ようやくたどり着いた家の前に立つ。見上げたそこはいつもと変わらないような気はするが、なにか違和感もあるような気もする。
追い立てられるような気持ちに急かされながら、扉を開錠しようと鍵を差し込んだ。するといつもは閉まっているはずの玄関の鍵が開いたままになっていることに気づいた。
「もしかして、出かけたのか?」
慌てて玄関扉を引き開けると俺は家に足を踏み入れた。そうして気がついた違和感の正体は家の暗さだ。いつもなら点っているリビングの明かりが消えている。最近は朝も昼も関係なくつけっぱなしになっていた。それなのに消えているのはどうしてだろう。
玄関に明かりをつけると、リビングに繋がる扉は開け放たれていた。そっと足を忍ばせ近寄るが人の気配はないようだ。手探りで入り口近くにあるリビングの明かりを点すスイッチを押せば、明かりはなんの問題もなくリビングを照らした。
「また派手に暴れたな」
明かりに照らされた室内はまるで泥棒が入ったかのような有様で、引き出しという引き出し、扉という扉がすべて開かれ、辺りにその中身が散乱している。軽いサイドテーブルなどは床に投げ出され、ガラスがはめられているところはほとんど跡形がなくなっていた。
しかしこれはここ最近では見慣れた光景だ。あいつがヒステリーを起こすたびにモノを投げたり壊したりで、直しても意味がないのでガラスの破片以外はそのままになっている。
しんと静まり返ったリビングを見渡し、ゆっくりと慎重に足を進める。うっかりなにかを踏みつけて怪我でもしてはたまらない。
「なんだ、すごい傷だな」
リビングにこうして入るのは久しぶりだ。最近はほとんどあいつが家にいたのでリビングはおろかキッチンにも立ち入っていなかった。
リビングにあるローテーブルとソファに近づくと、あちこちがなにか鋭利なもので傷つけられた跡があり、ソファは中ワタがはみ出て、テーブルは切り傷のようなものがびっしりだ。指先でテーブルをなぞるとボコボコとした凹凸ができている。
傷は古く変色しかけているものから真新しいものまで。床を見下ろせば、小型ナイフがむき出しのまま転がっていた。
「これは、写真?」
ナイフをテーブルの上に載せ、視線をもう一度床へ向ける。テーブルの下や床のあちこちに写真の切れ端のようなものがたくさん散らばっていた。比較的大きく見やすいものを拾い上げて視線を落とす。
そこには見覚えのない女性がにこやかな笑みを浮かべて写っている。ほかのモノも拾ってみるとほとんどにその女性が写っていた。誰だろうかと首を傾げかけてようやく気づいた。隣に見覚えのある男が一緒に写っているものが数枚出てきた。
「父さん」
思わず口からこぼれた言葉に思わず自分ではっとした。まだこの男を父と思っている自分がいることに少し驚いた。
「それにしても、どれだけあるんだこれ」
ソファとテーブルの周りは大量な写真で床が覆い尽くされていた。膝をつき床の写真を広げて見ていくと、見知らぬ女性と父、そして幼い子供が写った切れ端が出てくる。ほとんどが無残に切り刻まれていて、原形を留めているものはないに等しい。
こんなものを毎日見ていたら気もおかしくなるだろう。――馬鹿な女だ。こんな写真を広げて相手に恨み言を呟いて、毎日のように無言電話をかけていたなんて、どれだけ執着しているんだ。
ふいに思い出し扉の近くにある電話台に足を向けた。そして電話機から伸びたコードを指先で引っ張りその行き先を確かめる。
気がついたのはひと月前だ。あいつは電話台の前に立ち不通音を響かせる電話機を見下ろしていた。そしてしばらく時間が経つとリダイアルを押してどこかへとまた電話をかける。
呼び出し音が延々と響く中でじっと一点を見つめ立ち尽くしている姿にぞっとしたの覚えている。それから俺はこっそりコードをプラグから抜き取った。
いまの精神状態ではそれにも気がつかないのだろう。以降は繋がっていないのにも気づかないまま、不通音だけを響かせる電話の前に立っていた。
「はあ、それにしてもどこに行ったんだ」
一体いつ家を出たのだろう。普段は昼過ぎ、遅ければ夕方くらいまでソファで寝ているのに。あんな状態で外へ出歩いたら、どこかで事故でも起こしても不思議ではない。しかしどこへ行ったかなんて知りようもなく、職質でもかけられて帰ってくるのを待つしかない。
「ったく、面倒だな」
いない隙にこの散らかった部屋を片付けるという考えも浮かんだが、またすぐに元通りになりそうな気がして手間が無駄になるのが嫌だと思った。そういえばずっと開けていない冷蔵庫は大丈夫だろうか。ずいぶん前に生ものは処分したがそれ以来、中を覗くことすらしていない。
そう思いキッチンに足を向けようとしたが、玄関の呼び出し音が部屋に響いた。
「誰だ」
この家に訪ねてくる人など勧誘などの類しか思い浮かばない。面倒だと無視しようと思ったが、相手はしつこいくらいにチャイムを鳴らし続ける。出るまで引かないつもりだろうか。それとも――あいつになにかあったのだろうか。
心配などしているつもりはなかったが、なにか面倒ごとでも引き起こしたのだろうかと不安になった。
ため息を吐き出すと、いまだ鳴り続けるチャイムに応えるべく俺は玄関へと足を進めた。
「はい、どちらさ、ま」
玄関扉を細く開いたその隙間に黒い手帳が差し出された。目の前で開かれたそれを見つめ俺は言葉を詰まらせる。予想はしていたが本当になにか面倒なことをしでかしたのか。
「藤堂、優哉くん、ここの息子さん?」
こちらを伺うような声と視線。嫌な予感が胸の中に一気に広がった。扉を大きく開くと男が二人。四十代くらいと二十代後半くらいで、二人とも暗い色のスーツを着ている。そして二人の手には開かれた黒い手帳があり、顔写真と名前が見て取れた。
「あの人になにかありましたか」
「なにか、知っているのか?」
相手の言葉より先に問いかけた俺に、目の前に立つ年配の男は訝しげな表情を浮かべる。そしてこちらの目を覗き込むような視線を向けられ、俺は少し目を伏せてそらした。
「いえ、なんとなくそんな気がしただけです」
「そうか、それならもしかしたら話は早いかもしれないな。いま君のお母さん、藤堂彩香さん。署の方で身柄を預かっている。住居不法侵入と器物損壊、それと傷害の現行犯だ」
「そう、ですか」
ふらりと出て行ってこれか。もっと早く家に帰っていればよかった。そうすれば出て行くのを止められたかもしれない。しかしあれほど虚ろになるくらい病んでいたのに、どうやって相手の家まで行ったんだろう。一人で電車を乗り継いで行けたのか?
もしかして行動を助長するような人間が傍にいたのだろうか。誰だ、いまあいつの周りにいるのは――雇いの弁護士、それと父方の川端くらいだ。そこまで考えてなにかが引っかかった。
「ちょっと、君?」
慌てたような声が耳に届いたが、俺は踵を返しリビングに駆け戻った。そしてソファの傍に散乱する写真を注意深く広げて確認していく。
あいつ一人の行動ならば、あの状態でほかのことを考えられるはずがないと思っていた。けれどあいつの行動を手助けするような人間が近くにいるとしたら、すべての行動が他人の手によるものなのだとしたら、その答えは大きく違ってくる。ずっと繋がることのなかった疑問が急に結びついた。
不安と焦りで胃が引き絞られるような痛みを感じる。頭の中で形が見えてきたものを否定したい気持ちが膨らんで、写真をめくる手が震えた。けれど考えれば考えるほどに、それは現実的なものになっていく。
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