ひと時

 皿が空になると、そのまま黙っていることができなくなる。重苦しいままでいるのが、耐えきれなくなって、意を決したように立ち上がった。
 静かだった空間に、椅子の脚がこすれる音が響く。

「リュウ、片付けはやるから、テレビでも見ていなよ」

 自分の行動にリュウは目を丸くしていたけれど、すぐにやんわりとした笑みを浮かべる。さらにゆっくりと立ち上がると、手元にある食器を引き寄せてそれを重ねた。

「宏武、手伝う」

「綺麗な手が荒れるだろう。じゃあ、洗ったの布巾で拭いて」

「わかった」

 大きく頷いたリュウは、幼い子供みたいに可愛く、思わずつられるように笑ってしまう。
 二人あいだにある空気が、元に戻ったような気がして、心の中に安堵が広がる。キッチンに向かう後ろ姿を見ながら、胸をなで下ろす自分に、少し呆れてしまった。

「宏武、これはどこ?」

「それは棚の二段目だ」

 リュウは料理はとても得意なのだが、正直言って後片付けはできない。基本的に掃除や洗濯、日々の雑用はしたことがないのか、身についていないのだ。
 初めて料理を作ってくれた時には、キッチンのシンクに山盛りの洗い物があり、びっくりしたものだ。

 きっと普段は、使い終わったものを片付けてくれる人がいるのだろう。彼は作ることにだけ、専念すればいいというわけだ。
 それでもここに来てからは、後片付けをする自分の後ろをうろうろして、手伝いたいと言い出すようになった。

 自主的にやりたいと言うのだから、手伝わせてもいいが、彼の綺麗な手や爪が傷つくのはあまり気が進まない。なのでもっぱら、食器を拭くのが彼の仕事だ。

 最初は拭くだけだったそれも、繰り返すうちにそれをしまう、ということも覚えた。彼といると。小さな子供にものを教えているような気分になる。

「これでおしまい」

 最後の皿を一枚洗い上げると、彼はそれを丁寧に拭いていく。そして教えた場所に、重ねた皿を片付ける。
 それを見届けて先にキッチンを出ると、リュウは戸棚からティーポットを取り出し、振り返った。

「宏武、お茶飲む?」

「ああ、うん」

「待ってて」

 キッチンはオープンになっているので、リビングに移動しても振り返った彼の声はしっかりと届く。
 問いかけに頷いてみせると、嬉しそうな笑みを浮かべてまた彼は戸棚を漁り始めた。

 その後ろ姿を見ていると、自然と笑みがこぼれてしまう。近づき過ぎるのはよくないと思っているが、それでもまっすぐに慕われるのは、悪い気がしない。

「でもそんなことばっかり、考えるのもよくないな」

 これ以上、余計なことを考えないように仕事をでもしようと、リビングの片隅に置いたパソコンデスクに足を向ける。
 スリープモードから立ち上がると、パソコンは小さなモーター音を響かせた。

 光を放つモニターの前に座り、仕事用の眼鏡をかける。すぐ傍にぶら下がった、カレンダーで日付を確認すると、二、三日中の締め切りが二つほどあることに気づいた。

 雨の季節は普段より、仕事のペースが落ちる。急いで片付けてしまわなければと、ファイルを開いた。

「はい、宏武。お茶淹れたよ」

「ありがとう」

 そっとデスクに置かれた、透明なティーカップの中で、優しく揺れるのはルビーのような、赤色をしたハーブティーだ。
 カップを持ち上げて鼻を利かせると、甘酸っぱい香りがした。

「クランベリーか」

「疲れた目にいいよ」

「ありがとう」

 健康志向なのか、リュウはハーブティーもそうだが、食べ物もオーガニックなものを好む。
 自分は腹を満たせれば、なんでもいいというタイプなので、それを知った時は少し驚いた。しかしいまは、リュウの気が済むようにさせている。

「テレビ、見てていい?」

「いいよ。借りてきたの観れば?」

「うん」

 リビングにデスクがあるので、テレビなども目に入ってくるのだが、集中してしまえば音も聞こえなくなる。なので仕事中でも、リュウには好きなようにしていいと言ってある。
 朝から晩まで、一日のほとんど二人とも家にいる。自分は仕事が家で事足りるものなので、作業中はまず外に出ることがない。

 リュウには、いつでも出かけてくれて構わないと言ってはいるが、家を出るのは一緒に買い物に出る時くらいで、同じようにほとんど家にいた。
 なにをしているかと言えば、朝から晩までテレビを見ていたり、家にある本棚の本を片っ端から読んでみたり。
 言葉を覚えることに興味が向いているようだ。

 借りてきたDVDなどは、字幕で観ていることが多い。彼はフランス語だけでなく、英語も理解しているらしい。
 英語で聞きながら、目で見て言葉の意味を覚えているのだろう。リュウは日本語を聞くことは完璧だ。だけれど話すことと、読み書きが苦手らしい。

「また懲りずにあれ借りたのか」

 プレーヤーに挿入されたDVDが再生されると、おどろおどろしいタイトルバックが流れる。
 それはホラー映画で、何作か続き物になっているのだが、ホラーが苦手なくせになぜか、リュウはそれを借りるのだ。

 そしていつもソファの上でクッションを抱きしめ、一人で跳び上がったり悲鳴を上げたりしている。今日もまた、半泣きになりながら見終わるのだろうと、思わず想像して笑ってしまった。

「宏武」

「……ん? どうした」

 しばらく一人で騒いでいたリュウだったけれど、ついに一人で観ていることができなくなったのか、助けを求めてきた。
 そこまでして観なくても、いいだろうと思うのだが、涙目で訴えかけられると、放っておくのも可哀想になってくる。仕事も区切りがいいので、息をついて眼鏡を外した。

「傍にいて」

「仕方がないな」

 床に腰を下ろしたら、潤んだ目でソファを叩いてくる。少し面倒くさいな、と思いながらも立ち上がれば、今度は座っている足のあいだを叩いてこちらを見つめてくる。

 一瞬ためらったが、しぶしぶそこに腰を下ろした。するとすぐに後ろから手が伸びてきて、身体を抱きしめられる。
 クッションの代わりかよとぼやきながら、一時停止されていた画面に向かい、リモコンを向けた。

 このシリーズは街にあふれるゾンビと、生き延びた人間のよくあるバトルものだ。その中に人間模様が描かれているのだが、最終回は賛否両論だった記憶がある。

 あらすじしか読んでいないので、詳しくは知らないけれど、どちらかと言えばB級ホラーの位置づけだった。
 ただ恋人と共にゾンビと戦う、ヒロイン役の子がなかなか綺麗でそこは評判がよかった。確かシリーズ全編通して、彼女が主役を演じていてた気がする。

 画面の中では、グロテスクなゾンビが次々と襲いかかってくるシーンが続く。そのたびに後ろでは、小さく息を飲み込むリュウの気配を感じた。
 肩に顎を乗せて、しがみつくようにぎゅうぎゅうと抱きつかれて、少し身体が痛い。

 本人は真剣に見入っていて、力加減に気がついていないのだろう。
 それにしてもこんなに苦手なのに、どうして観ようと思ったのか。レンタルビデオ店に行く時は、好きなものを好きなだけ借りていいと言っているので、自分で選んでくる。

 明らかにホラーとわかるジャケットだったし、性癖を考えれば、この主人公が好きで借りているとも思えなかった。と言うことは、話が好きなのか。

 しかし途中から観る限りだが、このシナリオはそれほど秀逸と言うほどではない。それに誰がどこで死ぬのかも、予想できるくらいに展開がベタだ。
 最後に恋人がゾンビになってラストだろう、なんて思ったら、本当にその展開に流れていく。

「I accept everything about you」

 あなたのすべてを受け止めたい――とそう囁きながらも、主人公はゾンビになった恋人を追い詰めていく。ゾンビになったものはもう二度と人になることはできないのだ。

 人ではなくなったゾンビと、残された人は当然だが、共存することもできない。最後に下す審判は一つしかない。
 彼女は一人取り残されるが、自分を救ってくれた新たなパートナーと共に、街に残るゾンビを一掃する。

 その時、彼女は人でなくなった恋人に向かい言うのだ。

「I love all of you」

 あなたのすべてを愛している――そう告げて、彼女は最愛であったはずの男を滅する。そこに涙は見えず、清々しいほどの笑みが浮かんで見えた。
 そしてこれで街が救われたのだと、パートナーと抱き合うのだ。彼女の愛とはなんだったのだろうかと、少し考えさせられる内容だった。

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