年度末の忙しさから抜けきらず、間を置く暇もなく、一真が新年度の忙しさに忙殺されている頃。
週に三日くらい来ていた希壱も仕事をし始め、ぱったりと来なくなった。
かといって連絡が途切れたわけでなく、メッセージは毎日届いており、電話もたまにかかってくる。
慣れない仕事を覚えるので、いまは手一杯なのだろう。
就業後、家に帰って寝てしまう――が続いているようだ。
真面目に仕事をしていると思えば、日々のつまらなさは我慢するしかない。
すっかり希壱がいた時間に慣らされて、忙しい最中、物足りなさを感じていたとしても。
「峰岸先生! あの、これなんですけど」
「ああ、それか。ファイルが行方不明?」
「そうなんです。誰が持ち出してるかわからなくて」
一真が悶々としつつも、仕事をこなしていたら、教師二年目、まだひよこの後輩が泣きついてくる。
急いでまとめたい書類があるのに、誰かが持ち出しリストにサインをせず、ファイルを持っていったようだ。
困ったことにこの時期はよくあるので、一真は手持ちの資料を鍵付きの引き出しから取り出す。
「これは以前、俺がまとめたやつだから、足りない部分もあるかもしれないが。少しは進められるだろう? 行方不明のファイルは、全体にメッセージを送っておけ。誰か気づくはずだ」
「た、助かります。終わり次第、すぐに返しますね」
「なくすなよ?」
「はい!」
涙目になっていた彼は、今度は感激の涙を浮かべて去って行った。
そろそろ書類の電子化も進めるべきなのかと、一真はため息をつく。
しかし年配の教師もまだ多いので、パソコン作業が苦手な人も少なからずいる。
わからなくなると、すぐに若い世代へ仕事が流れてくるので、善し悪しか。そう、このように――
「峰岸先生。これなんだが」
「先生、データが」
「峰岸くん、ちょっと見てくれないか」
(俺の仕事が進まねぇ)
仕事をしている傍から、あれこれと聞かれ、作業を中断させられる。
ほかの先生方は自分がわからないと、すぐさま「峰岸先生なら知ってるかも」と言って、一真へ振ってくるのだ。
良いのか悪いのか。大抵の案件に対応できてしまうため、一真なら解決できるかも、という考えが職員のあいだで広まっていた。
(というか。俺が色々と、備えるようになってしまったんだよな)
自分の仕事をしながら、あの先生はここで躓くだろうなとか、ここがわかりにくいから、持ち込まれそうだなとか。
一真が先回りをして、前準備してしまうゆえに、なんでもこなせる人になっている。
周りが円滑に仕事をできるのは、非常に良いのだけれど、一真の手元が若干滞り気味だった。
だとしても期日を過ぎる真似をしないのが、また悪循環である。
「あー、飲みに行きてぇなぁ」
ノートパソコンに映し出される文字を見ていた、一真の口から無意識に独り言がこぼれた。
頻繁に酒を飲む習慣がなくとも、こうも忙しさが続くとストレス発散をしたくなる。
一人で出すものを出す気にもなれないため、希壱に好き勝手をさせるのではなかったと、一真はいまになって後悔した。
希壱は学習能力が高いから、的確に気持ち良くさせてくれる。しかしこれではまるでセフレだ。
一真は決して、彼とそういう関係を続けたいわけではない。
忙しさから無事、抜け出せたら、希壱に返事をしようと考えた。
ただ最近、気になることがある。
このところ頻繁に彼の友人、小淵彬人という男の名前が話題に挙がるのだ。
忙しい中でも、わりと顔を合わせているらしい。
とはいえ友人であれば、度々会っていてもなんら不思議ではない。一真も大学時代は、弥彦やあずみと日頃からよく顔を合わせた。
なのだが、最初はさして気にしていなかった一真も、頻度が多くなり気になり始めた。
友達でいようと言っておきながら、別に好きな相手ができたら、急にもったいなくなる男も存在する。
自分からもっと連絡をしたり、希壱と時間を作ったりしたほうがいいかもしれない――
「って言っても、俺はいま時期、本気で忙しいんだよな」
今期、クラスや部活を担当しているわけではないものの、その分だけあちこちのフォローに回る。
おかげでやることが多岐にわたって、頭の中も大忙しだ。
結局、本日も仕事が滞り、一真はちらほら職員室に残る教師陣と同じく、残業組になってしまった。
「峰岸、手伝おうか?」
一真が黙々と、任された仕事と自分の仕事を捌いていると、向かいの席から声をかけられた。
気づいて顔を上げたら心配そうな顔がある。相変わらずのお人好しに呆れて、一真は小さく息をつく。
「センセもさっき、仕事を片付け終えたばっかりだろ。早く帰れよ」
向かい側の机で先ほどまで仕事をしていたのは、西岡佐樹――彼は一真の高校時代、世話になった教師。
そして失恋相手だ。
西岡は帰り支度をしていたのだが、立ち上がった時に一真の手元が見えたのだろう。
数冊、積み上がったファイルは嫌でも目につく。
「でもすごい量じゃないか? お前、仕事できるからって、みんな押しつけすぎだ」
「別に今日中に全部終わらせないといけないってわけでもないし。今日はあいつ、休みだろう? 家で待ってるぞ」
「まあ、そうだけどさ」
一真が恋人の存在をちらつかせると、西岡は口ごもる。早く帰って会いたいと、思っていたはずだ。
四十路を過ぎたのに、昔と変わらない顔立ち。当時はそこまで童顔と思わなかったけれど、十年経っても変わらないのはすごい。
美形というわけでなく、よく見れば可愛い顔というわりと平凡な顔だ。
それでも人の良さがにじみ出ているので、西岡は一真と違い第一印象から非常にいい。
「峰岸は忙しくて最近、デートもできてないんじゃないか?」
「する相手もいねぇよ」
「そうなのか? ちょっと前までしょっちゅう早く帰ってたじゃないか」
(この人、あずみの結婚式にも来てたし、希壱とも面識あるから――名前、出すのはめんどくせぇな)
自分の行動を把握されていたのは意外だったが、そういえば普段から周りに気を回しているタイプだったと思い出す。
だとしてもデートではなく、希壱が家へ泊まりに来ていただけ、とも言いにくい。
なぜ一真の家に希壱が泊まるようになったか、まで説明しなくてはならない。しかも泊まっていくだけでは済まない仲だ。
「悪い。詮索するような言い方をして」
「詮索は困るが、変な誤解はすんなよ」
「まだ付き合う前ってことだよな?」
「…………」
純真な眼差しで言葉を返され、誤魔化そうにもそのとおりすぎて、一真は口を噤む。
もう西岡に対し、恋愛感情で好きという気持ちはない。ただなぜか、彼に嘘をつきたくないという感情だけが、いまだ残っていた。
昔のような執着心や、切ない感情は残っていないのに不思議なものだ。
恩師でもあるからだろうか。
「峰岸はずっとどこか頑なだったから、心配だったんだけど。いまは大丈夫そうだな」
「どうだろうな」
惚れた二人が収まるところに収まり、この先は踏み込まない、そう宣言したのは一真だった。
だと言うのに、後ろめたさを覚えているお人好しは、ことあるごとに一真の身辺を気にしている。
自分だけ幸せで申し訳ない。という罪悪感ではなく、裏表なく一真も幸せになってほしいと思っているようだ。
「一時期、消沈してたから気になったけど。最近はかなり、気持ちにゆとりができたように見えるぞ」
「ゆとり? ないって、時間足りねぇのに」
「そういうのとは違うんだけどな」
一真の答えは西岡の意図するところとは違ったのか、もどかしそうに眉を寄せる。
言いたいことはわかっている。
わかっていても、先月ならともかく、いまの一真は気がかりがある状況なので、ゆとりがあるとは嘘でも言えない。
「ほら、無駄話はいいから、帰れって」
「そんなに追い返さなくてもいいのに。峰岸も早めに帰れよ」
「はいはい」
話を切り上げて追い立てると、西岡は渋々職員室を出て行った。
(八時か、確かにいい時間だ)
腕時計の針は二十時半を過ぎている。あまり遅くなっても、今日はまだ水曜日。
週の半分だから、先は長い。場合によっては休日出勤だってありえる。
二十一時まで作業をしようと、手元のノートパソコンに向き直った一真だが、スーツのポケットでスマートフォンが震えた。
一度きりなので、着信ではないとわかっていたけれど、抜き出してみれば、希壱からだった。
近いうちにご飯を食べに行かないか、という文字でのお誘い。
(余裕、少しはできたんだろうか)
忙しさはまだ続くものの、一真もさすがに息抜きがしたい。
どこか近い休日で――と返事を送ったら、秒速と言えるくらいの速さで、来週の休みはどうかと返事が来る。
昼間だけでもいいと一言、添えてあったので、それならばと一真は了承した。
ついでに近況を訊いてみる。
――最近どうだ?
――仕事を覚えるの大変。頭がパンクしそうな勢い。今日はもう仕事、終わった?
――まだ残業中だ。
――最近、毎日残業だね。体を壊さないでね。ご飯は食べてる?
先日連絡を寄こした、母親と似たようなことを聞いてくるので、思わず一真は笑い声を漏らす。
心配そうな希壱の顔が、すぐさま頭に思い浮かんだ。
――そう言うなら飯を作りに来い。
――お誘いだってとるからね。
――どうとでも。
返信をして数秒待ったが、希壱からの返事が来ないので、一真はスマートフォンをポケットに戻した。
(またあいつかな)
顔を合わすだけでなく、よく電話もすると言っていた。
比重が向こうへ傾いているから、その分だけ一真に割く時間が減っているのだろう。
近頃、電話より文字ばかりだ。
「この程度で機嫌、損ねてんなよ、俺」
不服な感情が湧いてきて、自分に呆れ、一真は独りごちた。つい最近まで希壱の時間、なにもかもが自分に注がれていた。
そんな風に片隅でも、不満が心に浮かんでしまう自分に、一真は嫌気が差す。
(自分に腹が立つ。……今日はもう帰るか)
まだ仕事は山のようにあるけれど、悶々としたままでは効率が悪すぎる。
自身に言い訳をしながら、一真は帰り支度をした。
勤め先の学校から家までは、一度バスに乗り、電車に乗り換えるため、四十分かかるか、かからないかの距離。
バスのタイミングが合わないと遅くなる。気力があれば、徒歩二十分と少し歩くのだが、今日は気力がない。
夜になって本数が減ったので、バスの時間に合わせて校舎を出る。
なにげなくスマートフォンを取り出した一真だが、すぐさまポケットに押し戻した。
希壱へ送ったメッセージが既読になっておらず、そのままだった。
(明日もあるから、飲みに行くのはやめておいたほうがいいな。帰りにビールでも買って帰るか)
バス停に着くとタイミング良くバスもやって来た。夜間バスに変わった車内は、人も少ない。一真は悠々と後部席に腰を下ろした。
のんびりと進むバスの窓から、夜の明かりが灯る景色を眺め、エンジンの振動で眠気を誘われた一真はあくびを噛みしめる。
駅は終点なので居眠りをしても乗り過ごす心配はないものの、さして長い時間でもないのに、眠ると逆に疲れるだろう。
頭の中で、明日の予定を整理して気を紛らわしていた一真だったけれど、ふと視線が一点で止まった。バスの前方に駅が見えてきた大通り。
駅とは逆方向――繁華街――へ向かい歩く人の姿。
高身長でどこにいても目立つ男と見知らぬ、こちらもそこそこ背の高い男。
親しそうに笑いながら歩いている二人を見て、一真の胸がちくんと痛んだ。
無意識に掴んだスーツの胸元からは、やけに早い鼓動を感じた。
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