ハートの証拠02
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 そこから小一時間ほど足止めを食らい、最寄りの駅に着いたのは二十一時を回った頃だ。嫌なことはどうしてこうも立て続くのだろう。電車に乗る前よりも重たい気分でマンションに着いた。
 けれどのろのろと玄関前にたどり着き、鍵を開けて部屋に足を踏み入れたら電気が灯っている。廊下の先にある扉の磨りガラスから見える明かりに急に足が速くなった。

「香矢さんおかえり」

「……新吾、なんでいるの?」

「え? 会いたくなったから」

「なんで?」

「恋人にその反応はひどいだろ」

 リビングのソファに座っていた人が僕の気配に振り返った。それは昼間にも会った黒髪の男前で、にんまりと笑みを浮かべて僕を見つめている。けれどいつまでも僕があ然としているので、首を傾げて黒い瞳を瞬かせた。
 少し幼さも感じさせるその仕草は、普段とのギャップがあってものすごく可愛い。たまに見せるこの油断した表情はたまらなく胸を騒がせる。しかし見惚れてぼーっとしてしまったが、僕はハッと我に返り顔をぶんぶんと振った。

「どうかした?」

「どうかした、じゃないよ!」

「なに怒ってんの?」

「……新吾、僕に隠してることあるでしょ!」

 心底不思議そうな顔をして首をひねる新吾に、僕は手にしていた鞄を放り投げて声を荒らげた。けれど突然飛んできた鞄を慌てて受け止めながら、目の前の顔は驚きの表情を浮かべる。僕の言っている意味が理解できていない顔だ。
 その顔にますます苛立ちが募った。しかし掴みかかることも手を上げることもできなくて、苛立ちを紛らわすように寝室に足を向ける。顔を合わせていても文句ばかりがついて出るのが目に見えていた。そんなことになるくらいなら部屋にこもっていたほうがマシだ。

「ちょっと、香矢さん! なんで怒ってんの? 隠しごとってなに?」

「自分の胸に手を当てて考えなよ」

 戸を開いて逃げ込もうとしたところで後ろから腕を掴まれた。部屋にこもったら最後、機嫌が直るまで顔を合わそうとしない僕を知っての行動だ。付き合って一年も経っていないのに、七つも年下なのに、見透かされてるのがかなり悔しい。

「俺ははっきり言われないとわかんないって、香矢さんだってまどろっこしいのは嫌いだっていつも言ってるだろ」

「……てた」

「は?」

「店の女の子と二人で出かけてた! このあいだの休みは外せない用があって会えないって言ったでしょ! 僕よりその子がいいわけ!」

 再び声を荒らげる僕の言葉に、驚きの表情はだんだんと気まずそうな顔に変わる。あそこで聞かれていたんだ、そんな言葉が顔に浮かんでいた。前に僕が、話してる声はほとんど聞こえないよ、なんて言ったから気を抜いていたんだ。

「もう、ほんと最悪! 彼氏は堂々と浮気してるし、痴漢には遭うし、散々!」

「え? ちょっと、待った! 痴漢ってなんだよ? え? いつ、誰だよ」

「誰って、知るわけないでしょ! 頭が薄くて腹の出っ張ったおっさんだよ。人の尻撫で回した挙げ句に……って、ちょっと新吾なにっ?」

 ふいに腕を引っ張られて抱きしめられたかと思えば、おもむろに尻を触られた。抱きしめたまま器用に人の尻を揉みしだく新吾に、思わず身体をよじってしまう。

「ちょ、ちょっとやめてよ。新吾! なんなの!」

「俺だって最近あんまり触れてないのに、俺の香矢さんなのに、勝手に尻触るとか、腹立つ」

「やだ、やめろって」

「香矢さん、俺は香矢さん一筋だ。よそ見したことなんてない」

 腕の中でもがいていた僕の顔に唇が触れる。唇は目尻に口づけ、頬を撫で、僕の顎をすくい上げた。見上げるように上向かされて、熱っぽい視線に見つめられる。その目にドキリとしている間に、口を塞がれた。
 食らいつくみたいに口づけられて、息さえまともに吸い込めなくなる。喘ぐように声を漏らせば、隙間にぬるりと舌が忍び込んだ。

「んっ……やっ」

「香矢さん、好きだ」

 口の中を荒らされて、尻を撫でられ昂ぶり始めた熱を押しつけられた。それだけでもう顔が赤くなっていくのがわかる。けれど僕は目いっぱい力を込めて身体を押し離した。

「誤魔化さないで!」

「俺は誤魔化してない」

「さっき失敗した、みたいな顔してた!」

「それは誤解だ! 俺が気にしてんのはあの子と一緒にいたのを知られたことじゃない。俺は別にやましいことはなにもしてない」

 目の前の顔を睨み付けても新吾は怯むどころかまた腕を掴んできた。それを振り解こうと力を込めるけれど、かなり本気で掴まれていて振り解けない。その状況が悔しくて口を引き結んだら、小さく息をつかれる。

「そんなに拗ねるなよ。黒帯に本気出されたら俺だって吹っ飛ばされかねないんだから、マジにだってなるって」

「新吾にそんなことしたことないだろう」

「痴漢に間違われて出会い頭に一本背負いを食らわされました」

「それは悪かったって、謝ったじゃないか。って、いまはそんな話じゃない。ちゃんと証拠を見せてよ。本当になにもないって」

 苦笑いを浮かべる新吾に目を細めたら、なにやら考え込むように目を伏せられた。そらされた視線の先をじっと見つめていれば、また小さく息をつく。そのまましばらくこちらを見なかったが、意を決したように視線を持ち上げた。

「まだ言いたくなかったんだけど」

「な、なに? 別れたいとか?」

「それは冗談でも嫌だ。そういうことじゃない」

 至極真面目な顔をしてこちらを見る新吾に息を飲む。息を詰めて次の言葉を待てば、なだめすかすように頭を撫でられた。

「来月、一周年だろう?」

「なんの?」

「ちょ、なんのって! 俺たち付き合ってもうすぐで一年!」

「あ、来月か。それがなに?」

「あー、また価値観の差が出た」

 がっくりうな垂れたように頭を僕の肩に乗せて、新吾はあーとか、んーとかごにょごにょ言っている。付き合って一年ってそんなにめでたいだろうか。価値観の差ってなんだ? 俗に言うジェネレーションギャップ?

「俺、付き合う前に言ったと思うんだけど。いままで付き合った相手と長続きしたことないって」

「ああ、そういえば言ってたっけ。最長半年だっけ?」

「そうそう。だから香矢さん、俺に言ったよな。女とも長続きしないノンケ男が男相手に一年も続かないだろうって」

「うん、言った気がする」

「だから一年はお試し期間だって、一年付き合えたら全部許してもいいって」

「あー、言ったかな」

 そっか、だから律儀に僕の言葉を守って一年も手を出してこなかったんだ。結構我慢強い子だったんだな。普通一年もお預けなんて我慢できなくなりそうなものだよな。

「一年経ったら俺のことちゃんと認めてくれるんだろ?」

「えーっと、あ、うん」

 一年もなにも、もう僕はすっかりほだされて自分のものだって思い込んでいたけどね。しかしいまそんなこと言ったら怒られそうだな。約束とかすっかり忘れてた。

「で? それが浮気となにが関係あるの?」

「だから! 浮気じゃないって言ってんだろ」

「全然話が見えてこない」

「あー、もう! 要するに、記念日にお祝いしたかったんだよ! だから店とかそういうの教えてもらって下見してきたの! 香矢さんが行ってみたいって言ってたレストラン、あの子の親戚がやってて予約とかメニューとかの相談に乗ってもらってたんだよ。ほら、これ見て! 予約の確認メール!」

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