君が教えてくれたもの03

 改めて自分の中にある感情と向き合ったら、その中にある無意識の悪意に気がついた。一緒にいると楽しいのは彼が僕に害を与えないからだ。
 最初の頃のように僕の気持ちを無視した行為をしてこないから、自分にとって無害だから怜治くんを好きだと思えるんだ。僕は無意識のうちに相手に優劣をつけていた。
 これは恋愛の好き嫌い以前の問題だ。

「広志? なんで、泣くんだ」

「……僕、ずっと怜治くんのこと自分にいいように考えてた。嫌なことする怜治くんは好きじゃなくて、優しくしてくれる時だけ一緒にいるのが楽しくて、僕にとって都合のいい怜治くんならいいなんて思ってた。好きだって言う怜治くんの気持ち知りながら、いまも男の人同士の恋愛にすごく偏見があって、自分は関わりたくないって思ってる」

 怜治くんのことちゃんと考えているつもりでいた。でもそれはそう思っている――つもりでしかなかったんだ。
 特別扱いされることで得意になって、優越感に浸っているくせに、向けられる感情が自分の身に及ぶと一目散に逃げ出す。いいところだけ甘い汁を吸って、気に入らないところは見ないふりをする。

 まっすぐな怜治くんの気持ちをないがしろにして、僕は向き合う彼に背中を向けていた。最初から彼との未来は選ぶつもりがないんだ。だからいくら考えても思うような答えが見つからない。
 あまりにも自分勝手な本音に気がついて、僕は息が苦しくなるくらいむせび泣いてしまった。

「にゃぁん」

 子供みたいにしゃくりあげる僕を、こたつから顔を出したオオクラさんが見上げる。両手で何度拭ってもボタボタと涙がこぼれ落ちて、真っ黒な毛並みを濡らしてしまった。
 けれどそれを嫌がる素振りも見せず、オオクラさんは僕の胸に顔をすり寄せてくる。たまらずぎゅっと両手で抱きしめたら、ゴロゴロと喉を鳴らして僕に甘えてくれた。

「ねぇ、広志くん。それってそんなに間違ったことじゃないんじゃないかな。大抵の人はいつだって自分が一番だと思うけどな。怜治だって自分のことばっかり考えて行動してると思うよ。好かれたいって思うから優しくするんだよ」

 僕に手を伸ばすのをためらっている怜治くんを横目に、詩信さんは肩をすくめて笑った。あっけらかんとした物言いは、自己嫌悪に陥っている僕を慰めてのことだろう。

「でも、僕は怜治くんに向き合うつもりがないのに優しさに甘えてて」

「いいじゃない。甘えたいだけ甘えたらいいよ。優しくされたら嬉しくなるのは仕方ないよ。それに広志くんは泣けちゃうくらい、怜治のことちゃんと考えてくれてる。興味の欠片もない人間に胸を痛める人ってそういないからね」

 マイナス思考の塊になっている僕を、少しでも慰めようとしてくれているのか、詩信さんの声は優しくてあったかい。瞬くたび涙が滑り落ちていくけれど、なんでも許してくれそうな、日だまりみたいな笑顔を見ると少し気持ちが安らぐ。
 こんな時に相手の気持ちを、先回りして考えられるのが大人なんだなって、なんだかすごく納得させられる。僕も少しは人を思いやれる懐深い人間になりたいな。

「怜治にとって広志くんは、オオクラさんのお墨付きをもらった特別な子なんだよ」

「オオクラさんの、お墨付き?」

 ぱちんと片目をつむった詩信さんの表情に首を傾げながら、僕は膝の上でこちらを見つめる双眸を見下ろした。サファイアみたいな青と金粉を溶かしたみたいなゴールドの瞳。
 キラキラと輝く瞳は僕の目を見つめて小さく首を傾げる。――大丈夫? そう問いかけられている気がした。

「オオクラさんは怜治以外はほんとに容赦ないの。いい? ほら、こうするだけで」

「シャー! フーッ!」

 おどけた表情を見せた詩信さんが僕に向かって手を伸ばしたら、突然オオクラさんが毛を逆立てて鋭い猫パンチを繰り出した。いままで聞いたことのない威嚇の声と唸り声。
 いつものんびりとした姿しか見たことがなかったので、その敵意たっぷりな様子に驚いてしまう。

「毎日ご飯を用意するのも、トイレ掃除してあげるのも俺なのに。触らせてくれたことはおろか、可愛くにゃーんなんて鳴いてくれたことすらないよ。そんなオオクラさんが選んだのが広志くんなんだよね。きっと君なら怜治のこと幸せにしてくれるって思ったのかも。動物の勘ってやつかな」

「動物の勘? ねぇ、オオクラさん。オオクラさんには僕がどんな風に映ってるの?」

 初めて出会ったのは桜のつぼみがほんの少し膨らみ始めた頃。オオクラさんは僕の様子を窺うように遠巻きにして佇んでいた。
 いまと変わらぬ綺麗な瞳は、なにかを確かめるみたいに僕の行動を見つめていて、驚かせたり怖がらせたりしないように、細心の注意を払いながら僕は素知らぬふりをした。

 そして数日置きにやって来る麗しい猫に、僕はすっかり心を奪われてしまい、少しずつ近づく距離に心をウキウキさせたものだ。
 いま思い返せば、オオクラさんは大事な怜治くんが通う学校の偵察に来ていたのかもしれない。きっと学校の周りを巡回して、一番静かで落ち着ける場所を探していたのだろう。そこに先客の僕がいたから、様子見をしていたのだ。

「その綺麗な瞳にはなにが見えているのかな?」

「にゃぁう」

 僕の言葉に耳を傾けているのか、大きな耳が前を向いてピクピクと揺れる。じっと見つめるとオオクラさんはゆっくりと瞬きをした。
 それに応えて瞬きを返すと、一声鳴いてくるりと膝の上で身体を丸める。その背中に、余計なことを考えなくていいよと言われた気分になった。
 小さく呼吸を繰り返すぬくもりを撫でているうちに、胸の中でくすぶっていた感情がほどけて僕は大きく深呼吸をした。

「広志、お前は俺のこと嫌いか?」

 長い息を吐き出すと、それを見計らっていたように怜治くんがまっすぐな言葉を紡ぐ。こちらを見る目はどこか少し不安げで、その目を見つめ返す僕は胸が苦しくなってしまう。答えを返す唇が緊張で少し震える。

「……嫌いじゃ、ないよ」

 ようやく吐き出した言葉は相変わらず曖昧だ。けれど飴色の瞳がそらされることなく僕を見つめ、心の中を覗き込むかのような光を見せる。
 いつもそうだ。怜治くんの視線は言葉と同じくらいまっすぐで揺るがないから、嘘偽りを言葉にすることができない。その目に問いかけられたら、逃げ出すことができなくなる。

「じゃあ、俺のことは好きか?」

「……うん、好きだよ。でも、それは」

「でもとか、だってとか。その好きにどんな言い訳がついてきても、俺がいつかそんなの言えねぇくらい好きにさせてやる。だからいまは余計なこと考えずにまっすぐ俺を見てろ」

 ねぇ、その自信はどこから来るの? 僕のことどのくらいわかってるの? 僕は僕のことよくわからないのに、怜治くんはいつも確信めいたことを言う。
 目の前の瞳をじっと見つめ返すと、揺らいでいた瞳にはっきりとわかるほどの強い意志が宿った。彼はいつだって有言実行だ。その強さが時々羨ましくなる。曖昧で宙ぶらりんな僕とは違う、芯の通った真っ正直な人。少し眩しいくらい。

「広志くん、怜治を振るのは嫌いになってからでいいんじゃない? なんて保護者からすると応援したくなるから無責任な言葉だけど、前向きに考えてくれたら嬉しいな」

「あ、えっと」

「詩信、あんたはさっさと帰れ」

「はいはい」

 返事ができずに言葉を濁した僕を見かねたのだろう。詩信さんは怜治くんの投げやりな言葉に、嫌な顔も見せず柔らかく笑った。

「お節介焼いてごめんね。それじゃあ、お邪魔虫は退散するよ。広志くん、またね」

「あ、あの詩信さん!」

 ケーキの入った化粧箱を大事そうに抱え、詩信さんは部屋を出て行こうとした。しかしその背中を引き止めるように僕は声を上げてしまった。
 とっさに大きな声を出した僕に、少し驚いた顔を見せたけれど、詩信さんは小さく首を傾げて言葉の先を促した。

「ぼ、僕はいまのままでもいいんですか」

 これは詩信さんにするべき質問ではない。それは理解しているが、本人に問いかけることができない僕は藁にもすがる思いだ。

「……うん。そうだね。無理して怜治に合わせることはないんじゃないかな。広志くんがまだ気持ちが固まらないうちは、頷く必要はないと思う。広志くんが思う通りにしていいんだよ。怜治もその辺はきっと理解してる」

 しがみつく勢いで投げかけた言葉。それに返された答えは、いま僕が欲しいと思っていた言葉だ。詩信さんは僕の気持ちを理解して汲み取ってくれたのだろう。でも欲しい言葉をもらったはずなのに、どうしてだろう僕の気持ちは晴れない。

「なんだか、僕。ずるいですね。人に肯定してもらって、自分のこと許してもらおうとしてる」

「そんなに難しく考えなくていいよ。答えはシンプルだ。気持ちが固まったら素直に伝えればいい。怜治は君のこと傷つけたりしないよ」

 頑張ってね――そう言いながら詩信さんはひらひらと手を振り、ふすまの向こうに消えた。