許せないこと

 唇に触れた感触と、更に身体を抱き寄せようとする力を感じた瞬間、一気に全身が粟立ち背筋が冷えた。反射的に振り上げた俺の手がぶれることなく瀬名の頬に打ちつけられ、静まり返った空間に乾いた音が響き渡った。

「最悪」

「あ……ちょ、渉さん待った」

 突然の平手打ちに呆然としていた瀬名は、身を翻した俺を見て我に返ったのか途端に追いかけて来る。けれど俺はどんなに待てと言われようと、そんな気は毛頭ない。

「待ってください。渉さん、すいません。今のは俺が悪かったです。最低最悪って罵られても文句はないです」

「煩い」

 寧ろ関わりたくないとさえ思うのに、早歩きが全力疾走に変われば――三十分か、一時間程前まで死闘を繰り広げていた俺の体力が、さすがにもたない。――いや、もつはずがない。
 それでなくとも先程の城川で心身共に相当なストレスを感じている。自分から人に触れるのは平気だが、俺は基本的に人に触られることが嫌いだ。ましてや欲を持って触れられれば嫌いというより、もはや気持ちが悪いとさえ思う。それなのに瀬名に関してはかなり油断していた。

「最悪、最悪……畜生、最低っ」

 色々と自業自得な部分は多いものの、一方的な感情を押しつけられる負担はやはり大きい。小刻みに震え出す身体はまるで全てを拒絶しているかのようだ。

「渉さん、ストップ」

 ふいに俺が減速したところで瀬名に腕を掴まれ、引き止められた。しかしその反動に逆らって、身体は後ろではなく下へ落ちた。

「気持ち悪い」

「ちょ、危ない」

 一瞬片腕だけ吊り上げられたような状態になるが、瀬名がしゃがみ込んだ俺に合わせ咄嗟に屈み、下を向いた顔を覗き込んでくる。

「寄るな、触るな、見るな」

 俺はそんな瀬名の身体を押し退けて、その場に蹲る。脳と肺が軽い酸欠状態で、目眩や吐き気がして酷く気分が悪い。頭から冷水をかぶったような冷や汗が出る。そしてカタカタと震える両手を誤魔化すように強く握り締めた。

「本当に最悪。馬鹿でしょ、頭悪いんじゃない。人の気も知らないで……なんでそうやって考える前に行動するかな」

「すいません」

「すいませんで済んだら警察いらないんだよ!」

 さも申し訳なさそうな顔をして謝る瀬名に腹が立つ。誰のせいでこんな目に遭ってると思っているのか。今し方俺が話したことを、全く聞いていなかったと言わんばかりの行動だ。――苛々する。

「触るな」

 肩に置こうする手を思いきり払い退けると、瀬名は酷く傷ついたような表情を浮かべてこちらを見る。

「ムカつくなぁ! なんで君の方がそう言う顔するわけ? 俺の方が被害者なんだけど」

「いや、もの凄い深く反省してます」

 舌打ちして睨むと、眉をハの字にして瀬名は頭を下げる。その後頭部を八つ当たり気味に叩けば、またポツリ謝罪の言葉を呟く。

「すいません、俺、言ったことを即行で反故にしました。でも嘘じゃない、俺は本当に渉さんのこと」

「もうそれ、いらない。……疲れた、怠い、気持ち悪い! ストレスで禿げそうなんだけど、どうしてくれんのっ」

「え?」

 言葉を遮りひたすら文句を並べる俺に、瀬名はうろたえますます困り顔になる。だがさすがにもう俺も限界だ。また一から瀬名の話を聞く気にはならない。精神的にも体力的にもダメージが大きすぎる。

「また余計なことしたら、これから二度と関わらせないからね」

「え、ちょ、渉さんっ」

 情けない瀬名の表情に目を細めて俺はぐらつく頭を傾けると、そのまま目の前にある肩口へ預けた。

「あー、しんどい」

 息を吐き、力が抜けた身体の重心を瀬名の肩へ移す。俺がもたれた瞬間、瀬名の身体が強張った。

「渉さん、結構これキツいっすよ。……触りたい」

「触るな」

 背中に回りかけた腕の気配を感じ、眉間に皺を寄せている瀬名の顔を睨めば、行き場のない彼の手が空を掴み握り締められた。今まで甘やかして、好きにさせていたのが悪かったのだ。待てくらい覚えさせても罰は当たらない。

「渉さん、まだ気持ち悪いっすか? 家まで歩ける?」

 しばらくそのまま目を瞑っていると、そろそろ我慢がならなくなったのか瀬名がそわそわし始める。

「まだ、怠い、気持ち悪い」

 少し先程の仕返しも含んではいるが、身体がいまだに怠いのは嘘ではない。指先を一つも動かす気にもなれないくらい身体の力が脱力しきっている。俺はそこから退かずに更に肩口に頭を押しつけた。

「え、いやいや、それはマジでキツいっす。あ、なんならおぶりましょうか、家まで」

「……」

 ここからマンションまで、恐らく十五分とかからない。しかし歩くことさえ今は正直面倒くさいと思っていた。

「渉さん?」

 急に反応のなくなった俺の顔を、瀬名は怪訝そうに覗き込んで来る。そしてそんな視線を横目で見返せば、ふいに合ったそれに瀬名は顔を紅潮させて肩を跳ね上げた。

「回れ右」

「は? え? なに」

 突然身体を起こし肩を押した俺に間の抜けた顔と声で首を傾げた瀬名は、何度も肩を押されされるがままに横を向く。そして俺は何の前触れもなく目の前にある背中にのし掛かった。

「ちょ、ちょっと渉さん。心臓に悪いっすよ」

「煩い。黙って歩く」

「……わかりましたよ」

 だらりと腕を前に垂らせば、瀬名はため息交じりで俺を背負い立ち上がった。