君が教えてくれたもの04
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 人が一人いなくなっただけで部屋の空気が変わる。この部屋に来た時にはなかった緊張感が満ちて、胸をざわめかせる。小さな呼吸さえも大きく感じて、息を潜めてしまった。

「広志」

「な、なに?」

 閉じられたふすまを見つめたまま僕はわざと間を作った。けれどそんな小さな抵抗など、怜治くんにはお見通しなのかもしれない。
 後ろを向いたまま振り返らない僕を、まっすぐに見つめる視線がある。言葉より雄弁な彼の視線に、どうしたって負けてしまうのは目に見えていた。

「広志、こっちに来い」

 緩慢な動きで前を向くと、ぶれることのない強い眼差しが僕を見つめていた。小さく息を飲んでその目を見つめ返せば、ゆっくりと手を差しのばされる。視線は絡め取られたように外すことができない。
 こういう時に感じるのは、平凡さから逸脱した支配者が持つ気配。怜治くんに初めて会った時から感じていた。

 人を押さえつけてしまうような圧があるわけではないけれど、逡巡する気持ちとは裏腹に、思わず誘われるように手を伸ばしてしまいたくなる空気がある。
 言葉以上に感じる怜治くんの視線が、早く傍に行かなければという気持ちにさせた。僕はそろりとこたつを出ると、膝立ちのまま少しずつ彼に近づいていく。

「怜治くん」

 じわりじわりと距離が狭まり、怜治くんの横に並ぶ頃には緊張で手に汗をかいていた。小さく息を飲み込むと、差しのばされていた手が僕の頬を包み込むように撫でる。
 するすると果実の表面を撫でるような、柔らかい感触だけれど、僕はなぜだか胸の鼓動が早まり落ち着かなくなった。

「触られんの嫌か?」

「ううん、嫌じゃない。じゃないけど、ちょっと困る」

 苦しくなる胸を押さえた僕は、少し俯き視線を泳がせてしまう。けれど怜治くんはそんな僕を見て至極優しい笑みを浮かべた。それは先ほど見せた大人びた支配者の顔じゃない。
 年相応の少し幼さも残る少年らしいまっさらな表情だ。これは最近見せてくれるようになった顔。僕の隣で見せてくれる顔だ。

「え、わ、ちょっと、待って、怜治くん!」

 柔らかな表情に見とれていたら、ふいに肩を押されて僕はよろめいてしまう。慌ててバランスを取ろうとするが、怜治くんが容赦なく僕を押し倒しにかかる。
 尻餅をついた僕は、とっさに唯一である支えの怜治くんの腕を掴んでしまった。けれどそれはそもそもの間違いである。

「怜治くん! なにしてるの!」

 ぐっと顔が近づくと身体が重なるように触れ合う。そしてジタバタともがく僕などお構いなしに、そのままのし掛かるように床に押し倒された。
 毛足の長い絨毯のおかげで痛みなどないが、怜治くんに真上から見下ろされて、僕の心臓は痛いくらいに鼓動が早くなる。

「待って、待ってどうしてこうなるの!」

「めちゃくちゃ触れたくなったから」

「なんで!」

「あんたが泣くから」

 最近ちょっとはわかるようになってきたつもりでいたけれど、やっぱり怜治くんのこの唐突さは理解が追いつかない。どうして僕が泣くと押し倒してくるの? 触れたくなるってどういうこと?
 ぐるぐると頭の中が混乱してくる。けれどそんな僕を見下ろしながら、怜治くんは実にいい笑顔を向けてくる。そしてされているほうが照れくさくなるくらい、愛おしそうに僕の髪を梳く。

「怜治くんは泣いてる僕が好きなの?」

「あんたの泣き顔は可愛いよな」

「なにそれ、好きな子いじめる小学生みたいだよ」

「怒ってる顔も可愛い」

 ふてくされる僕に怜治くんは眩しそうに目を細めて笑う。なんだか澄ましたその顔が気に入らなくて、無駄な肉がついていない頬を指先で引っ張った。けれど嫌な顔もせずますます笑みを深くするばかりだ。

「広志は可愛いな」

「怜治く、ん」

 文句を言おうと口を開きかけた僕に、ためらいもなく怜治くんは口づけた。そっと触れるようなついばむキスを二回。驚いて固まる僕を見つめてさらにもう一回。何度も繰り返されるその行為に息が止まりそうになる。
 次第に頬が火照ってきてなぜだか目が潤む。薄くなる酸素を求めて唇を開いたら、その隙間に怜治くんの舌が滑り込んできた。

「ん、ふっ、れい、じくん。待って」

 キスをするだけでも心臓が跳ね上がるのに、慣れないこのキスは呼吸の仕方がわからなくなる。口の中を自分とは違う熱を持った舌が、動き回る感覚に背中がざわざわとした。
 無防備な内側を撫でられるたびに身体が震えてしまい、すがるように手を伸ばす。そんな僕の両手を受け止めるように、怜治くんは僕の身体を強く抱きしめた。

「広志、舌、引っ込めるなって」

「や、やだ。舌舐めるんだもん。それ変な感じするからやだ」

「変な感じ、じゃなくて。気持ちいいんだろ」

「ち、ちが、う、ん」

 僕の言葉を飲み込むみたいに口づけられて、とっさにすがりついた背中を強く握りしめてしまう。僕が強く握れば握るほど、怜治くんはあやすように髪を梳いて頬を撫でた。
 子供のようになだめすかされているのがわかるけれど、触れられると安堵してしまう自分がいる。許容量を超えそうな刺激に頭がパンクしかけても、怜治くんが優しく触れてくれるあいだは、まだ正気を保っていられる。

 でももしそれでも保てなくなったらどうするんだろう。想像したら少し怖くなった。慌ててしがみついていた手をほどいて、目の前の両肩を押し返す。

「れ、いじく、ん……やだ。も、やだ」

 舌がこすれ合う感触も、じゅっと強く吸い上げられる感触も肌がざわめいて仕方がない。首の後ろがなんだかこそばゆくて、身をよじって重なり合う身体を引き離した。
 けれど思ったほどの効果はなく、ほんのわずか隙間ができる程度。そんな隙間はすぐに埋められてしまう。怜治くんの手が僕の丸みを帯びた後頭部を鷲掴みにした。

 頭を固定されると顔をそらすこともできなくなり、溺れるみたいに酸素を求めてあえいでしまう。どちらのものともわからないくらいに混ざった唾液で、口元がべたつく。唇や顎を舌先で撫でられるだけで変な声が出そうになる。
 けれど必死で堪える僕などお構いなしに、息つく間もないキスが繰り返される。ぼんやりしているうちに着ているシャツがたくし上げられて、隙間に忍び込んだ手が肌を撫でた。

「ん、ぁっ、やだ、ぞわぞわする。やっ、んん。駄目、待って」

 手のひらから伝わる熱が、他人に肌を撫でられていることを強く感じさせる。意志を持った手が脇腹を撫でながら這い上がってくると、なぜだか涙がこみ上げてきた。
 潤む視界の先にある怜治くんを見つめたら、熱を孕んだ瞳が僕の視線を絡め取る。まっすぐな瞳に、身動きができなくなるような錯覚を起こす。まるで彼は脆弱な餌を目の前にした捕食者のようだと思った。

「怜治くん、もう、これ以上、やだ。お願い。……ぁっ」

 撫でられるたびに身体を震わす僕を、試すみたいに指先が胸の先をつまんだ。指先でつねるように引っ張られると、痛みとともにじんと甘いしびれを感じる。
 思わぬ刺激に身体が無意識のうちに逃げ出そうとした。けれど手は離れるどころかさらにぎゅっと指先に力を込めてくる。

「……れ、怜治くん、やめて、そこ……やだ」

 きつくつまみ上げられるとじりじりと痛みが増す。でもその奥からじわじわと湧き上がってくるものもある。
 でもその正体に気づきたくなくて、僕は身体をばたつかせてその手を振りほどこうとした。すると怜治くんは急に吹き出すようにして笑い、身体を起こす。

「な、なに?」

 手で口元を覆い笑いを堪えている怜治くんに拍子抜けしてしまう。驚きに目を瞬かせていると頭を優しく撫でられた。

「あんた嘘つくの下手だな。さっきからやだ、って言うわりに気持ちよさそうな顔してる。可愛いな」

「……なっ、そ、そんなことない! やだって言ってるのに、なんでそんなこと言うの! 怜治くんの馬鹿馬鹿! 僕が泣いて喜ぶとか最低っ」

 一気に身体中の熱が顔に集中した気がする。頭から湯気が出そうなくらい顔が熱い。勢い任せに両手を振り回したら、怜治くんは叩かれているにも関わらず声を上げて笑った。

「笑わないでよ! 怜治くんの馬鹿!」

 可愛いと何度も言いながら怜治くんは両手で僕の頭を撫で髪を梳く。その手はすごく優しいけれど、あやされているみたいでさらに恥ずかしさが増してしまう。僕のほうが年上なのに子供みたいだ。

「広志」

「……なに?」

 両手で頬を包み込んで怜治くんがまっすぐ僕を見下ろす。その瞳を見つめ返せば、ゆっくりと顔が近づき思わずぎゅっと目をつむってしまった。
 けれど気配はすぐ傍に感じるのにいつまで経ってもキスされない。しばらくそのまま待ってから自分の早とちりに気づいた。慌てて目を開ければ、ぶれることなく視線が合う。

「怜治くん、あの、えっと」

「広志。あんたの待っては二度目だ。……次は待たないからな」

 そっと額を合わせられる。目の前にある瞳に自分の姿が映っているのが見えた。光を宿す夕陽色の宝石は息を飲むほど綺麗だ。
 宝石みたいな瞳はオオクラさんとよく似ている。でも吐息がかかりそうなほどの距離にある瞳には彼の存在を示す力強い意志を感じる。

 僕と怜治くんのあいだにあったはずの高い壁が、どんどんとなくなっていく。このまま隔てるものがなくなってしまったら――その先は知りたくないと思うのに、それでも怜治くんのことが嫌いになれない自分がいる。
 三度目の正直――そんな言葉が頭に浮かんだ。自分で思っているよりもずっと僕の心は傾いているのかもしれない。

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