疑惑17
なぜこんなにも峰岸と鳥羽の笑みは恐ろしさを感じるのだろう。考えてることが大抵予想を超えていくものばかりだからだろうか。二人の視線に肩をすくめたら、野上がぎゅうぎゅうと僕を強く抱きしめた。
「で、なにがあったんだ?」
「うう、前期であまった経費を全部文化祭の賞金にあてちゃったんだよ」
「文化祭の賞金?」
野上の言葉に思わず首を捻る。そしてしばらく考えてようやく僕は思い至った。文化祭の賞金――それは来客からの人気投票で一位に選ばれたクラスが受け取れるものだ。賞金と野上は言っているが、実際は現金ではなくプリペイドカードで、買い物や食事の際に使うことができる。
「そんなに高額なのか?」
もともと文化祭の賞金は生徒が目の色が変わるほどに高い金額設定になっていた。確か去年は二万円だったような気がする。現生徒会長である野上が泣きつくということは、それよりまだ高いのだろうか。
肩を落としている野上を見下ろしたら、どんよりとした空気をまとって顔を上げた。
「五万円」
「えっ!」
ぽつりと呟いた野上の言葉に思わず声を上げてしまった。ひとクラス単位ではあるが、高校生に対し二万円でも高額だと思うのに、それが倍以上となるとさすがに驚きを隠せない。
「それはちょっと高額過ぎないか」
「だよねぇ。俺もそう思う。それなのに会長が前期に承認しちゃってたのを、いまになって俺が先生たちからチクチク言われるんだよ」
しょぼんとうな垂れた野上は珍しく長いため息を吐きだした。そんな落ち込みを見せる野上の姿に、つい慰めるように頭を撫でてしまう。前任が峰岸と言うだけでも比較対象にされるときついというのに、厄介ごとまで背負うことになるとは同情の念を禁じ得ない。
「あ! なるほど、そういう目的で合同出店をやるんだな」
話を聞いているうちにようやく色んなものが繋がった。飯田の言っていたのはこのことだったのか。ひとクラスでは高額だが、ふたクラスとなれば半額ずつの付与になる。
それでも例年の賞金に比べれば金額は上がるので、一位を目指す甲斐は十分あるだろう。ということはかなり前から算段はしていたわけだ。
「なにも俺たちが必ず一位になると決まってるわけじゃないんだぜ」
「そんなこと言って上位になるだけの自信はあるんだろ」
そうでなければ峰岸が乗り気になるはずがない。いまもなに食わぬ顔で肩をすくめた峰岸は自信に満ちた顔をしている。この男はやると言ったら絶対にやりきる男だ。文化祭が行われる二日間、いまからどうなることかと想像して僕はため息をついた。
いままでにない高額の賞金だから、峰岸たちだけではなくほかの学年やクラスもかなり気合いが入っているだろう。盛り上がりはかなり期待できるが、トラブルにならなければいいなと心配にもなった。
「センセ、心配が顔に出てる。相変わらず心配性だな」
「そんなに心配しなくても大ごとにはなりませんわ」
どうしたらそんな自信が出てくるのかと、笑みを浮かべる峰岸と鳥羽に突っ込んでやりたいのはやまやまだが、二人のそれはもはや王者の貫禄というものなのだろうなと諦めた。さすがはキングとクイーンだ。あだ名も伊達じゃない。
でもこういうことに柏木がなにも言わないのは珍しい。室内に入ってから一言も喋らないその顔を盗み見たら、視線がばっちりと合った。どうやらずっとこちらを見ていたようだ。
野上の斜め向かいに座っていた柏木は一瞬もの言いたげに目を細めたが、すぐに顔をそらしなにも言わずに目を伏せる。もしかして野上との仲がまだ解消されていないから気まずいとか?
「あれ? 西岡先生!」
「あ、間宮」
余計なことを考えるのはやめて鳥羽の入れてくれた珈琲を飲んでいたら、急に部屋の戸が引かれて間宮が顔を出した。そういえば生徒会の顧問だったと思い出し、驚いた表情を浮かべる間宮に僕は片手を上げる。
「西岡先生が来てくださるなんて珍しいですね」
「あー、うん、頼まれごとをしてな」
なぜか至極機嫌のよさげな間宮は、こちらに駆け寄るとにこにことした笑みを浮かべて僕を見下ろした。その理由がわからなくて小さく首を傾げたら、今度は少しそわそわとした雰囲気で僕を見つめる。
「西岡先生、このあとのご予定は?」
「え? んー、少し仕事が残ってるからそれをやって、あとは帰るけど」
中間テストの採点などの作業が残っているが、それほど時間はかからないだろう。僕は室内の時計にちらりと視線を向けてからもう一度間宮を振り返った。するとぱあっと空気が明るくなったのがわかるくらいの笑顔になる。
「それじゃあ、帰り一緒に食事しませんか?」
「お前の仕事は? 生徒会の仕事あるんじゃないのか?」
こうして野上や柏木が残っているからにはなにかあるのではと思った僕は、思わず訝しげに首を傾げる。けれどそんな僕に間宮は満面の笑みを浮かべた。
「いえ、今日の分はもう終わりです。彼らが残っているのは自主的です」
「あ、そうなのか」
でも言われてみれば、ほかの四人の姿が見えないということは、仕事はすでに一段落していたのか。もしかしたら仕事が終わったのを見計らって峰岸と鳥羽はやって来たのかもしれない。
まあ、ここは居心地がいいんだよな。それほど大層な部屋ではないけれど、給湯室も冷蔵庫もある。珈琲は飲み放題だし、ちゃっかりとお菓子も常備されている。
うちの学校は生徒主体だから、生徒会は決定権も影響力も強い。自由度が高いから伸び伸びとできるのだろう。
「あー、僕のほうは三、四十分くらいはかかると思うけど」
「待ってます!」
「そ、そうか。わかった、じゃあ、すぐに片付けてくる。あ、鳥羽ご馳走さま」
若干間宮の勢いに気圧された感はあるが、僕は腰かけていた椅子から立ち上がり、水玉模様のマグカップを机の上に置いた。
「じゃあ、あとで連絡するな」
期待に満ちた目でこちらを見つめる間宮にそう言うと、僕は苦笑いを浮かべながら生徒会室をあとにする。
「あんまり待たせても悪いし、さっさと片付けるか」
腕時計に視線を落とし時間を確認すると、準備室に向けて少し急ぎ足で歩いた。けれど後ろから聞こえてきた足音に気づき、僕はふと足を止めて振り返る。
「峰岸、どうしたんだ」
振り返った先にいた峰岸の姿に僕は驚き目を瞬かせてしまう。そんな僕に片頬を上げて笑った峰岸はゆっくりとこちらへ向かい歩を進めた。そして目の前に立ち止まると、まっすぐに僕を見下ろす。
「センセ、あんまりマミちゃんに気を許し過ぎるなよ」
「え?」
「俺からの忠告」
突然告げられた言葉がいまいち理解できなくて首を傾げていたら、近づいた峰岸が身を屈めて僕の頬にやんわりと口づけを落とした。頬に触れた柔らかい感触に、僕は一瞬息を止めてしまう。けれど我に返ると同時に僕は後ろへ飛び退いた。
「な、なにしてるんだよ!」
「相変わらず危機管理能力がないな」
呆れたように肩をすくめる峰岸に、僕は頬を拭いながら口を引き結んだ。そしてじろりと睨み上げれば、峰岸は楽しげに目を細めて笑う。
それにしても間宮に気を許すなとはどういう意味なんだろうか。峰岸の言う危機管理能力というものがよくわからない。けれどのんびりとした間宮にはあまり危機感を持ちづらいというのが正直なところだ。
峰岸みたいにわかりやすい男なら警戒できるかもしれないが、身近にいる友人知人を疑うというのは非常に難しい。底が見えない峰岸の笑みに思わず顔をしかめてしまった。