駅前から商店街を抜けて、コンビニ前を通り過ぎると公園がある。その小さな公園は、天気のいい日は子供の声が賑やかに聞こえている。
けれどいまの季節は雨続きなので、夕刻の公園はしとしと降る雨と共に、静けさをまとっていた。
特別変わったところもない公園だが、そこに足を踏み入れると、色んな感情と思い出が俺の胸の中に溢れる。
初めてあの人に出会った時の胸の高鳴りや、まっすぐに自分を見つめる黒曜石のような濡れた瞳。そして差し出された透明傘。
それに手を伸ばした時、目の前にある身体を、抱きしめたいと思った。
自分の記憶にある、儚くて手折れそうな華奢な身体とは少し違う、細いけれど確かな男性的であるその身体を。
面差しがあの子によく似ていた。きっと柔らかい笑みを浮かべたら、そっくりだろうと思った。
だがあの人は笑うことに不器用で、いつもくしゃりと顔を歪めて笑う。その顔が幼さを感じさせて、ひどく可愛いと思えた。
そして時間が過ぎるほどに、自分の中にいた可憐な小花のような青年の面影は消えて、目の前にある幸の薄そうな、一人きりで風によそぐ寂しげな花だけになった。
その花は昼間は凜とした清廉さを持つが、夜になると艶やかな色を見せる。
匂い立つような色香に何度、我を忘れたかわからない。
しかし出会ったばかりの頃は、自分の感情に振り回されて、あの人のことを深く考えていなかった。
心を繋ぐよりも、身体で繋ぐことばかり考えていたのだ。
だからそんな自分が、酷く相手を傷つけていることもわからなかった。
さよならだと言われた時、初めて自分がなにも伝えていなかったことに気づかされて、湧き上がった焦りと共に深く後悔をした。
そんな自分に、あの人が手を伸ばしてくれたことは奇跡だと思う。彼を待った二年はひどく長く感じたけれど、それでもいまはこうして笑顔が迎えてくれる。
「ただいまー」
「おかえり、リュウ。雨脚が強くなって来たから、心配したんだけど」
「大丈夫だよ」
「全然大丈夫じゃないだろう。足元がべちゃべちゃ」
玄関扉を開けて声をかければ、リビングに続くガラス戸が開かれて、優しい顔をした人が出迎えてくれる。
一緒に暮らすようになって一年。彼は随分と穏やかになった。
以前は少し神経質さを感じたけれど、丸みを帯びて柔らかくなったように思う。
不器用な笑顔は相変わらずだが、それとは違う笑みを見せてくれるようになって、それがまた可愛い。
「ほら足拭いて、袋はこっちに頂戴、拭くから」
脱衣所から持ってきたタオルを差し出されて、濡れた足を拭いた。元より濡れるのは考慮していたので、ハーフパンツにスニーカーだった。
本当なら、サンダルでいいだろうと思っていたのだが、駅前まで行くのなら危ないから、ちゃんと靴を履いて行けと怒られた。
「ねぇ」
「ん、なに?」
「おかえりのキスは?」
買い物袋を手に、リビングへ戻ろうとする背中を呼び止める。そして振り返った視線に見せつけるよう、唇を人差し指でトントンと叩いた。
それに少しむず痒そうな顔をして、俺の愛しい人――宏武は、頬を染める。
何度繰り返しても、恥じらうその顔が可愛くて、ねだるのをやめられない。
じっと伏せた目を見つめていれば、背中を向けていた身体がこちらに向き直り、ゆっくりと近づいてくる。
俺の目の前で立ち止まると、ほんの少し視線を上げて綺麗な黒い瞳を向けてきた。
いつも潤んだように見える、その瞳をのぞき込むように見つめ、もう一度、指先で唇を指し示す。
「リュウ、おかえり」
ぽつりと小さな声で呟くと、宏武は顎を上げて俺の唇に柔らかな唇を押しつけた。
すぐに離れようと彼は身を引くが、俺は腰に腕を回してさらに抱き寄せる。そして離れた唇を追いかけて、食むように口づけた。
小さく肩が震えて、瞳が揺れたのが見えたけれど、そのまま薄い唇を割って押し入るように舌を差し入れる。
最初は逃げるように奥へ引っ込んでいた舌は、口内を撫でているうちに、おずおずと俺の舌に絡まってきた。
それに応えるように、たっぷりと撫でてやれば、小さな上擦った声が漏れる。
「宏武」
「駄目だ、そうやって、リュウはすぐに」
「だって宏武といるとむずむずしてくる」
唇を離すとうっとりと目を細めるのに、すぐに冷静さを取り戻す。それが少しばかり気に入らないが、流されてこないと言うことは、それどころではないと言うことだ。
「夜まで我慢しろ。まだ仕事が残ってる」
「……じゃあ、終わったらいつもの弾いて。そうしたら夜まで我慢する」
「いいよ。終わったらな」
「ありがとう。それじゃあ、俺は宏武のために美味しいご飯を作るよ」
リビングへ向かい、歩き始めた背中を追いかけて、ぴったりと寄り添えば、うなじを赤くしながら俯く。こんなにも目いっぱい愛しているのに、いまだに愛情を受け止めるのが下手くそだ。
でも夜のベッドでは、花が開くみたいな妖艶さがあるけれど。それを想像して、思わず口の端を上げてしまった。
「宏武、お茶淹れようか?」
「ああ、うん」
眼鏡をかけて、パソコンに向かう横顔はいつも真剣だ。集中してしまうと周りの音も聞こえないのか、話しかけても気づかないことがある。
だから集中してしまう前に、ハーブティーを淹れてあげることにしていた。
そうすれば仕事の合間でも、それに手を伸ばすからだ。そこまでしなければ、なにも飲まない食べない、トイレにさえ立つことがない。
だけどそういうストイックさは嫌いじゃない。まっすぐに仕事に向き合う姿勢は、見習いたいとさえ思う。
「ここに置いておくね」
最近のお気に入り、クランベリージンジャーをカップに注いで、宏武の目線に入る位置に置いてあげる。返事はないけれど、視線はちらりと向けられた。
見る限りもうだいぶ集中している様子なので、それ以上は声をかけずにキッチンへと戻る。
今日は昨日の晩に宏武が食べたいと言っていた、クリームシチュー。ホワイトソースは缶詰ではなく、小麦粉とバターと牛乳で。
さらにほんの少しスパイスを加えて、味をはっきりとさせる。宏武はシチューをご飯と一緒に食べるので、そのほうが進むようだ。
「ん? 電話かな?」
しばらく鍋に向かっていると、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。なかなか鳴り止まないので、火を止めてそれを取り出す。
画面には見慣れた名前があって、用件も予想ができたので、迷うことなく通話を繋げた。
「Allo! フランツ、今回はなんの仕事?」
「矢継ぎ早ですね」
「え? なにが早い?」
電話口から聞こえた言葉に、思わず首をひねる。離れているあいだの二年、そしていま過ごしている一年。
かなり日本語の勉強はしたけれど、日常的に使われない単語は、まだ理解できないことが多い。
「いえ、来月に演奏会があるのでそれに参加してください。音楽関係者との交流を目的とした、個人主催の演奏会です」
事務的な固い声をしたフランツ――彼は、俺の仕事のマネージメントをしてくれている人だ。
仕事を続けながら、宏武の傍にいるにはどうしたらいいかと相談したら、事務所を離れて独立するよう後押しをしてくれた。
スケジューリングからお金の管理まで、俺に関わることすべてを引き受けてくれている。
「それは宏武を連れて行ってもいい?」
「構いません。桂木氏の仕事に支障がないのであれば」
「わかった。じゃあ参加するよ。来月のいつ?」
「出立は二週間後、滞在は七日です。六日目の夜に主催者宅で演奏会が行われます。四日目までは、自由行動していただいて構いません。五日目にほかの方々と顔合わせ、演奏会の前は、オープニングセレモニーとしてお茶会が開かれますので、そこには必ず参加していただきます。そちらに桂木氏を同伴しても問題はありません」
「OK! 宏武に確認を取るよ」
簡単な内容と注意事項を聞いて、残りは資料を送ってくれと頼んで通話を切った。すると数分も経たないうちに、ファイルが送られてくる。
しかしそれはあとからタブレットで確認しようと、後回しにして、ホワイトソース作りを再開させた。
シチューを仕上げ、ご飯を炊いて、パンが焼き上がった頃に宏武が眼鏡を外したのが目に入る。パソコンの電源を落としたところを見ると、どうやら仕事は片付いたようだ。
じっと見つめるように視線を送ると、こちらを振り向いて小さく笑ってくれた。
「ご飯食べる?」
「その前に約束」
「あ! 弾いてくれるの?」
「ああ」
パソコンに向けていた椅子を反転させると、宏武は背後に置かれたキーボード型の電子ピアノに向かい合う。
電源を入れたのを見計らい、俺はリビングのソファに腰かけた。指ならしに音を鳴らしたあと、一呼吸置いて宏武の指は音を奏でる。
それは「ロンド ニ長調K.485」――軽やかな音が特徴的な可愛らしいピアノ曲。
そのリズミカルな音は奏者によって印象を変える。宏武が奏でる音色は、光の粉をふるったみたいに煌めいてた。
長いブランクがあるので素晴らしい技巧、とまではいかないが、彼の音は優しく胸に響いて心が惹きつけられる。
一度聴けば、また聴きたい、そう思わせる不思議な引力があった。
十年以上前、宏武はピアニストだったが、不幸な出来事があって弾くのをやめてしまったらしい。それを聞いて、正直言えばもったいないと思った。
いまも続けていれば、きっとなにかが違っていたはずだ。
再びピアノを弾くようになって一年。最初は拙く頼りなげな音だったけれど、日を追うごとにその音色は、響かせる音を変えていった。
安っぽい音させる電子ピアノなのに、宏武が指を滑らすだけで、眩しく美しい景色を見せてくれる。
いまでさえこれほどなのだから、現役時代はさぞ聴衆を惹きつけて止まなかっただろう。
賞など獲ったことはないと笑っていたが、この音にランクをつけるのは意味のないことだ。
コンクールなどは、いかに原曲通りに美しく弾くか、それを競う場所。宏武のように、彼ならではの音を奏でる奏者は好まれないことが多い。
だから賞の有無は聴き手には関係がない。
「宏武は弾くごとにうまくなるね。だいぶ指も感覚を思い出しているんじゃない?」
ピアノの音色が鳴り止むと、余韻があとを引く。耳の奥に残るそれを堪能しながら指を動かしていると、背後から首元に腕が絡んできた。
すり寄るように寄せられた頬に、自然と笑みが浮かぶ。
「プロのピアニストにそんなことを言われると、恐縮するね」
「いまの宏武ならどこで弾いても拍手喝采だよ」
「それは言いすぎ」
自信満々で答えたのに、宏武は受け流すように笑った。まだ自分の音に納得がいっていないようだ。
だが十年――指が動かなくなっても、おかしくない歳月が流れている。それなのに宏武の指は音を奏でた。
それだけですごいことなんだって、わかって欲しいのに彼は強情だ。でもそれも彼らしいなと思う。
そういう宏武だからこそ、愛おしいなと感じる。
純粋で、清らかで、無垢な白さを感じさせる彼の傍にいると、自分まで心を洗われるような気分になれた。
きっと本人に言っても笑われるだけかもしれないけれど。
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