その行く先
これから先、宏武にどれだけのものを与えたら、彼の想いに報いることができるだろう。
いつだってまっすぐに、俺のことを愛してくれる。俺のためにすべてをさらけ出そうとしてくれる。
俺の心に、たくさんの愛情を注いでくれたから、心にあるそれは伸びやかに大きく育った。この胸の中にある、想いを見せることができたら、それも少しは伝わるのに。
まぶたを持ち上げたら、目尻を赤く染めた宏武が眠っていた。すうすうと小さな寝息が聞こえて、まだ熟睡していることがわかる。
あれから散々抱き合って、お互い眠りに落ちたのは夜が更けた頃だった。
もう無理だと宏武がぐずつかなかったら、俺はまだこの身体を飽きることなく抱いていただろう。
しかしここに帰ってきたのは夕方近くだったから、それから数時間はしていたことになる。自分の性欲の強さには正直驚く。
アキと一緒にいた頃は、ここまでひどくなかった気がする。それが愛情の深さの違いだとは思わないが、なぜだか宏武にはそそられてしまう。
黙っていてもなんだか色っぽいから、そこに惹かれるのだろうか。
どちらかと言えば、アキは少年のようなあどけなさがあったから、そういう色気や欲からは遠かったのかもしれない。隣にいるだけで十分、癒やされた。
しかし宏武は抱き寄せて、腕の中に閉じ込めてしまいたくなる。触れていないと我慢ができない。
それはきっと誰かに盗られるのが怖いんだ。アキは子供の頃からずっと一緒だったから、自分のものだって意識があった。
それにひきかえ宏武は自由な人だ。俺の世界だけではない、彼自身の世界を持っている。
仕事仲間も友人も、俺はほとんど知らない。ふらりとどこかへ行ってしまったら、俺は探し出すことができなくなる。
だから少しでも自分の腕の中において、安心したいんだ。
「可愛い」
眠る顔を眺めながら、唇を指先でつついたら、ちゅっと小さく吸い付いてきた。それが可愛くて、何度もふにふにと唇をいじってしまう。
すると触りすぎたのか、むず痒そうに唸って、顔を俺の胸元へ埋めてくる。
その仕草にまた胸が高鳴って、額やこめかみに何度もキスを落としてしまった。
「宏武、んふふ。可愛いなぁ」
「いつまで寝ているんですか」
「……っ! え?」
急に自分以外の声が聞こえてきて、肩が跳ね上がるほど驚いてしまった。慌てて後ろへ顔を向ければ、見慣れたグリーンアイが細められている。
手にしていたタブレットのカバーを閉じると、椅子に座っていたその人はゆっくりと立ち上がった。
自分よりも数センチ背の高い、彼に見下ろされると、すごく威圧感がある。
「フランツ! なんで部屋に入ってるんだよ!」
「二人揃って、何度呼び鈴を鳴らしても出てこないからですよ」
「そ、それはまったく気づかなかった、けど」
「早く起きて支度をしてください。桂木氏の衣装と靴は引き取ってきました。一時間で準備を終わらせるように」
厳しい視線が突き刺さる。それを受け止めながら時計に目を向けたら、十一時になるところだった。スケジュールを頭の中で思い返して、慌ててベッドから飛び起きる。
今日は十三時からお茶会が開かれるのだった。
ここからグレーテの邸宅まで四十分ほどはかかる。
一時間でもかなりギリギリだ。
「桂木氏はしっかり、シャワーを浴びさせてくださいね。その色気を振りまかれたら、周りはたまったものではありませんよ」
「宏武の寝顔を勝手に見たの!」
呆れたような声音で紡がれた言葉に、俺は覆い隠すみたいに宏武を抱き寄せてしまった。だが睨み付けるように視線を向けても、フランツはため息交じりに肩をすくめるだけだ。
さらに威嚇して低く唸れば、腕時計を指し示しトントンと、指先で叩かれた。
「ラウンジで待っています」
「あーもう! フランツの馬鹿!」
後ろ姿に向けて枕を投げたけれど、あっさりと避けられる。そしてさっさと部屋を出て行ってしまった。あとに残された俺は、悶々とした感情を募らせる。
「宏武の寝顔は俺のなのに」
「リュウ?」
苛立ち紛れに布団を叩いていたら、宏武が身じろいだ。小さな声に視線を下ろすと、不思議そうな顔をして俺を見上げている。
「ごめん、起こしちゃった」
「いや、いま何時?」
「あ、十一時」
「えっ! 時間っ」
俺の言葉に目を丸くした宏武は、慌てたように身体を起こす。
目を瞬かせる彼はすっかり、日常と変わらないけれど、掛け布団が滑り落ちてあらわになった身体は、昨日の情事の跡を色濃く残している。
身体中のうっ血がいつもよりひどい。噛みつき痕がないだけマシなのかもしれないのだが、その分だけ赤い印が身体中に散っている。
それでも首筋に残さなかった自分は、褒めてもいい。
「とりあえずシャワーを浴びよう。洗ってあげる」
身体に吐き出したものはすべて掻き出したが、こびりついた体液は拭い切れていない。のんびりもしていられないので、動くのが辛そうな宏武を抱えて、シャワールームへと急いだ。
それから情事の色が抜けきるまで、たっぷりとシャワーを浴びて、髪を整え、衣装を着込んで、ラウンジに下りたのは十二時きっかり。
つま先から天辺までフランツに目視されて、頷いたその仕草にほっと息を吐いた。
スピードを少し上げた車は、なんとか十三時ちょうどに邸宅に到着をする。その到着を、随分と待ちかねていたのだろう屋敷の執事は、玄関先でオロオロと俺たちを待っていた。
車を降りるなり、慌てた様子で近づいてきて、なにかあったのかと心配していたと真っ白い眉を下げる。
それを笑みで誤魔化して、到着が遅れたことを詫びた。
本当なら三十分くらいは前に、到着している予定だったので、心配も当然と言えば当然。茶会はすでに始まっているらしく、ゲストも俺たちを除けばすでに揃っているようだ。
「奥様はあちらでお待ちになっております」
少し足早にゲストが集まるホールへ通される。夜には会場となるそこは想像以上に広い。
いまはテーブルに茶菓子やシャンパングラスが並んでいるが、椅子を並べたら優に百席くらいは用意できそうに見えた。
そんな広間の一角。入れ替わり立ち替わり人が並んでいるそこに、女主人グレーテがいた。
近づく俺の気配に気づいたのか、顔をこちらへ向けて彼女はいつものように優しげに微笑む。
「まあ、リュウ。待ちかねたわよ。主役の到着が遅いから、うちのヨーゼフが真っ青になっていたわ」
「すみません、ホテルを出るのに少々時間がかかってしまって」
「そう、それは仕方のないことね」
言葉を詰まらせる俺に、グレーテはやんわりと目を細めた。そしてなにかを探すように視線を泳がせる。
その視線の意図にすぐさま気づいた俺は、背に隠れていた宏武を一歩前へと促した。するとブルーの瞳を大きく瞬かせて、彼女は小さく声を上げる。
「まあ、まあ、あなた。ヒロムではなくて?」
「ミセスグレーテ、宏武のことをご存じなのですか?」
少女のように目を輝かせるグレーテに、思わず首を傾げてしまった。けれど彼女は宏武から視線を離さずに、何度も大きく頷く。
「ええ、もちろんよ! まあ、嬉しいわ。またあなたに会えるなんて。あの頃からちっとも変わらないわ」
少し興奮したように宏武の両手を掴むと、グレーテはその目に涙をにじませる。しかしその反応に宏武は、戸惑ったような表情を浮かべていた。
「ああ、ごめんなさいね。あなたに会ったのはもう十年以上前で、一度きりだもの覚えていないわよね。でも私はあなたのピアノを何度も聴いたわ。演奏会に出ると聞けば、どこへだって行ったものよ」
「宏武はそんなに有名だったんですか?」
「そうよ! コンクールの受賞歴がないから知らない方も多いけれど、一度でもヒロムのピアノを聴いた人は、みんな虜になったものよ。独特のリズム感とそれはもう美しい音色で」
「
両手を胸に当てて想いを巡らすグレーテに、思わず勢いのままに声を大きくしてしまった。
そんな俺の声に彼女は大きく目を瞬かせたが、我に返って視線を合わせると、ふっと目元を和らげて笑う。
「そう、いまでもピアノを弾いているのね。嬉しいわ。もうこの世界には戻らないの?」
まっすぐとしたグレーテの眼差しに、宏武は少し困ったような笑みを浮かべる。それからしばらく言葉を探すように、目を伏せていたけれど、ゆっくりと顔を持ち上げて首を横に振った。
「いまは、好きな人の傍で弾くだけで十分です」
「ヒロムはいまが幸せなのね」
「はい、とても」
はっきりと、そう答えた宏武に、グレーテは浮かべた涙を溢れさせる。その様子に傍に控えていた執事が、慌ててハンカチを差し出した。
涙を拭い、至極優しい笑みを浮かべた彼女は、宏武を両腕で強く抱きしめる。
「将継のことは残念だったわ。けれど、いまあなたが幸せで、本当によかった」
「ありがとうございます」
二人はしばらくきつく抱擁を交わした。きっとマサツグと呼ばれた男に、想いを寄せているのだろう。
彼らの中に残るその人は、どんな人物だったのだろうか。同じピアニストなのに、俺はその人のことをよく知らない。
ピアノを始めたのは三歳の頃。けれど俺が自国の外に初めて出たのは、ちょうど十年前。もうその時には彼はこの世界にはいなかった。
母親は日本が好きではなかったし、不幸な亡くなり方をしたので、噂にも上がってこないのだろう、と言うことは想像できる。
偉業は風化して、その人の姿はもうここにはない。
その名を聞くこともほとんどない。それでも彼は人の記憶の中に根付いている。宏武のパートナーとして。
「リュウ? どうしたんだ?」
「あ、ごめん、少しぼんやりしちゃった。グレーテは?」
「もうほかのゲストのところへ行ったよ」
「そう」
心配そうに見つめてくる瞳を見つめ返し、そっと手を伸ばして目の前の身体を抱き寄せる。なぜだか急に、心の中が真っ暗になった気がした。
これから先、俺はどこを目指していけばいいのだろう。
どこへ向かったら、この焦燥から逃れられるのだろう。絡みつくような影に、身動きができない。
こんなことで不安になるなんて思わなかった。宏武は幸せだって笑ってくれたのに、どうしてこんなに胸が苦しくなるんだ。
どうしてこんなに俺は、怯えているんだろう。
不安と焦りの感情ばかりがぐるぐると渦巻いて、胸の中が真っ黒に焼け焦げてしまいそうだ。立っているのが不思議なくらいに、視界がぐにゃりと歪んでいく。