18.芽生えはじめた気持ち
軽い足取りで階段を上ってぼんやりとした明るさの外廊下を抜ければ、もう見飽きるくらい見ている白い扉の前にたどり着く。この扉の向こうへ行くと、いつも貼り付けっぱなしの仮面が剥がれ落ちる。だから鍵を回して一歩内側に入れば、力尽きたように廊下に転がってしまう。
けれどいまは片手で器用に靴を脱いで、そのまままっすぐに廊下とリビングを隔てる扉を開いた。薄いレースカーテンを通り抜けた月明かりでリビングはほんの少し明るい。のんびりと足を進めると、光喜はリビングの真ん中に据えられた木肘のソファに腰を下ろした。
「うん、で、そこのパンケーキがすごくおいしいの。まだあんまり知られてなくて穴場だから、今度行こうよ」
「あ、じゃあ、冬悟たちの予定も確認しないとね」
「……うん。そうだね」
そこは二人っきりでデート、というところではないのか。そんなもどかしい感情が光喜の中に浮かぶけれど、ことあるごとに真っ赤に染まる小津にして見ればまだハードルが高いのかもしれない。
まだ知り合って六回しか会っていない。それにまともに二人で話したのは今日くらいだ。ずっと勝利のことが気になっていて、正直それどころではなかった。
だからいまは二人っきりでなくてもいい。いいから、もう少し近づいてみたい。小津修平という人間に向き合ってみたい、そんな感情が光喜の中に生まれた。
「そうだ、光喜くんはどんな色が好き?」
「色? うーん。あ、小津さんのアパートみたいな色とか好きだよ」
「ボルドーとかバーガンディみたいな感じかな」
「うん」
「ほかには?」
「二色使いにするの? だったら小津さんの好きな色にして」
「え?」
ふいに会話が途切れる。電話の向こうで言葉の意味をぐるぐると考えている、それがなんとなく伝わってきた。だから光喜はなにも言わずにその答えを待った。自分の言葉の意味をどう捉えるのか、それを知りたいと思ったから。
「ぼ、僕のセンスに任せて平気?」
しばらくして紡がれた言葉に光喜はふっと諦めたような重たい息を吐く。考えてみれば当たり前の回答だ。光喜はまだ一度も小津に対して恋愛に繋がるような好意を見せていない。友人の恋人の幼馴染み。そこからまだ一ミリも進んでいないのだ。好きなものを共有したい、などという高度な答えを求めるのは無理がある。
「えー、小津さんプロでしょう?」
「うん、まあ、そうなんだけど」
「それなら平気、小津さんのセンス信用する」
「わ、わかった。頑張るよ」
「お願いしまーす」
そもそも小津からまっすぐとした好意は感じるけれど、それが恋愛的なものなのかまだわからない。紹介されて会ってみて、まだ慣れていなくてギクシャクしている可能性もあり得る。普段の彼を知らないから、どうしても見えてこない答えだ。
それに光喜は小津の好みにはまったく当てはまらない。ただのうぬぼれ――なのかもしれない、そう思うと胸が少しざわついた。
「光喜くん?」
「ん? なに?」
「あ、いや、明日は早いんだっけ?」
「……うん。あー、もうこんな時間か。そろそろ寝ないと」
午前零時。いつもだったら朝が早くても起きている時間だ。それでも光喜は誤魔化すように慌てた声を出した。
「そっか、ゆっくり休んで」
「ありがと」
「それじゃあ、またね」
「うん。……あっ! ちょっと待って! 小津さん待って!」
「え? ど、どうしたの?」
いきなり大声を上げた光喜につられたように小津の声も大きくなる。その反応にやたらと頬が火照るが、小さく咳払いをしながら光喜は忘れかけていた大切な言葉を紡いだ。
「小津さん、誕生日おめでとう」
「……あ、そっか。ありがとう」
「それじゃ、おやすみ!」
「うん、おやすみ」
ぷつりと途切れた通話。携帯電話を握りしめて暗くなった画面を見つめる。俯いた光喜の頬は暗がりでもわかるほど赤く染まっていた。