その人に出会ったのはいつもの帰り道。秋の気配を感じさせる、金木犀の香りに誘われた時だった。
視線を向けた先には広い庭があり、オレンジ色の小さな花を咲かせる木が目に入る。
そしてその傍らに、長い髪をそよがせた見慣れぬ人が立っていた。
そこはずっと空いていた家で、数年前までは老夫婦が住んでいた。幼い頃はその夫婦によくしてもらったのを覚えている。
まんじゅうや大福、干し柿をくれて、それが目当てでよくその家を覗いたものだ。けれどそんな自分にも、二人はとても嬉しそうな笑顔を向けてくれた。
どことなくその面影を感じさせる横顔。おそらく彼は二人の血縁者なのだろうと思った。
「こんにちは」
ふいに声が響いて、自分が足を止めて垣根の向こうを、じっと見ていたことに気づく。優しい声の主は、そんな俺に柔らかな笑みを浮かべていた。視線が合うと、その姿を思わずまじまじと見つめてしまう。
薄茶色いさらさらとした髪。髪の毛と同じ色をしたガラス細工みたいな瞳。ほんのり色づいた弧を描く唇。袖を捲った腕は白く細く、全体的に線が細いのは目に見えてわかる。
綺麗な人だと思った。いままで周りにいなかったタイプで、清楚で可憐――そんな印象を受けた。
「あっ、こ、こんにちは」
まだじっと見つめられているのに気づいて、慌てて返事をする。挙動不審極まりない俺に、その人はふっと息を吐くように小さく笑った。
「ここの金木犀はすごく綺麗だね」
「あ、はい。秋になるたびいい匂いがします」
「いつから咲いてるか知ってる?」
「え? いつだろう。俺が子供の頃から咲いてましたよ」
「そっか」
愛おしげにオレンジ色の花を見つめる、その横顔はひどく儚げで、香しい芳香と相まって、なんだか夢や幻のような錯覚をしてしまう。それは手を伸ばしたら、ふっとかき消えてしまいそうな不確かさ。
「君、靖希くんでしょう?」
「え?」
「祖母と祖父のアルバムに、君の写真があった。七年前だから君は小学生くらいだったけど、面影が残ってる」
思いがけず名前を呼ばれて固まってしまったが、その謎解きをしてその人はまた微笑んだ。
花が綻ぶというのは、こういうものを指すのだろうなと、そんなことを考えてしまう綺麗な笑み。
「僕は鈴原静慈って言うんだ。今日からここに住むから、ご近所さんになる。よろしくね」
「あ、工藤靖希です。よろしくお願いします」
なぜだか馬鹿丁寧に頭を下げてしまった俺に、静慈さんは小さく声を上げて笑った。鈴の音を転がしたような、可愛い笑い声だった。
「引っ越し、一人でしてるんですか?」
「うん」
「手伝いましょうか?」
「え? いいの?」
唐突な申し出にもかかわらず、静慈さんは目を瞬かせて小さく首を傾げる。そんな仕草も可愛いなと、なぜだか俺は胸を高鳴らせてしまう。
静慈さんは不思議な空気を持った人だ。どこか浮き世離れしていて、あどけなさを感じる。
「靖希くんはいまいくつになったの?」
「十七です」
「高校二年生かな? 大人っぽくなるはずだよね」
「静慈さんは?」
「僕? 僕はついこのあいだ二十六になったんだ」
「へぇ、そうなんだ。大学生くらいかと思ってました」
広い家に積まれた荷物は、それほど多くはなかった。一人暮らしはこんなものなのだろうかと、少し不思議に思うほど。
たくさんの難しそうな本と、少しばかりの衣類に日用品。
段ボールを荷ほどきしながら、俺は色々なことを問いかけた。傍で笑っている静慈さんのことが知りたくて、どうしてか近づきたくて。
「静慈さんはなんの仕事してるの? すごく本がたくさんあるけど」
「うーん、そうだね。物書きだよ」
「物書き? 小説家とか?」
「そういうのも書くけど、まあとにかく文字を書くのが仕事だね」
「ふぅん」
あまりそういうことに詳しくない俺は、曖昧に相づちを打ってしまった。けれどそれに嫌な顔は見せず、静慈さんは笑う。
子供だと馬鹿にすることもなく、見下すこともなく穏やかな目で俺を見る。
「今度、静慈さんが書いたもの読ませてよ。俺でもわかるやつ」
「退屈かもしれないよ」
「興味があるんだ」
「うん、いいよ。今度ね。家が片付いたらなにか探しておくよ」
優しく笑った静慈さんと小さな約束をして、それから日が暮れるまで一緒に過ごした。
荷物は多くないから、本当だったらそんなに時間がかからなかったはずなのに。
古いアルバムを見たり、昔話をしたり、少しでもここにいたくて、静慈さんの傍にいたくて。
「靖希くん、そろそろ帰らなくて平気?」
「大丈夫、母さんは帰って来るの遅いから」
「そう、お父さんは?」
「ああ、いないから。俺が子供の頃に出て行って」
「……そう、なんだ」
「あっ、気にしないで。俺もあんまり印象にないくらいだから」
ふいに表情を曇らせて口を閉ざした静慈さんに、俺は努めて明るい笑みを浮かべた。余計なことで、いまの時間を重たいものにしたくなかったから、気をそらすように別の話題を探す。
そんな俺の気持ちを察したのか、暗い顔をしていた静慈さんも、ほんの少し笑みを浮かべてくれた。
「あのさ、お祖父さんとお祖母さんがいた頃、静慈さんこの家に来たことあった?」
「うん、何度も来たことあるよ」
「俺はその時に会ってる?」
「……ううん、会っていないはずだけど」
「そっか、そうだよね」
会っていたら、こんな綺麗な人を忘れたりしない。けれどそう思うのに、不思議とこうして傍にいると、懐かしさを覚える。
既視感というのだろうか、傍にいるほどにその感覚に胸が騒ぐ。大事なことを忘れているんじゃないか、そんなことさえも浮かんでくる。
「静慈さん」
気づいたら手を伸ばしていた。綺麗な陶器のような肌に。そっと指先が触れた頬はほのかに温かくて、目の前にいる人が幻ではないことを実感させる。
どうしてそんなことを、思ってしまうのだろう。この胸に灯る火はなんなのだろう。
「靖希くん?」
「俺、どうしても、静慈さんに会うのが初めてとは思えない」
その切なげな瞳を見るのは初めてではない。俺をまっすぐに見つめるビー玉のような煌めく瞳。長まつげに縁取られたその瞳に浮かぶ涙。
いまにもこぼれ落ちそうな涙に気づくと、俺は腕を伸ばして細い肩を抱きしめていた。
腕に抱いた彼の身体は思った以上に華奢だった。それほど大きくはない俺の腕に、すっぽりと収まってしまうほどに。
きつく抱きしめると、細い肩が小さく震える。頬を寄せたら、静慈さんは息を飲んだ。
「静慈さん、もう一度聞くよ。俺はあなたと会っているよね?」
抱きしめた身体に覚えがある。伸ばされた腕に抱きしめられて、たまらない気持ちになった。
胸の奥がむずむずとして、浮かび上がってこない記憶に、もどかしさを感じる。喉まで出かかっているのに、はっきりとした答えを見つけられない。
そのむずかゆい感覚に、自分自身に対して苛立ちを感じてしまう。どうしてこんなにも心に引っかかっているのに、思い出せないのか。
「思い出さないで」
「どうして?」
「そのほうが、靖希くんは幸せになれる」
「自分が幸せかどうかなんて、俺自身が決めることだよ」
抱きしめていた身体を離して、顔をのぞき込む。綺麗な瞳は不安げに揺れ、薄く色づいた唇は引き結ばれた。
彼との記憶、思い出さなければと無意識に強く思う。
じっと見つめると、見開いた静慈さんの瞳から涙がこぼれ落ちる。その涙があまりにも切なくて、惹き寄せられるように目の前の唇に口づけた。
やんわりと触れた唇は少しかさついていたけれど、記憶の片隅にあるものを揺り動かす。
身を引こうとする身体を再びきつく抱きしめて、さらに唇を押し当てた。逃れようと横を向いた顔を追いかけて、今度は唇を食むように口づける。
声を飲み込んで、息をつく間も与えないほどに食らいつく。
「んぅ、んっ」
頑なに閉じようとする唇を割ると、舌を滑り込ませて逃げを打つ熱を絡め取る。鼻先から甘い声が漏れて、それをさらに誘うように何度も、口の中を撫で上げた。
目を開ければ、頬を上気させながら涙を浮かべる、彼の色香に当てられる。気づいた時には、細い身体を押し倒しその上にまたがる自分がいた。
「俺、ずっとこうしたいって思ってた」
細い首筋を手のひらで撫でて、思わずうっとりと目を細めてしまう。男性に欲情するなんていままでなかったはずなのに、なぜかいまはその感情が胸の中にストンと簡単に収まる。
ずっと触れたかったんだ。ずっと欲しいって思ってた。そんな想いが浮かんで、鼓動が全力疾走したあとみたいに暴れ騒いでいく。
「静慈さんは俺のこの気持ちの意味を知っているの?」
「し、知らない」
「ねぇ、キスをするのは何回目?」
柔らかな唇。それに触れた。何度も、何度も――記憶を揺り動かすように、固く閉じた蓋をこじ開けるように。確かめるみたいに何度も触れる。
そのたびに胸に甘い疼きを感じた。
いままで知らなかったはずのこの感覚を、俺は覚えている。目の前で瞳を潤ませるこの人を覚えている。
「静慈さん」
「やめて」
「俺は、思い出せなくても、あなたに何度でも惹かれる。あなたに触れたくなる」
「思い出さないで」
「どうして嘘をつくの?」
言葉は頑ななのに、見上げる瞳は縋りつくようだと思った。その目に心を激しく揺さぶられる。
けれど甘い心地を感じるのに、ぐらぐらと揺れた心と共に、かち割られるような痛みを感じた。頭がガンガンと痛み、冷や汗がこぼれ落ちる。
「……うぁっ」
「靖希、くん?」
胃がせり上がるような気分の悪さ。まぶたの裏でチカチカと光が瞬くような感覚。そして激しく痛む頭。
その合間に影がちらつく。悲鳴のような声が聞こえる。
「靖希くん! 思い出さないで!」
その悲鳴と静慈さんの声が重なった。泣き叫ぶような声――その声に心臓が凍り付いたみたいにひやりとする。
もがく身体を押さえ込んで、それに覆い被さる影。その横顔が見えた瞬間、我に返った。
あの横顔はとても見覚えのある顔だ。
俺と母を置いていなくなった――あの男だ。
汗がだらだらとこぼれ落ちて、身体が震えて、胃が燃えるように熱くなった。
「靖希くん、お願いだから思い出さないで」
「ごめんなさい、静慈さん。俺のせいだ。俺があなたに触れようとしたばかりに、あの男に目を付けられた」
「やめて、謝らないで」
燃え立つような憎悪と、胸が引き絞られるような悔しさが押し寄せてくる。けれどその感情を押しのけて余るほどに、愛おしさが湧いてきた。
好きだったんだ、本当に。
幼い自分にとっても、目の前にいる人は誰よりも、愛すべき人だった。
その人を無残にもあの男に奪われて、どれほど恨んだか。
どれほど憎んだか。
それなのに――。
「忘れていて、ごめん」
「靖希くん、僕を庇おうとしてたくさん殴られて、一週間以上も目を覚まさなかったんだよ。僕のせいでもしものことになったらって思うと怖かった。だから忘れていても、いまを生きてくれているならそれでいいって思って離れたんだ」
「静慈さん、俺は、あなたを守れなかった」
「お願いもう、言わないで。あんなことを思い出させたくてここに来たんじゃない。僕はただ、君に会いたかっただけなんだ」
どんな思いでここに戻ってきたんだろう。いい思い出なんか残らなかったはずだ。それでも会いたいと思ってくれる、その想いにどうやったら、報いることができるのか。
「静慈さん、俺とやり直してください。なかったことになんてならないかもしれない。だけどもう一度、初めから」
「靖希くん」
ゆるりと伸ばされた手が、そっと俺の頬に触れた。優しく包み込むように触れて、目の前にある涙に濡れた顔が、柔らかな笑みを浮かべる。
その笑みに胸が締めつけられた。込み上がった想いが溢れて、たまらず目の前の身体を抱き寄せる。
「静慈さん、好きだよ」
「僕も、靖希くんが好きだよ」
「俺が大人になったら、結婚しようね。……ずっと、一緒にいようね」
「……うん、約束。覚えてるよ」
それは大人になりきれていない、小さな子供の口約束。それにどれほどの意味があるかなんて、その時は深く考えてもいなかった。
けれどその約束は、彼の中でまだ生きていた。いまもまっすぐに彼は俺だけを愛していてくれる。
「秋を感じるたびに、君のために植えたこの庭の金木犀を思い出した。そのたびに胸が切なくて。でもこの季節になら、君に会えるんじゃないかって思ったんだ」
か細い腕に抱きしめられて、愛おしさばかりが募っていく。焦がれるような愛に触れるたびに、この人でなければ駄目なのだと思う。俺は何度だってこの人に恋をする。
だから何度だって囁くよ。あなたが教えてくれたこの愛を――。
金木犀の降る庭で/end
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