば、そこに身体を滑り込ませ僕の手を強く引いた。そして薄暗いそこで、引かれた勢いのまま僕は藤堂の胸に収まってしまう。
耳元にいつもより少し速い藤堂の心音が聞こえる。
「ここ、勝手に入って平気か?」
微かな照明が灯るそこは倉庫になっているのか、雑多にものがたくさん置いてあった。しばらく薄暗い中で視線を巡らしていると、意識がそれているのを咎めるかのように藤堂は抱きしめる腕の力を強くする。
「佐樹さん」
優しく甘えるように名前を呼ばれては、僕もその声の先を見上げずにはいられない。腕を伸ばして藤堂の背中を抱くと、嬉しそうに頬に顔を寄せてくる。そんな藤堂が可愛くて、でもなんだかくすぐったくて小さく笑ってしまった。
「ああ、やっと触れた」
「疲れたか?」
「疲れました」
長い息を吐く藤堂の髪をなだめるように優しく撫でると、まるでその手をねだるみたいに藤堂は頭や頬をすり寄せてくる。けれどあまり触り過ぎるとせっかくセットされた髪が乱れてしまう。それに気をつけながら再び髪を撫でれば、その手にやんわりと口づけられた。
「まだもうしばらく続きそうなので、充電させてください」
「なんだか悪かったな。こんなに大がかりだとは思ってなかったから、僕も驚いてる」
「まあ、一日の辛抱なので」
ため息交じりの声が耳元から聞こえてきて、僕はあやすみたいに藤堂の広い背中を軽く叩いた。するとふいに身を屈めた藤堂が僕の首筋に口づける。その突然の感触に肩を跳ね上げたら、その肩を逃すまいと掴まれてしまった。
「もっと触らせて」
「え! ちょっと、待った、藤堂?」
「佐樹さんが足りない」
唇で首筋をなぞり、手のひらは背中や肩を撫でる。その触れる感触に鼓動は急激に早まり、頬は自分でもわかるほどに熱くなった。慌てて身をよじるけれど藤堂の腕はそれを許してくれない。
耳たぶを食み、着ているカットソーの上から身体のラインを辿るように手を滑らされれば、意識しなくとも身体がじんと痺れるような感覚に陥る。そしてそんな自分の反応に、顔の熱が全身に広まるような気がした。
「駄目、だ。ほんとに、……っ、変な気分になる」
自分で言っていて恥ずかしいことこの上ないが、身体は正直だ。一度教え込まれた感触は忘れようがなくて、触れる唇が、そして手がじわりと奥底の熱を引き上げる。
「佐樹さん、いやらしくなったね」
「は? 馬鹿! 誰がそうし」
「俺ですね」
耳元で小さく笑われ囁かれた言葉に心臓が跳ね上がった。楽しげな雰囲気をまとう藤堂を睨んでやろうと思ったが、耳たぶを食んでいた藤堂の唇はそこを離れ、文句を紡ごうとした僕の唇に触れる。そして唇と舌先で僕の唇をたっぷり味わった藤堂は、ほんの少しの口づけだけで息を上げている僕に目を細めてさらに奥へと入り込んできた。
舌先が擦れ合い絡め取られれば、次第に僕は抱きつくというよりもしがみつくが正しい状態になってくる。涙でぼやけた視界で藤堂を見つめると、ますます口内を優しく舌先で撫でられた。身体を撫でる手と口内を撫でる舌先に頭が沸騰しそうになってくる。
「と、藤堂。ほんとに駄目、だ」
切れ切れの息でなんとかそう紡ぐと、唇がやっと離れてしっとりと濡れた僕の唇を藤堂の舌が辿るように撫でる。
その感触に肩が震えて、熱くなる頬を誤魔化すように俯いた。そしてまっすぐ立っていられなくなった僕は背に回していた手を解くと、胸もとにしがみついて藤堂にもたれかかるように肩口に頬を寄せる。
「前より敏感になってきた?」
「そういうこと言うな」
「すみません、ちょっと可愛くて」
楽しそうに笑う藤堂の表情にむっと口を尖らせたら、指先で首筋から顎にかけてなぞられる。まだ肌が火照るいまはそれだけでも大きな刺激になってしまい、肩が無意識に跳ね上がってしまった。
すると指先は頬を滑り、最後に僕が一番弱い耳の輪郭をなぞる。少し強めに縁を撫でる指先の感触に肌がざわめく。
「……んっ」
小さく声を漏らした僕に藤堂は小さく笑って、目を伏せた僕のまぶたに口づけを落とす。優しい口づけだけれど、いまその感触は心臓を締めつけるほど苦しいものなる。けれどそれは背徳感などではない。心に広がり侵食してしまうほどのもどかしさが胸を締めつけるのだ。
もっと触れたい、触れられたい、けれどそれがいまは叶わない。そんな想いがあるから胸が締めつけられる。
「来週も会えるか」
「泊まれるかはわからないですけど、日曜日は必ず佐樹さんの家に行きますよ」
「うん、少しでも一緒にいられるならいい」
そっと持ち上げられた指先に口づけられ約束をもらうと、胸を締めつけていた重くもやもやとしていた気持ちが少しだけ晴れた気がする。単純なやつだと自分でも呆れるけれど、こればかりはどうしようもないんだ仕方がない。
本当に好きとか愛してるっていうのは優しいばかりじゃない。貪欲で相手の心が欲しくてたまらなくて、愛おしさが溢れて仕方がない。
藤堂に出会って甘くて優しい恋も、ほろ苦くて切ない恋も知った。藤堂といると色んな世界が見えてくる。僕の中でなによりも色づいたこの想いは、これから先もきっとたくさんのことを覚えていく。そしてそのたびに何度も愛おしいと胸を募らせるだろう。
楽しいことばかりではないけれど、それでも藤堂といると心が安らぐ。早く二人だけでいられるようになればいい。そんなことを思いながら、僕は腕を伸ばして藤堂を強く抱きしめた。