遠くなっていく小さな背中を見送りながら、急に騒ぎ出した胸を光喜はぎゅっと鷲掴んだ。瑠衣の言葉で思い浮かんだ人、その人が頭の中でいつものように優しく微笑んでいる。この胸の高鳴りはどんな法則で起こるのだろう。昨日の夜からずっと考えていたのに、その時はドキリともしなかった。
けれどさらに頭の中に呼び声が響いて、沸騰したように顔が熱くなる。そんな自分の反応に戸惑いと焦りが湧き上がり胸の音はさらに騒がしくなった。
「光喜くん、大丈夫?」
「えっ! あ、だ、大丈夫」
小さな声に我に返ると、光喜の肩は大げさなほど跳ね上がる。声の先に視線を向ければ、戸口で心配そうな顔をした千湖がじっと光喜を見ていた。その視線にとっさに笑みを浮かべようとしたが、いまだに動揺が抜けないのか上手く笑えない。けれどそんな顔にも千湖はにっこりと優しい笑顔を向けてくれる。
「またいつでも来てね」
「あ、うん。コーヒーもケーキもおいしかった」
「ほんと? 嬉しいなぁ。桃香も喜ぶよ」
目を輝かせて両手を口元に当てながら喜ぶその仕草はひどく可愛い。そこにいるのはふわふわキラキラしたごく普通の女の子。好きな人にまっすぐと恋をしている。
「……千湖さんは、好きな人いる?」
「うん、いるよ!」
「どんな時にその人が好きだなって思うの?」
「えー、そうだなぁ。一緒にいて安心できるなぁとか、笑顔を向けてくれた時は嬉しいなぁとか、頭ナデナデされたらすんごく幸せ」
「そっか、そういう小さいことだけでもいいんだね」
頬を染めながらはにかむ千湖に光喜はやんわりと目を細めた。彼女の言葉に引っかかっていたものが取れた気がした。胸がときめくだけが恋愛ではない。いままでそれしか知らなかったけれど、温かい空気に心が和むのも、触れる熱に心が揺れるのも、恋のひと欠片だった。
「光喜くんも好きな人がいるの?」
「……うん。もしその人と上手く行ったら、ここに連れてくるよ」
「わぁ、楽しみにしてる。頑張ってね!」
「ありがと、それじゃあ、ごちそうさまでした」
「またのお越しをお待ちしてまーす」
小津から向けられる優しさの理由を知りたい。向けられるあの好意の本当の意味が知りたい。彼に見合わない自分が嫌になる。気持ちが見えないのが怖い。それがなぜなのか、ほんの少し前までわからなかったけれど、いまならわかる。ほかでもない自分のことをまっすぐに好きになって欲しい、そう思っているからだ。
ひび割れていた胸に初めて染み込んできた蜂蜜のような甘い心地。もしかしたらあの時からもう心の奥底に気持ちが溜まりはじめていたのかもしれない。
「やばい、顔が熱い」
足早に歩く光喜に風が吹き付けるけれど、火照る頬は冷めるどころかますます熱が増す。鏡を見て確かめなくてもどれほど赤くなっているか想像ができた。熱が広がるほどに心の中で気持ちが膨らむ。
「……会いたいなぁ。って、昨日会ったばっかりじゃん」
自分の独り言に苦笑いを浮かべながら携帯電話を掴む。次に会う時はどんな顔をしたらいいのだろう。そんなことを思いつつも光喜はメッセージを打ち込んだ。
――今日泊まりに行ってもいい? バイト終わる頃に迎えに行くから。
――駄目、部屋片付いてないからお前が寝るスペースない。
――じゃあ、顔だけ見に行く。
返ってきたメッセージにすぐ返信をするとそこでしばらく間が開いた。おそらくどう返したらいいのか悩んでいる。それを想像して光喜は小さく笑った。
あの人に会う前に自分の気持ちを確認しておきたい。あの苦くて辛い恋が本当に終わりを告げたのかどうか。それを確かめたら、もっと素直に近づいていけるかもしれない。
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