朝から尋常じゃない物音が響き渡る。物をなぎ倒すような音やドアが遠慮なしに力一杯開かれる音。でもこれは日常茶飯事なのでさして気にならない。
その後に必ず、こちらに向かってもの凄い足音が聞こえてくるのだ。ただ今日はいつもより些か激しい。
「氷室ーっ!」
バンっと頭に響く音と共にドアを押し開いて現れたのは、物音の元凶――北村蒼依さん。
僕の大切な恋人です。
「お前なぁ、なんで起こさねぇんだよ。今日は朝早いって言っただろうが」
端正な顔立ちを歪め、ずかずかとキッチンに立つ僕の傍までやって来て、絞め殺す勢いで僕の胸ぐらを掴んでいるけど、蒼依さんは僕の大切な恋人です。
大事なことなので二回言っときます。
「落ち着いて蒼依さん。まだ大丈夫だから」
「はぁ? 全然大丈夫じゃねぇよっ! 何時だと思って」
「ほら、まだ六時半」
ぎゅうぎゅうと締め上げられながら、蒼依さんの視線を点けっぱなしのテレビへ向ける。
画面の中ではアナウンサー達が、にこやかに只今の時刻を告げていた。
「ごめんね。ちょっと時計いじっちゃった」
「ざけんなっ」
完全夜型の蒼依さん。普段から夜更かしをしては、毎朝慌ただしく遅刻ギリギリに起きるのだ。いつもならそんな彼を頑張って起こしてあげるところだが、今日は僕も早くから大学へ行かなくてはいけなくて、蒼依さんの時計を一時間早めたのだ。
思いきり頭を殴られたけれども、無事に起きてくれて助かった。
「蒼依さん、僕もう大学に行かなくちゃいけないんだけど」
「は?」
「ゼミの研究忙しくて。でも朝ご飯は作ったから食べて行ってね」
眉間にもの凄く深い皺を寄せて振り返った蒼依さんに、つい苦笑いをしてしまう。今年十九になる僕より五つ年上だけど、蒼依さんは可愛い人だ。
感情表現が全部裏腹なくて真っ直ぐで、見ていて全く飽きない。今は細められている黒目がちな瞳は、決してぱっちりとはしていないけど印象強くて綺麗で、その目で見つめられるのがすごく好きだったりする。
「蒼依さん今日も残業? 晩ご飯までには帰ってくるから」
「……」
急に大人しくなった蒼依さんにほんの少し首を捻りながら、彼の首元にぶら下がるネクタイを絞めてあげると、ふいに手を掴まれた。
「座れ」
「ん?」
「お座り」
突然床を指差され、僕はわけもわからず反射的にその場に正座してしまった。首を傾げて蒼依さんを見上げるが、なぜか怒っているというよりも、すごく不満げだ。
「なんで言わねぇんだ」
「え?」
「早いなら早いって言えよ」
「えぇ?」
どうやら不満の原因は、僕のスケジュールを把握出来ていなかったということらしい。
なんて可愛い人なんだろう。
「でも蒼依さん、言っても一人で起きれないでしょ」
今まで寝坊しないで起きた姿など見たことないくらい、筋金入りの寝起きの悪さなのに。
「起きれるっ! お前がいないなら自力で起きる」
「……ん?」
確かに、僕と付き合う前からちゃんと会社へ行っていたわけだから、起きれないことはないはずだ。
「もしかして蒼依さん、僕に甘えてた?」
「……っ」
「あ」
ぶわぁっと擬音が聞こえてきそうなくらいに、首から耳まで蒼依さんの顔が真っ赤に染まった。あまりにもわかり易すぎる反応にこちらがうろたえる。
「ご、ごめん。今度はちゃんと蒼依さんに言うから」
「……急いでんならさっさと学校行けよっ」
「え、でも、これじゃぁ」
言葉とは裏腹に立ち上がりかけた僕の頭を抑えつけて、蒼依さんは真っ赤な顔を隠すようにそっぽを向く。
あまりのツンデレっぷりにニヤニヤしてしまうが、このままじゃさすがに時間がヤバい。
「明日は一緒に朝ご飯食べようね」
頭の上で突っ張る腕をやんわり避けて、目の前の細い腰を抱きしめると、ピクリと蒼依さんの身体が小さく跳ね上がった。
「もうそろそろ僕は行くけど、蒼依さんもお仕事頑張ってね」
「……」
そっと宥めるように背を撫でると、こちらを窺うみたいにそろりと蒼依さんの視線が下りてくる。その視線を捉えて笑みを浮かべて見せれば、照れ隠しなのだろう、途端に口が引き結ばれ眉間に皺が寄った。
「いってきますね」
「さっさと行け」
「はい」
身を引いた蒼依さんに合わせて立ち上がると、僕は彼の額に口付けた。その瞬間、ぎゅっと瞑られた瞼にキュンとなる。こんなに可愛くて年上だと言うのだから、たまらない。しかも普段の蒼依さんは、周りから言わせるとクールらしい。
僕の前では子供みたいに素直で、表情がくるくる変わる人なのにだ。これはもう優越感としか言いようがない。そして僕はというと、毎朝こんな賑やかしい始まりだけど、蒼依さんに怒鳴られないと一日が始まった気がしない。
「氷室?」
「あ、ごめん。ちょっと蒼依さんに見とれてた」
ぼーっと蒼依さんを見つめていたら、もの凄い怪訝な顔をされてしまった。
「は? 馬鹿だろお前」
「うん、まぁそうかもしれない」
近頃こうした蒼依さんの辛口を聞くと安心してしまう。元々の僕は決してマゾっ気はない。それどころか他人にそんなこと言われたら、間違いなく口より先に手やら足やらが容赦なく出ている方だった。だからこれは彼限定だ。
「大丈夫かお前。熱ある?」
「あー、蒼依さんが好き過ぎてその熱には浮かされてるかも」
「うざっ」
思いきりしかめられたその顔が、今日も愛おしいと思う僕は――やはりどうしようもない大馬鹿者になってしまったのかもしれない。
[僕の日常/end]
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