終わりの時
不自然な沈黙が広がった。目の前に座るフランツは、そんな中でまっすぐにこちらを見つめてくる。
自分の出方を探っているかのような、嫌な視線だと思った。一体、彼は自分からなにを引き出したいというのだろうか。
リュウと恋人の話を聞かされて、慌て戸惑う姿でも見たいのか。けれどそんなことを考えれば考えるほど、気持ちが変に落ち着いてしまう。
これは諦めのようなものかもしれない。
その沈黙も長くは続かなかった。玄関から物音が聞こえる。それは少しずつ近づいて、リビングと廊下を繋ぐ扉が開かれた。
「宏武、ごめん。いつものなかったから、隣駅行ってきた」
いつもと変わらない調子で、彼は自分に声をかける。玄関にフランツの靴はあったが、また三原のように、誰かが訊ねてきたのかと思ったのかもしれない。
しかし視線が持ち上がり、ソファに座るフランツを認めた瞬間、リュウの顔が強ばった。
「迎えに来ました」
一目でわかるほど顔を引きつらせたリュウは、固まったように動かない。そんな彼に小さなため息をついて、フランツはゆっくりと立ち上がり、歩み寄った。
だが近づていく彼から、逃れるようにリュウは少しずつ後ずさっていく。さらには追い詰められた小さな子供のように首を振って、口を引き結んだ。
「帰りましょう。あなたには帰るべき場所がある」
「嫌だ」
差し伸ばされた手を払い、リュウは大きく首を振る。そして我に返ったように顔を持ち上げると、こちらに視線を向けた。
まっすぐに向けられたそれは、自分に助けを求める目だ。その目を見つめて、なにを選択したらいいのかを考えた。
彼との時間は、満ち足りたものだったと思う。あれほど苦痛だった雨の日が、リュウといるあいだは忘れられた。
憂鬱で退屈な毎日が穏やかな日に変わり、最初の目論みはもう十分、果たされたんじゃないだろうか。
「リュウ、恋人ごっこはもうおしまいだ」
手を離さなくてはいけない時なんだと思った。もう自分は彼の傍にいられない。もうささやかな二人の時間は、終わりなんだ。
「宏武! 嫌だ。俺はあなたから離れたくない!」
彼が手にしていた買い物袋が、勢いよく床に放り出される。それと共に、アップルパイの入った白い化粧箱が、ぐしゃりと歪んだ。
しかし彼はそんなことなど気にもとめない。ただひたすらに、懇願するような瞳でこちらを見ていた。
じっと瞳を見つめたまま、動かない自分に痺れを切らしたのか、リュウは乱雑な足音を立てて近づいてくる。
そしてこちらへ両手を伸ばし、縋りつくように目の前の身体を抱きしめた。
強過ぎるくらいの抱擁で、身体が軋みそうになる。引き離そうとすればするほど、彼の腕に力がこもった。
そんな様子を見ていると、胸がズキズキと痛んでくる。離れがたいと思っているの、リュウだけじゃない。
けれどこのままではいられないんだ。
どうしたって彼を、元の場所へ返さなくてはいけない。それは最初からわかっていたことだった。
「あんたといるのは楽しかったよ」
「そんなこと、言わないで。嫌だ、嫌だ。離れたくない」
「帰りなよ。あんたのいる場所はここじゃない」
こんな感情は時間が経てば、消えるに決まっている。いまはなくしたものが大きくて、寂しさを埋めたいだけだ。
恋人の影を追いかけて、こんなところでくすぶっている場合じゃない。
「フランツさん。リュウを連れて帰ってください」
「宏武!」
顔を上げた彼は、信じられないものを見るかのように、顔を強ばらせた。両肩に指が食い込みそうなくらい、強く掴まれる。
その手が小さく、震えているのはわかっていたが、それには気づかないふりをして、向けられる視線から目をそらした。
「なんで! どうして一緒にいてくれないの!」
悲痛なその声に耳を塞ぎたくなった。リュウの綺麗な茶水晶の瞳に涙が浮かぶ。
光を含んだそれは、次第にあふれて頬を滑り落ちていく。
はらはらとこぼれるそれは、見惚れるほど綺麗だと思った。瞬くたびに伝う、涙は止めどなくあふれてくる。
手を伸ばして、その涙を拭ってやりたくもなるけれど、もうそんなことをしてやるわけにはいかない。
「ずっと一緒にいられるなんて、本当に思っていたわけじゃないだろう?」
「宏武の傍にいたい」
「あんたを待っている人がいるんだろ」
これは彼に与えられた、猶予期間だったんじゃないだろうか。本当はもっと早く彼を見つけ出していた。
それでも彼の心の傷を憂えて、先延ばしにした。きっとそうなのだろう。
リュウは目を惹くほど目立つ容姿だから、彼の情報は事欠かなかったに違いない。
家主の素性を調べ上げる時間があったくらいだ。すぐにでも連れ戻せたはず。
「さよなら、リュウ」
大きく見開かれた目から、また涙がこぼれる。
その涙は本当は誰のためなのか、そんなことを考えてしまう。大切な人の「代わり」がいなくなることが辛いのか。
それとも本当に、自分のことを想っていてくれるのか。それがわからない。
彼は肝心なことを、なに一つ言ってくれなかった。だがその答えを求めないようにしていたのは、自分だ。
これはなにもかもうやむやをして、顔を背けていたツケが回ってきたのだろう。
「リュウ、あなたのためにどれだけの人が動いているのか。もうわからない歳ではないでしょう」
こちらを見つめたまま、ふらりと彼の身体が後ろに下がっていく。立ち尽くしているリュウの腕を、フランツは強く引いた。
彼はその手に大きく肩を跳ね上げる。きっとわかっているんだ。いつまでもこのままではいられないことを。
甘い夢に浸って、現実から目を背けるのは簡単だ。
しかし夢は夢。永遠には続かない。
「なすべきことをなしてください」
冷静なフランツの声が、静かな室内に響いた。涙をあふれさせたリュウは、両手で顔を覆って俯いてしまう。
丸めた背中が小さく見える。その背中を抱きしめてあげられないことが、ひどくもどかしいと思った。
「桂木さん。本当にお世話になりました。このお礼は後ほど改めてさせて頂きます」
顔を落としたリュウの肩を抱き寄せると、フランツは丁寧にこちらへ頭を下げる。
それを見つめながら、大して気の利いた言葉も浮かばす、自分は小さく返事をすることしかできなかった。
ああ、こうしてすべてが失われてしまうのか、そう思ったら胸の中が急に空っぽになる。
小さいけれど確かな幸せを感じていた。
あの時間が長く続いたらいいなんて、心のどこかで思っていたのかもしれない。
玄関先まで二人を見送ったけれど、リュウは最後まで顔を上げることはなかった。
「最後くらい、顔を見たかったのに」
とはいえ最後に見る顔が、泣き顔になるのは、なんだかもの悲しい気もする。どうせ残すなら笑顔のほうがいい。
彼の笑顔は本当に温かかった。無邪気に笑う顔はすごく可愛くて、一緒にいるとこちらまで笑みが移るくらい眩しかった。
自分が思っている以上に、心は傾いてしまっていたようだ。空っぽの胸が痛んで、息ができないくらい苦しくなる。
この感情が簡単に消えるだなんて、どうして思えたのだろう。
離れてしまった彼を想って、心が軋みを上げる。必ずこの結末が訪れると知っていたのに。
「後悔しても、遅い」
わかっていたのに流された。
わかっているのに、我慢ができなかった。彼が自分のことを、気に入っていてくれているのを言い訳にして、自分は悪くないふりをしていたんだ。
本当は誰よりも、自分が悪いって気づいていたはずなのに。
俯いたら涙がこぼれた。
彼のいなくなった部屋は、やけにがらんとして、雨音がうるさいくらいに響く。
その音から逃れるように耳を塞いだ。しかし音は染み込むように大きく広がっていった。