疑惑07

 あれから休憩が終わったと告げに来た峰岸が倉庫の扉をノックした。迷うことのない足取りでまっすぐたどり着いた峰岸に驚いたが、どうやら撮影前に倉庫と楽屋の扉が隣り合わせだから間違わないようにと、スタイリストの宮原くんに言われていたらしい。

 けれど藤堂が僕の手を引き出て行った後ろ姿を見て、そこに行ったのだろうと予測されていたのかと思えば羞恥しかない。僕の顔を見てにやにやと笑った峰岸の顔が心の内を見透かしているようで、なんだかひどくいたたまれない気持ちになった。
 それからそんな気恥ずかしさに悶々としている僕をよそに、後半の撮影も藤堂と峰岸は順調にこなし、すべての作業が終わったのは二十時を回ったところだった。

「お疲れ様でした。今日は好きなだけお肉食べていいからね」

「よーし、んじゃこの辺から」

 撮影が終わったあと、渉さんがご飯をご馳走してくれるというので近くにある焼き肉店に来た。しかしそこは普段なかなか入ることができないだろう、桁のちょっと違う店だ。広い半個室の座敷に通され、メニューを見て値段が書かれていないことにまず驚く。

 正直言って気が引けてヒヤヒヤしていたが、峰岸の遠慮のなさでその気持ちがどこかへ行ってしまった。開き直りというか諦めのような気分。とはいえ僕が遠慮したとしても、戸塚さんがどんどん頼んでしまいそうでもある。現に峰岸と二人でほとんど注文を済ませてしまった。

 まだ仕事が残っている渉さんと戸塚さんはお酒は飲めなくて、全員お茶で乾杯すると肉がやってくるまで雑談を始める。向かい側にいる峰岸と渉さんはなんだかやけに親しい感じで、いつの間にそんなに仲よくなったのだろうと思ったが、部活の時に連絡先を交換していたと藤堂に教えてもらった。

「そういえば、雑誌っていつ頃発売になるんですか?」

「あ、えーとね。確か来月の下旬の発売だったはず。できたのみんなの家に送りますね」

「いや、発売日がわかったら買いに行きます。自分で手に取ってみたいので」

「そっか、本屋で手にするドキドキ感は大事だね」

 雑誌は二十代向けのファッション誌だが、女性向けの雑誌ではないので本屋で手にしても恥ずかしくないだろう。しかしあれだけたくさん撮ったけど雑誌にはどのくらい使われるんだろうか。

 朝から夜までずっと撮りっぱなしだったから、百単位で撮ったはずだ。三ページも増えたと聞いたけれど、それでもきっと掲載されるのは十分の一くらいな気がする。
 そう考えると、なに気ない気持ちで眺めているものにかかる労力というものを改めて感じた。

「そうだ、一真。大学合格できたらいいところ紹介してあげるよ」

「あ、マジで?」

「ん? 峰岸、やっぱりモデルに興味あるのか?」

「あー、まあ、なんとなく」

 渉さんの声に視線を向けると、峰岸は少し照れくさそうに笑った。そういえば最初から峰岸はこの話に乗り気なところはあった気がする。今日やってみて思いのほか楽しかったのだろう。撮影中はかなり生き生きとしていた。峰岸ほど華がある男ならそこそこ成功できそうにも思える。
 仕事の話を楽しそうに聞いている横顔を見るとなんだか少年らしくて可愛い。

「あ、お肉きたよ。たくさん食べてね」

 そうこうしているうちに見るからに上質そうな肉が山盛りやって来て、二枚の網の上にどんどんと載せられていく。手際よく戸塚さんが肉を返せば、それは次から次へと峰岸の腹に収まっていった。そんな様子にあっけにとられていると、程よく焼けた肉を藤堂が皿に移してくれる。

「佐樹さんも食べないといいところ全部食べられちゃいますよ」

「ああ、うん。ありがとうな」

「なにが好きですか?」

「んー、ハラミとタン塩」

 網の片側を峰岸に譲るともう片方の網で藤堂が僕の好きなものを焼いてくれた。食べるスピードに合わせてゆっくりと焼いてくれるので、空になった皿にひょいと載せられるとついつい箸が伸びてしまう。

「あ、来られたんだね! こっちこっち!」

 しばらくみんなで焼き肉に夢中になっていると、ふいに戸塚さんが顔を上げて誰かに手を振る。その声に全員が疑問符を浮かべて戸塚さんの顔を見た。満面の笑みは親しい相手に向ける優しい顔だ。一体誰が? と首を傾げたところで、その人物が僕たちのいる席までやって来た。
 渉さんの背後にある衝立に手をかけ、こちらに顔を見せたのは夏の部活動以来の人物。

「は? なんで君がここにいるわけ?」

 その人を見た瞬間の渉さんの顔と言ったら、眉間にしわを寄せひどく嫌そう。そんな表情を見て相手は少し困ったように笑い、僕らに向かって小さく会釈した。

「あ、瀬名くん。月島くんの横、空いてるから座って」

「ちょっと待って戸塚さん! これどういうことなのさ!」

「えー、仕事終わったって連絡が来たから、間に合うならおいでって声かけたんだよ」

「なんで! 意味わかんないんだけど! こいつは関係ないでしょ!」

 隣にある隙間に腰を下ろされ、あからさまに渉さんは身体を引いた。けれどその反応には慣れているのか、瀬名くんは気にせず店員に飲み物やメニューを頼んでいる。主原因の戸塚さんなどはもうまったく関係ないみたいな顔で肉を頬ばった。渉さんには申し訳ないけど、この空気は騒いだほうが負けな気がする。

 それにしても渉さんの瀬名くんに対する態度がいまいちわからない。以前会った時は自ら傍に置いている印象があったけれど、いまは傍にいるのも嫌って言う顔をしている。どっちが本当の感情なんだろう。これはどっちかじゃなくて、どっちもなんだろうか。相反する気持ちが混在している、ということなのか。

「あの、戸塚さんから見て、二人はどうなんですか?」

 目の前にいる渉さんたちに気づかれないよう、こっそりと隣に耳打ちすれば、戸塚さんはしばらく二人を見つめてからゆっくりとこちらを振り返る。そして小さく唸ってから、ぽつりと呟いた。

「半々かな」

「半々?」

「うん、まだどっちつかずだね。主に月島くんが。表面上は結構気を許しているんだけど、多分まだもっと奥のほうで引っかかってるものがあるのかも。僕たちが覗けない、うんと深いところ」

 僕たちが覗くことのできない深いところ。渉さんはいつも上手に仮面を被る。優しい笑顔で心の中を覗かせない。それはなんとなく気づいていたけれど、言葉にされるとなんだかすごく深い闇のような気がした。渉さんが抱えているものはなんだろう。瀬名くんはそれに気づいているのだろうか。

「瀬名くんは一番近いところにいる。だから余計に警戒しているんだよ」

「二人はうまくいかないんですかね」

「んー、どうだろうね。佐樹さんはうまくいって欲しい? 自分から感情が離れればいいって思ってる?」

「あ、えっと、はい。思ってます」

「そっか、でも僕は月島くんの佐樹さんへの気持ちはいま必要な気がしているよ。いま彼が立っていられるのは佐樹さんへの想いがあるからこそだと思う。月島くんは人の裏側がよく見える子だから、佐樹さんみたいに裏表のない人のほうが安心できるんだよ」

 なに気ない顔をして戸塚さんは言うけれど、それって依存に近いのではないだろうか。でも僕という存在を拠り所にして、そこで安心を得ても結局報われない。好きでいてくれるのは嬉しい。しかしそれではいつまで経っても渉さんは本当に幸せにはなれないのではないか。

「瀬名くんもほとんど裏表ないから、一緒にいられるんだろうね。いつか佐樹さんの元から巣立つ日は来るよ。でもそれはきっといまじゃない」

「瀬名くんは辛くないんでしょうか」

「そりゃあ、辛いし苦しいよ。だけどね、ほら、見て」

「え?」

 戸塚さんの視線に誘われて正面に視線を向けると、山盛りのサラダを瀬名くんに手渡されている渉さんの姿がある。相変わらず眉間にはしわが寄っていて、ものすごく不服そうな顔をしていた。それでも皿に盛られたサラダを黙々と食べている。時折耳元でなにか話しかけられて、ものすごい目つきで渉さんは瀬名くんを睨んだ。

「佐樹さんは月島くんが人に触られるのが嫌いって知ってた?」

「い、いえ、知りません。そんな素振りとか、全然」

「やっぱり、気づいてないか。月島くんって人に触られないように自分からうまくスキンシップを取るし、相手との距離を測るのも得意なんだ。でもよく見て」

「あ……」

 もう一度二人を注意深く見てみると、戸塚さんの言わんとすることがようやくわかった。目の前にいる渉さんと瀬名くんの距離。隙間に割り込んだというのもあるかもしれないが、それでも一度は避けたはずなのに、二人の肩が触れ合うほどに近い。

 瀬名くんの指先が渉さんの髪をすくって、耳元にかける仕草までごく自然で、違和感がまったくなかった。もちろん渉さんはしかめっ面をしたままだけれど、それを払うだとか身をよじるだとか、そんな素振りすらない。
 この二人のあいだにあるものは好きとか愛しているとか、そんな単純な言葉ではないのだなと感じた。