いままで誰かの気持ちを知りたいだなんて思ったことがなかった。いつだって光喜に向けられるのはわかりやすい好意だけ。だからそれを選び取って甘受すれば良かった。しかし小津から向けられるのも目に見てわかる好意だ。それといままでの好意となにが違うのか、考えてみたけれどいまの光喜にはよくわからなかった。
「それじゃあ、今度の日曜スタジオに九時ね」
「……え? なに?」
「生返事してるなと思ったら聞いてなかったな。でーもー、しっかりいまのは録音したのでいまさらなしは受け付けませーん」
「え? ほんとにちょっと待って! 俺、いまそんな気分じゃない!」
「詳しい話は会った時に聞いてやる。来なかったらただじゃ済まないと思え」
「晴!」
用は済んだとばかりに一方的に通話を切断され、耳にはぶつりと無機質音が響く。呆気にとられて耳元から離した画面を見下ろすと、それはすでに暗くなっていた。しばらく反応できずに画面を見つめていたらぱっと明るくなってメッセージを受信する。
念を押すように日時とスタジオの地図、晴からだ。それを見つめて光喜は三度目の大きなため息を吐き出した。
「ねぇ、光喜」
肩を落としてうな垂れているとカランコロンと音を立てて扉が開く。そしてのんびりとした姉の声が聞こえた。けれどひどく気分が沈んで光喜はなかなか顔を上げられない。いつまでも下を向いていると俯いた頭をなだめるように撫でられた。
「どうしたの? なんかあった?」
「んー、ちょっと仕事が」
「あれ? 辞めたんじゃなかったの?」
「そうだったんだけど、うっかりはめられた」
「あらー、それはご愁傷様。でも人が大勢絡む仕事なんだからちゃんとしなさいよ」
「うん」
人がたくさん入り乱れる業界は光喜にとって針のむしろに座らされているくらいの苦痛だった。普段貼り付けている仮面の上にさらに仮面を重ねているような気分。
仕事はスカウトをしてきた事務所のごり押しで、家まで押しかけてきた挙げ句に両親の承諾を勝手に得たことがきっかけ。それでも中三の終わり頃から大学二年の秋頃までの五年間は続けた。そうすることで父と母が喜ぶからだ。
けれど去年、瑠衣が二人の前でもう辞めたら? と言った。続けていくつもりがないのなら長居する世界じゃない、それが建前だったけれど、おそらく光喜がいやいや仕事をしていることに気づいていた。
「旦那が今日は定時で帰ってくるって言うから、わたしそろそろ帰るわ」
「そうなんだ」
「今度うちにご飯でも食べにおいで。あ、千湖ありがとう」
瑠衣が扉を大きく開くと千湖がベビーカーを押して出てくる。たっぷり寝た可愛い王子様はご機嫌のようで、つぶらな瞳で光喜を見つめてきた。その顔につられるように笑みを浮かべれば、ふにゃっと笑い小さな手を叩く。
「じゃあ、光喜、またね」
「あ、待って、会計は?」
「あんたのお給料が入ったらおごってもらうわ」
悪戯っぽく片目を瞑った姉は手を振るとベビーカーを押して歩き出す。その後ろ姿を黙って見送っていたけれど、光喜はふいに弾かれるように立ち上がり足を踏み出した。
「姉さん! 姉さんは、お義兄さんに腹立つこと、ある?」
静かな空間に光喜の声が響く。なんの脈絡もない弟の問いかけに、姉は足を止めてゆっくりと振り返った。そしてひまわりみたいな明るい笑顔を浮かべる。
「あるわよ、もう何回も! ……あんたも本気で向き合える人、好きになれるといいわね」
「……うん」
小さな返事はおそらく瑠衣には届いていない。それでも姉はその返事を受け取ったかのように目を細めて笑った。そしてしばらく光喜の顔を見つめて、またゆっくりと歩き出した。
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