失恋
すごく大好きで、愛おしくて、彼がいるだけで世界が眩しくて、真っ白な輝きに満ちていると思えた。それは大げさなんかじゃなくて、俺にとってはそれくらい彼の存在が大きくて、心の安らぎでもあり、支えでもあった。
けれど彼は――気持ちには応えることができないと、今にも泣き出しそうな顔をして言った。そしてそんな彼の背中を見つめて泣いたのは自分だった。
こんな苦しい想いをするくらいならずっと押し込めておけば良かった。好きだなんて告げなければ良かった。何も言わないままでいれば、まだ彼の傍にいられたのに。彼が去って行った後には俺の中に後悔しか残らなかった。
あの日から何度も彼のことを思い出したけれど胸が苦しくなるばかりで、会いたいと思うのに、もう会えない。どんな顔をして彼の前に立ったらいいのかがわからない。
最後に残った記憶があんな悲しい顔だなんて、ひどくやるせない気持ちになる。いつだってあの子は優しい笑顔で笑っていたのに、その笑顔を塗りつぶしてしまった。
「渉ちゃん、ほらぁ飲み過ぎ」
力強く肩を揺さぶられて重たい頭を上げると、眉間に皺を寄せ俺を覗き込む男がいた。いや、スレンダーボディに長いウェーブの髪が印象的な、自称三十五歳、女と言い張るミサキがいた。
「ちょっと、今すごい顔をしかめたでしょ」
「気のせいだよ。ミサキちゃんの美しさに目が眩んだだけ」
「嘘ばっかり」
不満げに口を尖らせたミサキは、目を細めて訝しむように俺の顔を見つめる。
「ほんとだってば」
彼女は薄化粧の下に男っぽさが見え隠れする些か男性的な顔立ちではあるが、素材が良いので美人の部類に入る。彼女の見目の良さはなかなか評判が良い。
「今日も盛況だねぇ」
「おかげ様で、渉ちゃんが寝てる間にいっぱいよ」
そんな彼女はこのラビットというバーのママに当たるわけだが、こぢんまりとした店内の客は見渡す限り男。中には彼女のように女性的な格好をした子達もいるが、やはり基本男ばかり。ここは生粋の女子は立ち入り禁制のゲイバーだ。そしてそこに入り浸る俺はこの店の常連である。
「ミサキちゃんおかわり」
「寝ながら飲んでる男がなに言っちゃってるのよ」
没収と、手にしたグラスを片付けられてしまい、俺は小さく口を尖らせてカウンターに頭を乗せた。
「俺さぁ、振られちゃったんだよね」
「え?」
「俺じゃ駄目なんだってさ」
独り言のように呟いた俺の言葉に、ミサキの気配が一瞬張り詰めた。けれど小さく吐き出されたため息と共に、それはすぐにかき消える。
「しょうがないわよぅ、あの子は元々ノンケだし」
「……どんな女と付き合っても我慢出来たけど。ぽっと出の男に持っていかれるなんて、悔し過ぎて涙しかでない」
「嘘っ、まさか、あの子が?」
ほんの少し上擦った声と見開かれた目が、いかにそれが信じ難いことなのかがわかる。大体この俺が誰よりも一番にまさかと、信じ難く思っている。
「ほんと完全にやられたって感じ」
自嘲気味に笑った俺の顔を見る彼女の気配が再び強張った。宥めるように俺の頭を撫でる手が微かに震える。人の痛みを自分のことのように感じる、それが彼女の優しさだ。
「そう、そうだったの。それは悔しいわねぇ。泣いちゃうわよねぇ」
「俺、本気で佐樹ちゃんのこと好きだったのにな」
「そうね」
仕事の合間、彼と会ったのは本当に偶然だった。久しぶりに会った彼は見ているのが嫌になるくらいすごく幸せそうで、一緒にいた相手の男を見つめる彼の目が優し過ぎて――俺は自分でも驚くほどに焦った。
彼はとても優しい人だが、今まで恋愛に対してどこかドライだった。だからそんな風に、誰かを見つめる彼の姿は見たことがなかった。そしてこのまま自分の前から消えてしまいそうな彼を、どうしても繋ぎ留めたくて、俺は思わず告げてしまった。
愛しているのだと――。
でも彼の中で俺はそんな位置にすら立てない存在だった。俺は長く彼のいい友人であり過ぎた。
「やっぱり俺と佐樹ちゃんじゃあ、縁がなかったのかなぁ」
彼と出会ってもう十五年程になる。ずっと傍にいた彼に、好きだという想いを抱いたのは五、六年くらい前からだ。片想いだとわかっていながら、これほど長く人を好きだと想い続けたことは他にはない。初めから叶わない恋だと諦めていたのが仇になったのか。
いや、きっと初めから彼と俺の間には、赤い糸は結ばれていなかったのだろう。そうでなければこんなにあっさりと、彼を他の男にさらわれるはずがない。
「もう、早く忘れて新しい恋しなさいよ」
困ったような笑みを浮かべ小さな俺の声に肩をすくめたミサキは、カラリと氷が鳴るグラスをカウンターへ置く。
「どっかに俺好みな可愛い子、いないかなぁ」
俺よりも泣きそうな顔をするミサキに、そう言って笑みを浮かべて見せる。するとほんの僅か肩の力が抜けたのか、つられたようにミサキが笑った。
「渉ちゃんはそうじゃなきゃ」
けれど去り行く彼の背中が思い出され、鼻の奥がツンとした。縁など繋がっていなくても、それでもまだ俺は彼が愛おしくて仕方がなかった。