早く自分のものに――最後の一言が希壱の最大の願いだったのだろう。
あの晩から、わかりやすいアプローチが増えてきた。
一真が忙しくて時間を作れないと、ちゃっかり家にやって来ては泊まっていく。
「俺は外猫を飼った覚えは全然ねぇんだけどなぁ」
部屋にインターフォンの音が鳴り響き、一真は仕方なしに玄関扉を開けた。そこにはにこやかに笑う希壱の姿。
仕事を終え、帰宅した約三十分後の出来事だ。
「一真さんの邪魔はしない。大人しくしてるから、部屋のオブジェだと思って」
「それにしちゃデカいな」
夕刻に希壱から電話が来て、泊まりに行ってもいいかと聞かれるのが、最近のお決まりパターン。
一真はいい加減、このままでは駄目だと断るつもりでいるのだが、文字ではなく声なのが確信犯だ。
希壱に甘えねだられると、どうしてか一真は最終的に頷く結果になる。文字だけならおそらく悩むが断れるだろう。
それなのに必ず電話をかけてくるのは、一真が自分に弱いと理解しているからだ。
本当にずる賢い猫で非常に困っていた。
「今日は電話で言ったとおり、晩ご飯を用意してきた。兄さんに教えてもらって練習したよ。一真さんの好きなもの」
そろそろ断られるかも、と危惧したらしい希壱は、ついに一真の目の前に餌をぶら下げ始めた。
一真は一人暮らしなので料理ができる。
できるが、疲れていると出来合いの食事が多くなるのは、必然でもある。
そこで口に合う料理をぶら下げられると――まんまと招き入れてしまうのだ。
(意志が弱すぎんだろ、俺)
ご機嫌で「お邪魔しまーす」と部屋に上がる希壱を見ながら、一真は思わず壁にもたれ額を押さえる。
完全に期待させてしまっている状況下。
答えを伸ばし伸ばしにしていても、いつか自分のものになると、ほぼ確信されているのがわかる。
まったく断る隙を与えてくれない。
こんな中途半端な関係、もうやめよう。
言葉にすることすら、希壱は許してくれず、結局は最後まで言えずに飲み込まされる。
「ある意味、最強に執着心が強ぇよな」
「ん? なに?」
キッチンで料理を温め直し、皿に盛っていた希壱に独り言が届いたらしく、きょとんとした表情で顔を上げた。
黙っていると純粋、素直、従順で大人しそうな雰囲気。
蓋を開けてみれば、執着心バリバリの男だった。
以前好きだった相手も、好意を寄せていた期間が長かったようなので、気がものすごく長く、そうそう諦めないのだ。
(さて、どうするべきか)
希壱の存在は一真にとって、友人の弟であるが、彼が十代前半の頃に会っているため、自身の弟のようにも感じていた。
だからと言って二十歳を過ぎた、これから社会人になる男へ対し、弟のようで――なんて言い訳は通じない。
さすがにそこは一真も理解している。
すでにキスをしたり、体に触れることを許したりしている、その時点で希壱は恋人として一真の範囲内。
であるものの、踏ん切りがつかないのは心の癖だろう。
もう十年くらい、一真は決まった相手がいなかった。ブランクが空きすぎて、誰かと恋愛する自分を想像できない。
さらには他人に心を預ける、勇気が持てないのだ。
我ながら面倒くさい性格だ、と一真も思っていた。しかし人の心はそう簡単に、スイッチがオンオフできるわけではない。
「一真さんは和食が好きなんだね」
「なんでも食うけどな」
「和食は作るのに時間がかかるもんね。今日は定番の肉じゃが、きんぴら、酢の物と大根と油揚げの味噌汁」
「どれもすげぇ具がデカいな」
「まあ、でも味は保証する」
ダイニングテーブルに並んだ皿の上で、ゴロゴロとした具が存在を主張していた。
苦笑いする希壱だけれど、小さく丁寧に作られたのもいいが、これはこれで食べ応えがありそうである。
三島家の主夫であった弥彦直伝なら、味は間違いないだろう。
肝心の白米は常日頃、一真が冷凍保存してあるものでまかなった。
「そういや来月、入社式だよな」
「うん。緊張するけど、何人か知り合いが就職してるから、いくらか平気」
「お前の性格なら、大抵の人が優しくしてくれそうだけどな」
四月になれば希壱も新社会人。いっぱしの大人に仲間入りをする。
スポーツ用品を扱う会社で、企画開発部に配属されたようだ。
社風は明るくホワイトなので、ほぼ定時退社が約束されている。勤務時間が不規則な一真は少々羨ましい。
「仕事が始まったら、あんまり一真さんに会えないかな? 学校も新学期で慌ただしいもんね」
「春はどこもそんなもんだ。来期もクラスを持たない分、マシだ」
いただきます、と二人で両手を合わせてから始まる、のんびりとした食事の時間。
最近とみに増えた光景だ。
「だるいと思いながらも、一真さんは人助けしちゃうから心配。面倒見が良すぎるくらいだし、無理しないでね」
「俺が過多な面倒見だと知ってるなら、上手いことのっかるなよ」
「あはは、一真さんの人の良さにつけ込んで、毎日のように来ちゃってごめんね」
「笑って誤魔化しやがって」
(飯がうまいからいまは許してやるが)
ゴロゴロ野菜の肉じゃがは、丁度いい具合に味が染み込み、ご飯のお供に最適だった。
味の参考は弥彦のものだろうけれど、微妙なさじ加減が違っている。
そのへんが妙に一真の口に合った。
「ねぇ、一真さん」
「…………」
黙々と食事をしていると、ふいにかけられる声。ほかの者が聞けば、いつもとさして違わないように感じる声音だ。
しかし一真はそこに含まれた独特の雰囲気を感じ取る。
希壱がなにかねだるときに出す、イントネーションとでも言えばいいのか。
「希壱」
「今日も泊まっていったら駄目、かな?」
「お前、下心満載だろう?」
「今日は大人しくする」
「それが守れる確率は?」
「んー」
一真の問いに明後日の方向を向きながら、希壱は曖昧な声を出す。
ここのところ毎回泊まっていく、のはまだいいのだが――あの日以来、なんだかんだと一真を言いくるめ、希壱はベッドに入るとのしかかってくる。
無理やり体を暴くような真似はしないけれど、前回と同じ展開になっていた。
本気で嫌ならば殴り飛ばしたらいい。
そうはいかないのが男の悲しい性か。疲れていると出すものを出したくなる。
自分では面倒で寝入るところだけれど、希壱が勝手に気持ち良くしてくれるのだ。
(意志の脆弱な自分が恨めしい)
本当にこのままだと、大人としてだけでなく、人として駄目ではないかと思えた。眉間を指先で揉んで、一真は息をつく。
目の前の男は自分を落とす気満々なのに、少しグラグラしながらも、はっきりと決断しない状態。
いつぞやの〝キープ〟という言葉が一真の脳裏をかすめた。
とはいえそんな一真の心境を察していながら、希壱の眼差しは相変わらず断るのを許そうとしない。
そうだ――断られたくない。ではなく、許そうとしないのだ。
イエスでもノーでも、なんて言っていた希壱だが、いまは一真にノーを言わせる気がまるでない。
まさしく獲物として、標的を定められたと言っていい。
(これで俺にもう好きな相手がいた、とかなら諦めるんだろうな。特定の相手がいないから一歩も引かない)
よそ見をさせる気はない、と言わんばかりだった。
「一真さん?」
「で、答えは出たか?」
「はぐらかされた。んー、そうだな。一真さん次第かなぁ?」
「お前のほうがはぐらかしてんだろ」
「一真さんが優しすぎて、俺、ずるい男になっちゃうんだよな」
(自覚あるのがタチ悪い)
一緒に過ごす時間が増えて、見た目だけではわからなかった希壱の性格が、徐々にあらわになってきた。
性格が悪いのではなく、タチが悪い。
小憎たらしい台詞を言いながらも、相手に悪印象を与えない笑顔と雰囲気で、一真を絡め取ってくる。
「希壱、お前さ。……いままでの相手にもこんなだったのか?」
「お友達でって言われた人たち? してないよ。一真さんだから、こうして図々しいくらいアプローチしてるんだよ」
「図々しさに自覚があったのか」
「あるよ。普通の人だったら速攻で縁を切られそう。一真さん、優しくて格好良くて、可愛くて大好き」
ふふふっと笑いながら、もぐもぐときんぴらと白米を咀嚼する希壱に、一真は盛大なため息を吐いた。
「答えがわかってるみたいに、人の家に荷物増やしやがって」
料理のほかにも携えられていた荷物は、ちゃっかりクローゼットに先ほど収められた。
イエスかノーか。どちらに答えを出すかなど、もう一真もわかりきっていた。
ただ、いま答えを出してしまっては、負けた気になってしまい、ずるずると後回しになる。
なんの勝負だ――いつかも自分に突っ込んだ台詞を心で呟きながら、一真は黙って箸を動かした。
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