第7話 ブレブレの感情

 口説かせてほしい――そう言っていた希壱だけれど、無理に自分の気持ちを一真へ押しつけてこない。

 少しずつ少しずつ歩み寄ろうとする、いじらしさが文面や声から伝わってくる。ゆえになおさら一真は身動きが取れない。

 人間関係の築き方をもっと経験してきたら良かったと、この歳になって後悔していた。

「あら、一真。いらっしゃい。またまた久しぶりね。もう来月で今年が終わりよ」

「ああ」

 店の軒先へ続く螺旋階段を下り、営業中のプレートが下がる扉を開くと、明るいミサキの声に迎えられた。希壱とこの場所で会って以来の来店だ。

 突然の告白のあと、直接会うのを避け始めて、一ヶ月くらい経っている。一真がうだうだしているあいだに、年末が近づいていた。

 今日はなんとなく飲んで帰りたい気分になり、バーに足が向いた。一杯か二杯、飲んで帰ろうとその程度だったのだが。

「こんばんは」

 滞在して一時間ほど経ち、そろそろと思っていたところで、ふいに声をかけられた。
 今日の一真は、近寄るなオーラが全開だったため、この時間まで声をかけてくる者がいなかったのだけれど。

 少し驚きつつ、一真が声の先へ視線を動かしてみると――

「…………」

 隣に座っていたのは、弥彦と再会したあの日ぶりに見る顔。
 機嫌の悪さが伝わる表情を浮かべ、夏樹はもう一度「こんばんは」と言いながら、手にしていたグラスをいささか乱暴にカウンターへ置く。

「ああ、どうも」

「飲みに来る暇はあるのに、希壱くんをほったらかしなんですね」

(もしかして希壱の件に関しての苦情か? 来るんじゃなかったな)

「あんたに関係あるのか?」

「あるから言ってるんじゃないですか。その気がないならいつまでもキープするような真似、やめてくれません?」

 苛立った声で話す夏樹は、一真を睨むような目で見てくる。
 現在も希壱にアプローチしているのなら、この態度は仕方ないと思ったけれど、彼の言葉に一真は一瞬だけ思考停止した。

(キープ、キープか。はたから見るとそう取られるんだな)

「昔からの知り合いみたいですけど、希壱くんは本気でパートナーを探してるんですよ! あなたみたいに、特定の相手を作らないタイプとは違うんです。気持ちがないなら、早く諦めさせるのが優しさじゃないですか?」

(なるほど、俺がいると希壱がずっと振り向く可能性がない、からか)

「聞いてます?」

「聞いてるよ。ご忠告どうも。ミサキ、会計して」

「ちょ――」

「夏樹くん、人はそれぞれ歩幅が違うのよ」

 席を立った一真に、夏樹はなおも言い募ろうとしたが、ミサキが片手で制し、やんわりとたしなめる。

 支払いを済ませて店を出る間際、一真がわずかに背後へ視線を向ければ、夏樹はミサキに慰められているようだった。

「さむっ」

 外へ出ると、木枯らしという言葉にぴったりな、乾燥した冷たい空気が満ちている。とっさにコートの襟を引き寄せて、風が吹き込んだ首筋を隠す。

 やけに足早な自分の足取りに気づきながらも、一真は黙って駅へと歩き続けた。
 十分足らずで駅に着き、ようやく寒さから逃れると、ポケットからスマートフォンを取り出し、見慣れた名前をタップする。

 呼び出し音が数回鳴ってから、電話口から聞き慣れた声が聞こえてきた。

『一真さん、どうしたの?』

「話がしたい。そっちへ行ってもいいか?」

『……いい話じゃなさそうだけど。駅前で待ってるね』

「十五分くらいで着くと思う」

『わかった。またあとでね』

 薄々、というより明らかに、これから言われる内容を察している様子の希壱は、あっさりと話を終わらせた。

(断られると思って、もう諦めていた?)

 それはそれで話が早くて助かるのだが、一真はなんとなくすっきりしない気分にもなる。
 他人に流されるままする決断が、確定してしまうせいなのか。

 普段の一真であれば、他人に言われた程度で、自分の考えや行動を変えはしない。ただ今回ばかりは苦手な分野。

 そして現状、受け入れられないけれど、好かれている状況に安心感を覚えている。これは一真の悪い癖だ。
 成就しない恋だと思っているから、気長に構えていられた。

(俺は最低最悪な男だな)

 相手の好意に胡座をかいている。いままでの相手とは違う。純粋でまっすぐな希壱の感情を、ぞんざいに扱っているのだ。

(確かにその気がないなら、早く自由にしてやるべきだよな)

 乗り込んだ電車の窓からぼんやりと暗い景色を眺め、なんと言葉にしようかと一真は考えていた。

 いままでの恋人とは、どういう状況で別れたのだったか。思い出そうとしても、昔すぎるゆえか、それとも印象にすら残っていないのか。
 まったく思い出せなかった。

(恋愛に向いてないのは俺だよな。面倒くさいとかの以前に、まともに人と向き合えないんだ)

 大学時代まで、一真はわりと奔放だった。芸能界の片隅に在籍していた、という理由も大きいのだろう。
 仲間内でよく遊び、その場限りの付き合いも多かった。

 いまでもたまに、昔の仲間から連絡が来るけれど、そういった付き合いは気が向かず、すべて断っている。

 いつの頃からか、芽生え始めていた、恋人を、特別を作りたくないという感情。
 加え、これまでできていた遊びが、できなくなった理由は簡単だ。

 就職をしてしばらく経った頃。
 訳あって離れ離れだった――高校時代に一真が失恋をした――二人がまた一緒にいられるようになった。

 たまに揃った二人を見かけると、とても幸せそうで。
 まっすぐに愛し合っているから、一真は徐々に後ろめたくなっていったのだ。

 唯一の人が作れず、遊びほうけ。人の愛し方も忘れてしまった。自分という存在が愚かで情けなくて、いたたまれなくなる。

 こんな自分を本気で愛してくれる相手なんて、存在するわけがないと、心の中に諦めと投げやりが常に混在するようになった。

「希壱、お待たせ。寒い中、悪いな。どこかに入るか?」

「ううん」

「そうか」

 立ち話ですぐ済むという意味かと思ったけれど、駅近くの広場で待っていた希壱は、やけに真剣な目をして一真を見てくる。

 黙っているのもなんだったので、一真は自動販売機でホットココアを二つ買う。片方を希壱に手渡し、そのまま空いたベンチへ足を向けた。

「一真さん、話ってなに?」

「うん……」

 二人並んで腰掛けると、すぐさま話を切り出される。
 電車の中で散々悶々としていたのに、ろくに心の準備もできておらず、一真の口からは中途半端な返事しか出ない。

 数秒か十数秒か。沈黙が落ちてから、大きく息をついた一真の口先に、白い息が浮かび上がる。

「……俺は恋愛に向いてないみたいだ。希壱、お前とは付き合えそうもない」

 ようやく絞り出された言葉は、どこか言い訳じみていた。もっとほかに言いようがありそうなのに、さっぱり思い浮かばない。

「長く心に留めてくれたことは、嬉しく思うけど。俺には無理だ」

 なにを言っても言い訳にしか聞こえない。
 手持ち無沙汰に、一真は封を開けていないペッドボトルをぎゅっと握る。しかしふいに横から伸びてきた手に腕を引っ張られた。

 その拍子に手からペットボトルが離れ、地面に転がる。
 驚いた一真が、俯きがちになっていた顔を上げてみれば、まっすぐに自身を見つめる瞳があった。

「それは本心?」

「え?」

「それは一真さんの心からの言葉? 本気でそう思って、俺に伝えてる?」

「なにを言って」

「タイミングがおかしい。ついこのあいだ言われたばかりなんだ、夏樹くんに。まだ一真さんを追いかけているなら諦めろって。あの人は一つのところに留まるような人じゃない。俺には向かないって」

 目をそらさず、疑問を抱いた理由を語る希壱に、思わず一真は息を飲んだ。夏樹の言葉に流されるまま、ここへ来たのはすでに見透かされている。

 そう思うと、言葉が見つからないでは済まず、頭が真っ白になりそうだった。

「ここへ来る前に、夏樹くんに会った? 俺を早く振れとか、自由にしてあげてとか言われたの?」

「…………」

「俺は受け取らない。一真さんのさっきの言葉は絶対に受け取らないよ。だって本当に無理だって、思ってたわけじゃないでしょ?」

「そんなことは」

「見ればわかる。いま一真さん、どんな顔をしているか、教えてあげようか?」

 もう片方の腕もぐっと掴まれ、希壱のほうへ向き合わされる。真正面から見つめてくる彼の視線、言葉から逃げ出したくなった。

 だが一真の心とは裏腹に、希壱の手は逃すまいと、さらに強く掴んでくる。

「すごく苦しそうだよ。本気で向き合うのが難しいのは本当だろうけど、恋愛に向いてないとか、無理だとか、言いたかったわけじゃないんでしょ?」

「勝手に、俺の感情を決めつけるな」

「じゃあ、続きを言ってみて。なにが無理なの? 五つも年下の男は面倒? 対象外? そもそも好みじゃなくて、子供と付き合うなんて想像するのも嫌、とか?」

「希壱、やめろ」

 自虐的な言葉が続き、いたたまれず一真は、とっさに制してしまった。

 希壱が並べた言葉はどれ一つ、考えが及びもしなかったものばかりだ。唇を引き結んだ一真の表情を見て、希壱はそっと両手を頬へあてがってきた。

「俺はあなたがどれほど繊細で優しいか知ってる。見た目で誤解をされがちだけど、誰よりも他人を思いやる人だ」

「買いかぶりすぎだろ」

「そんなことないよ。覚えてる? 俺が高校時代にバスケをやってた時さ。プロチームからの誘いがあったのに駄目になった。一歩手前、最終試験の直前に怪我をして。結局は別の人が選ばれた」

 高校二年の終わりの話だ。そのあと怪我の療養に入ったまま、希壱はバスケを辞めてしまった。
 完治後、プレイに支障が出る怪我ではなかったけれど、おそらくもう気持ちが続かなかったのだろう。

 だが当時を覚えていても、希壱が感動的になるような場面は思い出せない。別段、一真がなにかをしたわけではないからだ。

「ふふっ、すんごい不可解な表情。一真さんにとってはなにげない、普通の対応だったから覚えてないんだよ。でも俺にはすごく沁みたんだ。なにも言わず隣にいてくれた、それだけのことが」

「……ココア一つでほだされたのか?」

 何度、思い返しても思い浮かばないはずだ。希壱の言うように、一真はなにもしていない。
 今日みたいにココアを手渡して、一緒に時間を潰した程度なのだから。

「ふはっ、まさか、違うよ」

 的外れすぎた言葉だったらしく、少し顔を俯けた希壱は、笑いをこらえている。

「励ましも鼓舞も、あの時は聞きたくなかった。みんなの気持ちはありがたかったけど。一真さんだけだよ。俺に言葉をかけず、傍にいてくれたの」

「その程度は――」

 しばらく笑っていた希壱が、至極真剣な目で見つめてきて、一真は言葉に詰まった。

「一真さんは相手の気持ちに寄り添える人だ。自分でわかってないだけ。だって一真さんにとって当たり前なんだもん」

 ずっと手のひらが頬にあてがわれているから、希壱と自分の熱が混ざり始めていた。

 だというのに、希壱はわずかに一真を引き寄せ、額を合わせてくる。
 一瞬ビクリと肩が震えたが、それ以上、一真は身動きできなかった。

「当時好きだった人が恋人と一緒にいるのを見ても、俺、全然平気だったんだ。そしたら気づいちゃったんだよ。ああ、もう俺の気持ちはとっくに先へ進んでたんだって」

(結婚式に参列していた誰か、か)

 相手はどんな人物かを考えようにも、希壱の交友関係には詳しくない。
 わりと身近な人物なのだろうけれど――そこまで考え、知ったところでどうなるのだろうと、一真は我に返った。

「一真さん。好きです。いますぐじゃなくていいから、あなたの言葉で返事をください。俺はイエスでもノーでも、きちんと受け止めるよ」

「……わかった」

 いまここでノー、と返事をしてしまってもいいはずだが、一真はなぜだかそれはしたくないと感じた。
 断る結果になったとしても、この場で返事をするのは違う気がしたのだ。

「ありがとう」

 頬から離れた希壱の手が背中へ回り、ぎゅっと強く抱きしめられる。
 突然のことに一真が驚き固まっていると、ちゃっかりと希壱は頬をすり寄せてきた。

 さすがに身を離そうとしたけれど、体格差なのか希壱はビクともしない。
 力負けしたのが悔しくなった一真は、理不尽につま先で彼の足を小突いた。

「一真さん、大好き」

「それはいいから、離せよ」

「駄目、もう少し」

「お前、ここ最寄り駅だろ? さっきから人に見られて」

「気にしない気にしない」

 いや、気にしろよ。と言いたいのだが、希壱にさらに胸へ抱き込むようにされて、一真はまったく身動きができなくなった。

 ますます悔しいことに、力強い抱擁と温かいぬくもりに気持ちが落ち着く。

 自分とは違う匂い。
 自分を腕に囲える大きな体。すり寄るぬくもりと、愛情たっぷりな〝好き〟の言葉。

 希壱は人を駄目にするクッションの如き男だ、とつい一真は現実逃避してしまった。

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