仕事で疲れた身体を引きずりながら帰路に着き、家の扉を開けたら、見知らぬ男が三つ指ついて出迎えてくれました。
嘘? ホント? ――ホントです。
「あんた誰」
おかえりなさいと満面の笑みを浮かべる男を見た瞬間、口から零れた言葉はまさしくそれ。けれど男は小さく首を傾げて笑うだけだった。
俺は反射的に扉を閉めて後退りすると、部屋の表札を確認した。けれどやはり何度確認してもここは――久野。
「俺の家?」
「慎一さん、間違いなく貴方の家だよ」
ふいに目の前の扉が開かれ、ビクリと肩が跳ねた。さも当たり前のように人の家から顔をだし、俺の名前を馴れ馴れしく呼ぶこの男に――俺は全く見覚えがなかった。
大体俺の知り合いに、見るも眩しいこんなイケメンオーラ満載の男はいない。この男は近くにいたら、絶対に忘れようがない顔だ。
「どうやって入った」
とはいえ、いくらイケメンでも俺に言わせれば不審者としか言いようがなく、否が応でも警戒心むき出しになってしまう。
「家政夫派遣で来たので、慎一さんのお母さんから鍵預かりました」
にっこりとそう笑う男は部屋の鍵と共に、なにやら書面を目の前に広げる。そこには確かにうちの母親の名前があった。
「ちょ、それちゃんと見せろ」
しかし書面の文章を読もうとした瞬間に、それをパッと視界から離され畳まれてしまった。
ますますこの男、怪しい。
「大体なんで家政婦なんだよ。悪いが俺は家事に関してはそこらの女に負けないぞ」
自慢じゃないが、俺はお嬢だった母親のおかげで幼少期から掃除、洗濯、料理まで――どれに置いてもエキスパートだ。それなのに家政婦だなんて、全く必要がないものだ。
「慎一さん、なにしてるの」
「……なにって、実家に電話してんだよ。見ず知らずの人間を傍に置いておけるかっ」
息子の許可なく他人に家の鍵を預けるとは、いくらのほほんとした母親でも度が過ぎる。
「ふぅん、そうですか」
実家にコールする俺を男はひどく不満げに見つめる。深く刻まれた眉間の皺は、最初に見せた笑みとは程遠い黒さを感じるのは気のせいか。
「あ、もしもし母さん? どういうこと、知らない男が家に上がり込んでんだけど……は? ちょ、え? 嘘だろ。待て勝手に決め」
俺が言い終わる前に通話は一方的に切断された。その通話時間、三十秒――無機質な不通音に呆気に取られ、携帯電話を見つめつつも、俺はこっそりと背後へ視線を向けてみる。
しかしじっとこちらを見ていた視線に、俺は難無く捕まってしまった。
「なんで電話しちゃうの慎一さん。俺、気づいて欲しかったのに」
「え、いや。だってお前……いきなりだったし。俺の知ってる隼人はもっとこう、小さくて可愛かった」
じりじりと詰め寄られ、焦りのあまり変な汗が滲む。
見知らぬ男と豪語したこの男は、その昔、兄弟同然に育った従兄弟の向島隼人だった。
「面影くらい感じてよ」
「あ、うーん」
残念ながら今の隼人に面影はほとんどない気がする。確か最後に会ったのは十年前で、俺が十七歳で隼人が十歳の頃だ。目の前にいる隼人は身長も伸びて骨格もすっかり変わっている。ただ今と昔、どちらにしても言えるのは顔が良いということくらいだろう。
「……不公平だ」
少なからず同じような血が流れているのに、このモデルばりのスタイルと背の高さ。そして嫌味なくらいのイケメンっぷりはどうしたことだろう。自分もそんなに容姿が悪い方ではないが……父親か、父親の遺伝子が悪いのか。
「慎一さん、俺を無視して他のこと考えないで」
「あ、悪い」
ずいと顔を覗き込むように近づけられ、思わず後退りしてしまう。苦笑いを浮かべれば、隼人は不服そうに目を細めた。
「まぁ、良いや。正直期待はしてなかった。慎一さんって自分に興味ないことは全部忘れるしね」
「……」
確かに自分で言うのもなんだがその通りである。でも、それじゃぁ俺は十年前からなんら成長がないと言うことじゃないだろうか。
「ほら、慎一さん入って。ご飯作ったから」
「あ、あぁ」
我が家なのに招き入れられるという不思議な感覚。リビングのテーブルに出来立てらしい食事が綺麗に並んでいる光景と、極自然に俺の上着を脱がせ、鞄を手に取る隼人に些か戸惑う。
同棲中の彼女か嫁でも貰った気分だ。
「なぁ隼人、家政婦なんて嘘なんだろ? 大学を勝手に退学して実家飛び出して来たってホントか」
「……」
「なんで退学したんだよ」
目の前の背中をじっと見つめると、上着をハンガーにかける隼人の手が一瞬だけ、ピタリと止まった。けれどしばらくの沈黙の後、振り返った隼人は何事もなかったように笑みを浮かべる。
「おばさんが言ったの?」
「あぁ、さすがに驚いた」
「ふぅん、そっか」
確か隼人が行った大学は難関も難関、超名門の大学だった。それを容易く退学してしまうなんて普通ならば考えられない。
「なんでまた」
「ん、どうしても、結婚したくなくてさぁ」
「へぇ、結婚か……って、結婚っ?」
さらりと事も無げに呟く隼人の言葉を、そのまま聞き流しそうになったが、自分で口にして驚いてしまった。
「け、結婚ってお前……いくつだっけ? もしかして見合いとか?」
「今二十歳、あとちょっとで二十一歳になるよ。最近なんか山のような縁談が来るんだよね」
大正、昭和じゃあるまいし、そんなに早く結婚って――。
「あ、そういやお前んとこの親父さん社長だっけ。やっぱ一人っ子だからか?」
「うん、婚約だけはさせておきたいんだってさ」
隼人と俺の母親は姉妹だが、片や極普通の平々凡々なサラリーマン。片や会社をいくつも経営する大企業の社長に嫁いだ。
だからこそお受験に忙しい隼人とは、次第に会わなくなったんだ。
「いくら跡取り息子だとしてもやり過ぎだなそれは、お前だってまだまだ遊びたいだろ」
隼人のルックスならば黙っていてもモテるだろうし、自由な恋愛して遊んで良い年頃だ。
「別に俺は遊べなくても良いんだけどね。結婚はしたくないんだ。……俺、慎一さんが好きだから」
「ふぅ、……ん?」
茶碗に盛られたほかほかの白米と、旨そうな晩飯に気を取られ、聞き捨てならないことを、今スルーしそうになった。
「だから、母さんと伯母さんにお願いしたんだ」
「な、なにを?」
なんだかどんどん雲行きが怪しくなってきているぞ。
「俺の誕生日まであと六ヶ月。一緒に暮らして慎一さんをモノに出来たら、婚約はなし。全く可能性を見出せなかったら実家に帰って婚約するって」
「はぁ? なんじゃそりゃっ」
話が違う。
隼人が実家と揉めているから落ち着くまでの間、うちで預かってくれってことじゃなかったのか?
「隼人……お前って」
「ゲイだよ。俺は男の人しか興味ない」
ぐるぐるしている頭の中に、更に容赦ない爆弾が投下されてきた。
「それで結婚ってどういう……あぁっ! ちょっと待て頭が悪くなりそうだ」
この際、隼人がゲイだろうがバイだろうがそれはどうでもいい。いいが、なんでこいつの人生を俺が左右しなくちゃならないんだ。
要するに、俺が断ればこいつは好きにもなれない相手と結婚しなくてはいけないわけで、長男で跡取りだから会社も継がなきゃならない。
「これって脅迫か」
「……なんでそうなるの? 別に断ってもいいんだよ。ただ六ヶ月間だけはここに置いて、行くとこないんだ」
「はぁ?」
簡単に断ってもいいなんて言うが、これを脅迫と言わずしてなんと言う。人に他人の人生を背負わせる気か。
「大丈夫、俺は黙ってレールの上歩く男じゃないから、自分でなんとかするよ」
「じゃぁ、これはなかったことに」
「でも少しの間、慎一さんの傍にいさせてね」
こいつ完全に今、俺の言葉を満面の笑みで、華麗にスルーしやがった。
そして再び目の前へ突き出された書面に目眩がした。お互いの母親が証人として、サインと押印しているそれは家政婦派遣の契約書ならぬ――。
「結婚同意書ってなんだっ!」
『久野慎一は向島隼人に六ヶ月以内に恋愛感情を抱いたら、向島隼人を婿養子に迎えること』
「そんな同意有り得ねぇっ!」
「よろしくね。慎一さん」
叫ぶ俺にふっと目を細めて笑った隼人の表情に、なにやら背筋に寒いものが走った。