疑惑09
ホームに響いたアナウンスにふいに顔を持ち上げた瞬間だった。まわりで大きなざわめきが広がり、なにごとかと首をめぐらそうとした途端に、背中を強い力で押された。それに気づいて足を踏ん張ろうと思ったけれど、気の抜けていた身体はとっさの動きには対応しきれず前のめりになる。
「危ない!」
誰かがそう声を上げたのが耳に届き、手にしていた僕の携帯電話が線路に落ちて鈍い音を立て転がったのがわかった。そしてそれと同時か、電車が警笛を鳴らし滑り込んでくる。
それは一瞬の出来事だったけれど、時間がコマ送りのような錯覚がして、目の前を電車が通り過ぎるまで息が止まっていた気がした。
「いまの絶対わざとだったよね」
「怖ーい、駅員さんいないの」
「大丈夫ですか?」
瞬きを繰り返して息をつくと、ざわめきが一斉に耳に届き始める。とっさに隣の人が腕を掴んでくれたおかげで線路に転落するのは回避された。
見た目よりも僕は体重が軽いので、同じくらいの背格好の人でも勢いよくぶつかられると予想以上に身体がよろめく。僕の背中を押した人もそれに驚いたのか、一瞬躊躇ったような気がした。
なんにせよ、線路に転落したり電車に衝突したりすることがなくて本当によかったと、耳元で聞こえる心音に安堵する。
しばらく呆然としてしまっていた僕は、駅員にホームのベンチを勧められそこで息をついた。手元に戻ってきた携帯電話は電車に接触することはなかったようだが、落ちた衝撃で画面が割れてしまっている。
黒い画面に戸惑いながら唯一無事なキーを押してみたが、電源は完全に落ちてしまっているようだ。せめて電源が入るかどうかだけでも確かめたかったけれど、下手に触ってデータまで損傷することになっては困るので操作するのを思い直した。
まだ心臓はどくどくと音を立てている。もう随分と時間が経っているような気がしたが、携帯電話を握る手が震えているのに気づき、思ったよりも先ほどの出来事が衝撃だったのだと改めて実感する。
隣の人がとっさに腕を伸ばしてくれなかったら、そう思うとぞっとした。
「あれ? 西岡先生?」
「……っ!」
時間も過ぎて人の少なくなったホームで急に声をかけられて肩が跳ねた。そして驚いて振り返った先にいた人物に思わず首を傾げてしまう。
「え? ま、間宮?」
「わっ、まさかこんなところで西岡先生に会えるなんて思いませんでした!」
驚きをあらわに目を見開いた僕の視線の先で、同僚である間宮が至極嬉しそうな笑みを浮かべていた。けれど突然の遭遇に僕の思考はあまりついていけていない。
目を瞬かせた僕は思わず間宮の顔を見つめ、俯きまた見るという行動をしてしまう。まさかこんなところで僕も間宮に遭遇するなんて思ってもみなかった。
「その携帯どうしたんですか?」
「あ、ああ、ちょっと線路に落として」
反応が鈍い僕に少し首を傾げた間宮は僕の顔をじっと見ていたが、ふいに視線が下りて僕の手元にある携帯電話を見つめる。見るからに破損してしまっているのがわかるので、誤魔化すことも思いつかず人に突き飛ばされたことだけ伏せて正直に答えた。
「え? 大丈夫ですか」
「うーん、もう使えそうにもないから、明日学校が終わったら買い替えに行くよ」
これはもう全損だから修理というよりも買い替えしたほうが早いだろう。それに四、五年くらい同じものを使っていたので、これと同一のものはもうないだろうから機種変更になるのは予想できた。あとはデータさえ無事に移行できればいいのだが、電源が入るのかが怪しい。
バックアップは親友の明良にマメにしろと言われて、半年くらい前に家にあるノートパソコンに保存した記憶が、なんとなくある。あれから大して連絡先も増えていないし、もしもの時はなんとかなるかと思うが、めったにパソコンの電源を入れないので大丈夫だろうかと動作が気になる。
「データ移せるかな」
「あ、メモリカードが無事なら大丈夫ですよ」
「ん? あ、そっか。そういえばそんなのがついてたな」
基本店員任せなところがあるから、いまいち携帯電話に関して知識がない。電話もそんなにかけないし、メールもほとんどしないから、とりあえずいつでも家族と連絡が取れるために持っているお守りのようなものだ。
「明日行くなら付き合いましょうか?」
「え?」
思いがけない申し出を受けて僕は思いきり首を傾げてしまう。話の流れ的に大きな逸脱ではないが、そんな風に返されるとは予想していなかった。疑問符を頭にいくつも並べながら間宮を見つめると、ふっと吹き出すように笑われる。
「西岡先生が一人で行ったら、ショップの人に勧められて、慣れない最新の携帯電話を買ってしまいそうですから」
「ん、あ、まあ完全には否定できないけど」
満面の笑みで言われたそれは否定するのが難しかった。同じ携帯を何年も使い続けている理由はまだ使えるというのもあるが、店頭で新しい機種を推し進められるのに弱いからだ。いまどきの携帯電話など絶対に使いこなせないとわかっているのに、持て余すそれを持ち帰る自分が想像できる。
「私も最近携帯が故障して機種変更したんです。これ西岡先生が使っている携帯の後続機なので使い勝手が似ていていいと思いますよ」
懐から取り出した携帯電話を開き、間宮は僕の手にある携帯電話と並べるように差し出す。いま僕が使っているものよりも薄くスリムになっているけれど、ディスプレイやキーの見た感じは後続機だけあってあまり大きな変化はない。少し触らせてもらったが、持った感じも軽くていまのものよりも操作しやすい印象だ。
「白もある?」
「ありますよ! 家に帰ったらカタログあるので明日学校に持っていきますね」
「ああ、ありがとう」
とりあえず購入する機種を決めておけば、迷って予定外のものを勧められることもないだろうと安堵した。明日の空き時間に間宮のカタログを読ませてもらおうと思ったら、なんだか新しい携帯電話が楽しみになってくる。
「あ、電車来ましたよ。これ乗りますよね?」
「ああ」
先ほどまでは気持ちが落ち着かずに何本か電車を見送っていたけれど、間宮の声に自然と腰かけていたベンチから立ち上がっていた。こういう時に気の知れた人がいるというのはなんとなく心強いなと感じる。
「間宮の家はこの沿線なのか?」
「いえ、違いますよ。西岡先生と同じ沿線で二つばかり先に行ったところです」
「え? そうなのか。じゃあ今日はほんとに偶然だったんだな」
「はい、この駅に知り合いがいるので」
こんなところで偶然出会うというのも驚きだ。そして思ったよりも近くに間宮が住んでいたことがわかり、さらに僕は驚きをあらわに目を瞬かせる。彼が学校に赴任してからかれこれ三年、今年で四年目にだったろうか。それなのにこれまで電車の行き帰りなど一緒になることはなかった。
「近くに住んでてもあまり会わないもんなんだな」
「そうですね」
「まあ、時間がちょっとずれるだけでも違うしな」
通勤電車は行きも帰りも混み合っているので同じ車両でもよほど近くにいない限り気づかないかもしれない。さして珍しいことでもないなと肩をすくめると、間宮もそんな僕を見つめながら小さく笑った。
それから五十分ほど、和む間宮の雰囲気に落ち着きを取り戻した僕は、他愛もない会話をしながら電車に揺られた。