はじまり
それからマンションまで、無言のまま二人で歩いた。青年は電池の切れかけた、おもちゃのように歩みが遅く、時折ついてきているか確認してしまうほどだった。
それでもなんとか部屋にたどりつくと、まず濡れ鼠の彼を風呂場に押し込んだ。
一人で大丈夫だろうかと心配にもなったが、数分もすればシャワーの音が響いた。その音を聞きながら、彼が着ていた服を洗濯ネットに入れて、洗濯機の中に放り込む。
「着替えはとりあえずなんでもいいだろう」
彼は自分と比べると肩幅も広く、しっかりとした身体付きをしていた。やせ気味だと言われる自分の服は、入らないかもしれない。しかし裸で置いておくわけにもいかないだろう。
しばらく悩んで、寝室にあるクローゼットを漁ってみると、サイズを間違えて買ったTシャツが、放置されているのを見つけた。
上はこれでなんとかなるだろう。
下はスウェットでいいかと適当に見繕う。下着はコンビニで買ったものがあるので、それでいいだろうと、とりあえず着るものはひと揃えした。
「温まった?」
二、三十分経った頃、用意したものを身につけた青年が、風呂から上がってきた。Tシャツは丁度いいが、スウェットは少々寸足らずのようだ。
自分も百八十センチと背の高いほうだが、彼はそれよりもさらに高い。しかしその格好で外へ出るわけでもないのだから、まあいいだろう。
冷え切って、紙のように白くなっていた頬には血色が戻り、健康そうな色つやをしている。人形みたいだった容貌に、息が吹き込まれたかのようで、その見目のよさがさらに引き立った。
「こっちに来て座りな」
立ち尽くしている青年に声をかけて、リビングのソファに座るようそれを叩いて促す。すると彼はまっすぐに、こちらへやってくる。
促されるままにソファに腰を下ろし、一言も喋らないところも相まって、ますます犬みたいだなと笑ってしまう。
大人しく青年が座っているあいだ、キッチンへ行き、買ってきた弁当をレンジに入れ、コンロに鍋をかけ牛乳を温める。
鍋の中に砂糖を入れてかき混ぜると、牛乳が沸騰する前に火から下ろし、二つのマグカップに注いだ。
最後の仕上げに、ブランデーを垂らせば出来上がりだ。
それを持ってリビングに戻れば、青年は部屋の中を気にすることもなくまたぼんやりとしていた。まあ、ここにはさして面白いものがあるわけではない。
十一畳ほどあるリビングダイニングは、いま彼が座っているソファのほかには、ローテーブルと壁面いっぱいに配置した大きな収納棚。
それに大型テレビやオーディオデッキ、スピーカー、パソコンが乗った仕事机。
あとはあまり使うことのない、二人がけのテーブルがある。必要最低限で、不要なものは置いていない。
「腹は減ってない? 弁当食う?」
マグカップを手渡すと、彼はそれを素直に受け取り口をつける。
自分の好みで甘いホットミルクにしてしまったが、特に文句も言うこともなくそれを飲んでいるので、甘いものは苦手ではないのだろう。
「ハンバーグと生姜焼きどっちがいい?」
温めた弁当をテーブルの上に置くと、彼はしばらくじっと二つの弁当を交互に見つめてから、生姜焼きのほうに視線を定めた。
箸を添えて、弁当を彼の目の前に差し出してあげれば、マグカップをテーブルに置いて弁当に手を伸ばす。
「もしかして朝からなにも食べてないとか?」
弁当を手にすると、青年はがつがつと食らいつくように弁当を食べ始めた。けれどかき込む勢いではあるが、箸の持ち方はとても綺麗だった。
些細なことだけれど、爪の先まで綺麗に整えられていて、そこいらによくいる若い子とは、やはり少し違った印象を受ける。
そういえば着ていた服も、仕立てのいいものだったなと思い返す。それにしても見れば見るほど綺麗な子だ。
「あまりかき込むと喉に詰まるよ」
グラスに水を入れて目の前に置いてあげると、彼はすっかり空にした弁当の容器をテーブルに戻して、水をごくごくと飲み干した。
「<ruby><rb>Merci</rb><rp>(</rp><rt>メルシー</rt><rp>)</rp></ruby>」
「ん?」
「アリガト」
初めて聞いた彼の声は、低音で優しく聞き心地のいい声だった。けれどその声よりも、発した言葉に首を傾げてしまう。
最初に聞こえた言葉は、聞き間違いでなければフランス語ではないだろうか。そして次に発したのは少し片言の日本語だ。
もしかして青年は日本人ではないのか。しかし顔立ちは美しいが、日本人離れした風貌と言うほどではない。
「どういたしまして」
しかし困ったな。英語ならいくらかわかるけれど、フランス語はそれほど知識がない。
どうやって会話をしようかと悩んでしまう。けれど彼はこちらの言っていることは、ほとんど理解しているように感じる。喋るのに慣れていないだけ、なのかもしれない。
郷に入ったら郷に従え、という言葉もある。なんとか日本語で会話してもらうほかないだろう。
「名前はなんて言うんだ?」
「……ナマエ、リュウ」
こちらの問いかけに彼――リュウは、まっすぐと茶水晶の瞳を向けてくる。それはとても純粋な瞳だ。無垢な動物に見つめられているような気分になる。
「そうか、リュウね。自分は宏武、ひ、ろ、む……わかる?」
「ヒロム、ひろむ」
小さく何度も呟いているうちに、名前の発音がよくなってくる。この調子で日本語も、話してくれるようになるといいのだけれど。
「なにかあればそう呼んでくれればいい。自分はほとんど家にいるけど、ここにいるあいだは好きにしてくれて構わない。帰る場所があるのなら、そうしてくれてもいい。あんたの自由にするといい」
「<ruby><rb>vous etes gentil</rb><rp>(</rp><rt>ヴゼットジャンティ</rt><rp>)</rp></ruby>」
「ん?」
「イイ人ダネ」
「別にいい人じゃない。これは自分の癖だ」
ものを拾うのは、別に優しさからではないと思う。ただ目の前にあるから、それをそのままにしておけない気持ちになるだけ。
ある種の気まぐれのようなものだ。いまはただこの鬱陶しい雨を紛らわす、なにかが欲しかっただけ。
「リュウ、ここにいるあいだに日本語覚えてくれよ」
「<ruby><rb>Oui</rb><rp>(</rp><rt>ウィ</rt><rp>)</rp></ruby>、コトバ、オボエル」
どうやらリュウは、ここにいることを選んだようだ。彼にどんな過去があるのかは知らないけれど、ここにいたいと思うのならばいくらでもいたらいい。
願わくば、憂鬱で退屈な毎日が、少しでも明るくなればいいなと思う。