ストーカー
掴まれた手を解こうともう片方の手を上げかけ、その手に携帯電話を握ったままだったことに気がついた。しかし無意識に開いてしまった手のひらから、それが滑り落ちる。
携帯電話が地面に鈍い音を立てて転がった。
「……誰」
「本当に覚えてないんだ。やっぱりちょっと盛り過ぎたかな。でも今日は、少なかったみたいだね」
首を傾げて笑うその顔をじっと見るが、どうしても思い出せない。こういった色味が派手で神経質そうな男は相手にするには厄介なので、一度でも会っていれば記憶に残っていそうなものなのに。
まあ、最近は俺の記憶力も全く当てにはならないが。
「君とどこかで会った?」
平静を装いながら力一杯腕を引いて掴まれた手を振り解くと、男は口の端を上げ薄らと笑みを浮かべる。
「このあいだ、渉は飲み過ぎて潰れちゃっただろ? 俺が介抱してやったのに」
「……このあいだ?」
その言葉にふいになにかが頭の隅を掠めた。
あそこにいた彼と帰ったの、覚えてない? ――それは確かミサキの言葉だ。
「渉はいつも、そんなに強くないのに飲み過ぎるよね」
俺がなにかを思い出したことに気がついたのか、ふっとこちらを見る目が歪んだ。
そして男は手にしていた鍵をズボンのポケットへ突っ込む。その動作に内心ひやりとしたが、鍵など後で替えれば良いだけのこと。今は隙を見て、男の背後にある駅へ戻らなくてはならない。
それなのに――。
「今日はさ。あいつが長いこと渉を引き止めるから、あまり飲ませられなくて」
「君、なに言ってんの?」
怪しさばかりが募り、男の正体が気になってしまう。
プライベートでの記憶力のなさは認めるが、仕事で関わった人間はしっかりと覚えている。けれどこの男と一緒に仕事をした記憶はまずない。
「あそこに、いた?」
もちろん今日の飲み会は直接関わった者だけが参加していた訳ではないので、見知らぬ者も大勢いた。しかし男が話しているのが瀬名のことなのだとしたら、決して遠くはない仕事関係者だ。
「……迂闊だった。あの時、ミサキちゃんに名刺見せて貰えば良かった」
一緒に帰ったと言うあの夜。この男はラビットに自らの名刺を置いていった。よほど自分に自信があるのか、大胆不敵とはこのことだ。しかも先程から気になっているのが、盛っただとか飲ませていないだとか、響きの悪い嫌な言葉。
今この身体が重くて怠くて仕方がないのは、この男のせいなのか?
「今日は覚えていられそう?」
「……どういう意味」
本能的に危険だと思った。けれど向こうの反応の方がこちらより早かった。いきなり口元に手のひらを押し付けられ、身体が後ろへ仰け反った。
「痛っ」
ものすごく強い静電気が走った気がした。が、それは静電気ではなく――。
「スタンガンとかマジ有り得ないんだけど」
まともに食らったら危なかった。焦る俺を見ながら肩をすくめる男に冷や汗が出る。一瞬だけ目の前がぼやけた。
「使う気はなかったんだ。でも意外に元気だから」
「……なんで俺って、こんな役回りばっかりかな」
ふらつく足元にため息が漏れた。しかしぼんやりしている場合ではない。前へ進むのは諦めて、俺は咄嗟に身を翻した。
「往生際が悪いよ」
ぼそりと呟く声が聞こえ、ゆっくりと追いかけてくる足音がやけに辺りに響き渡る。わざとらしく靴音を立てるその歩き方に、無性に腹が立つ。
「……離せ」
すぐに追いつくのは予測済みだったのだろう。狭い裏路地の入り口を通り過ぎた途端に、その横路に引きずり込まれた。そして力任せに身体を壁へ押し付けられ、背中で一掴みにされた両腕を易々と抑えられる。
「あの日のことは、もう思い出した?」
それ程変わらない体格だが身体に力があまり入らないせいで、体重をかけて押し付けられると上半身が全く動かない。
「知らないよ。あの日のことなんて」
無防備に晒されたうなじや背中を無遠慮に触り、撫で回すその手が堪らなく不快だ。首筋にかかった息に眉をひそめ、俺は唯一自由な足で背後にある脛を勢いよく蹴りつけた。
「意味わかんないんだよっ」
「……っ」
ほんの僅か出来た隙をついて腕を解き、振り向き様に思いきり良く男の足を払えば、ぐらりとその身体が傾いだ。背後で大きな音を立て男は倒れたが、先程より酷く目の前が霞む気がする。
「危ないな」
「……え」
急に身体が前に傾く。足首に感じた違和感に振り向くと、這い摺る男の手がそこに絡みついていた。
ホラー映画ばりのその姿に思わず息を飲むが、足を引っ張られれば嫌でも身体が地面に叩き付けられる。通路脇に積まれた物がなぎ倒され、再び大きな物音が響く。
「無理矢理は好きじゃない」
そう言いながらも、人の身体の上に跨がってくる男に顔が引きつった。
「俺が怖いの?」
男はそんな俺を見下ろし至極楽しげに笑う。そして身動ぎする俺の頭を抑えつけて、引き上げたシャツの裾からもう片方の手を滑り込ませた。
「気持ち悪い、触るな」
「……このあいだはそんなこと言わなかったのに」
「知るかそんなことっ」
ふいに呆れたような声音でため息を吐かれ、どうしようもなく腹が立つ。記憶にないことを言われるのも腹が立つが、上から物を言われるのが更にムカついて仕方がない。
「せっかく綺麗な肌なのに、こんなに傷つけて勿体ないよね。誰がこんなことするの」
「どの口が言ってんだ。マジ離せ!」
脇腹や背中にある引きつれた傷痕を指先でなぞる手が、ぴたりと止まる。
「ああ、ごめん。顔に、傷つけちゃったね」
頭を掴んでいた手を俺の頬に這わせ、顔を寄せて来るその気配に肌が粟立つ。しかし――突然鳴り響いた音に、男の肩が跳ねた。
「……携帯」
先程、道に落とした自分の携帯電話だ。この着信音は聞き覚えがある。怯んだ男を押し退けて、俺は再び通りに向かい身体を持ち上げた。