なにもない静かな空間が広がっている。薄暗くなんだか寒々しい場所だ。音もなく風も吹かないそこはとても空虚で、足元から暗闇に飲まれてしまいそうだと思った。孤独を誘う空間を見渡せば、人影が数メートル先にぽつんと立っているのが見える。
「佐樹ちゃん?」
視線を凝らし見つめてみると、そこに立つのは見慣れた愛しいあの子だ。それに気づいた俺は思わず駆け寄り手を伸ばした。けれど振り返った彼は、今まで見たこともない冷たい視線を俺に向ける。
その表情を見た瞬間に息が止まりそうになった。彼に嫌われるのはたまらなく怖い。身体中の体温が下がり、凍えてしまうような気がした。
「渉さんがそんな風に考えてるなんて思わなかった」
「佐樹ちゃん?」
汚いものでも見るような蔑む視線が、胸を抉るように突き刺さる。
「友達だって思ってたのに」
「……っ」
腕を伸ばした先にある背中。声を上げようとしても、震えない喉。痺れたように四肢の感覚がなく、身体が沈むようなずしりとした重たさだけがやけにリアルな、真っ暗闇がまとわりつく息苦しくて――嫌な夢。
夢の中でまで彼は、俺の前から去っていった。
湿気たシーツが肌に張り付く感触と、激しい頭痛で目が醒める。重たい瞼を持ち上げれば、ほんの僅かカーテンの隙間から漏れ射し込む光が見えた。
「……痛っ、二日酔いって最悪なんだけど」
しばらく唸りながらゴロゴロとベッドの上でのた打つ。そして見覚えのある天井を見上げ深いため息を吐いた。ここはミサキの店から比較的近い場所にあるビジネスホテルだ。
「あー、また家に辿り着かなかったのか。そんなに飲んだっけなぁ。なんか寝覚めもよくないし気分悪い。……マジで、佐樹ちゃんにあんな目で見られたら、俺生きていけないかも」
優しい彼があんな風に、人を蔑んだり傷つけたりしないことはわかっている。夢だとはっきりわかっているのに、それでもやはり胸が痛んでしまうのは未練だろうか。
「あーもう遅刻ギリギリか」
二日酔いでぐらつく頭を押さえながら、ふと時計を見ればなかなか際どい時間だ。
「あれ、もしかしてまた脱ぎ散らかした?」
掛け布団を剥いで起き上がり、重い身体を大いに伸ばす。そして一糸まとわぬ自分の姿を見下ろして、俺は小さく首を傾げた。
普段から飲んで家に帰ると、玄関からリビングにかけて着ていた服が歩いた場所に添って点在していることがある。見当たらない服を探して視線をさまよわせれば、着ていたシャツとスラックスはクリーニングから戻り、部屋のドアノブに引っかかっていた。
「またミサキちゃんのお世話になっちゃったかな」
毎度酔いつぶれた自分を道に放り出さずにいてくれる彼女の優しさに感謝しなければ。そう思いながらドアノブに引っかかった袋を掴むと、紙切れが一枚ひらりと落ちた。
とりあえずシャワーだけは浴び、身支度を調えてフロントへ向かった。すると見飽きた、いや見慣れた顔がこちらに向かってひらひらと手を振っている。
「渉くんおはよう」
その顔に眉をひそめれば、男は更にニヤニヤと笑い口角を上げた。
「今日も綺麗だね。俺チョイスのシャツがいい感じ! 寝顔もすげぇ無防備で可愛かったよ」
「あのさ、新しいシャツには礼を言うけど。客の部屋に勝手に入って寝込み襲うのがここのサービスなわけ? 金取るよ篤武」
「あ、残念ながら悪戯はしなかったんだなぁ」
「どういう日本語だよ。意味わかんないんだけど」
シャツから落ちた紙切れをフロントに叩きつけ目を細めれば、篤武は不満げに口を尖らせた。
「たまには相手してくれてもいいじゃん。優しくするよ」
紙には篤武の携帯番号と恐らくホテルの住所と部屋番号と思しきものが書かれていた。
「嫌だね。君はどうしたってネコにならないじゃない」
「あったり前でしょ。こんな美人押し倒さなくてどうすんの」
そう言ってカウンターに置いた俺の手を掴むと、篤武は両手でそれを握り締めながらしつこいくらいに撫で回す。
均整の取れた身体つきや人好きのする柔和な顔立ち。篤武の見目形は充分好みではあるが、この変態臭さはいただけない。
「いいよなぁ、肌は真っ白ですべすべだし、髪はサラッサラだし、唇は桜色で柔らかいし。ああ、マジもんの金髪緑眼ってホントたまんないよなぁ」
「俺は君のそういうとこ、たまらなく嫌いだけどね」
実感こもった篤武の口調に軽く顔が引きつる。いつまで経っても離す気配のない手を振り払って、顔をしかめればますます篤武の顔がにやけた。
「めちゃくちゃ年齢不詳だけど、そういや渉さんって今いくつ?」
「……君の歳に九つ足せばわかるんじゃない」
「んー、俺の歳に……九つ! マジかよ」
「煩いし、顔が気持ち悪い」
指折り数えて一人喚く篤武の頭に一万円札を叩きつけて、俺は足早にホテルのロビーを後にした。
「ったく、朝から更にテンション下がるなぁ」
今に始まったことではないが、あの篤武のアプローチは身の危険を感じざるを得ない。そもそも自分をその対象に見る男が減ってはいるが、全くいなくなったわけではなく。下手に誘いに乗ると痛い目を見る。
「篤武みたいなのは尚更タチが悪いし」
もはや二日酔いなのかなんなのか、わからない頭の痛みにため息を吐きつつ、俺はいつものように陽射し避けの淡いブルーのサングラスをかけた。そして目の前を過ぎそうになったタクシーへ手を上げる。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます