入院開始、数日は絶食だったが、不思議と食べなければ食べないでいいか、と思ってしまった一真は仕事中毒だと言われた。
普段からそういった生活をしているだろうと、医師に指摘され、言葉に詰まったのは言うまでもない。
そういう人間は、食事よりも余暇に身を持て余すはずだと言われ、家族に本を大量に持ってきてもらった。
「お兄ちゃん、これもう読んだの?」
「読んだ。その左の山は読んだから持って帰っていいぞ」
見舞いに来ていた妹の真帆が、一真の言葉に呆れた顔をする。兄妹だけあって、もれなく顔立ちの整った真帆は、ふて腐れても愛らしい顔をしている。
しかし二つ歳下の彼女はこれでも新妻だ。
長年付き合った彼氏と去年籍を入れた。結婚式は近いうちに、というのがいまどきの若者夫婦な気がした。
「か弱い妹に、こんなに持って帰れとか、愛のない兄だわ」
「どうせ一階でそれ送るんだろ?」
「気遣いがないって言ってるの! もう」
ぷりぷりと怒りながら、真帆は本を段ボールに詰めていく。一階の売店で、小型の台車を借りてきているのは知っている。
父親の蔵書なので、実家へ全部送るのだ。
入院してから母親や姉の真未、妹の真帆がこうして代わる代わる見舞いに来てくれる。
ただこの先ずっと一緒にいたい恋人ができたら、絶対にパートナーシップ制度を利用して、と口を酸っぱくして言われた。
そんなに俺の世話をするのが面倒か、と一真は複雑な気分になったものの、言いたいことはわかる。
(通常、結婚してないと手続きとか面会とか、色々と不便があるからな)
真帆が片付けしているのを横目に見ながら、一真は小さく息をつく。
希壱についてはお試し期間を設けたので、家族へまだなにも伝えていない。しかし毎日のように顔を見せるため、薄々気づいているだろう。だからこそ釘を刺されたのだ。
ようやっと重い腰を上げたのだから、見つけた相手を死んでも放すな、くらいはきっと思われている。
(……手放す予定はねぇけど)
お試し期間を設けたが、一真の気持ちはもう固まっている。
おそらく希壱もそうだろうけれど、やはり友人の弟、兄の友人という部分を一旦、リセットしてからのほうがいいと思えた。
年上への憧れや、歳の離れた弟への愛情は時折、恋愛の邪魔になる。
これから恋人になる――いいのか、この相手で――という意識をお互いに持つのがなにより大切だ。
たまに恋愛の熱に煽られてくっついたはいいが、一気に勢いが消沈して、早々に破局なんて話も聞く。できたら一真は希壱とそうなりたくない。
「お兄ちゃんも、そろそろまともな恋愛して幸せになってね」
ふいにぽつんと、独り言みたいな音量で呟かれた真帆の言葉に、一真はわずかばかり片眉を上げて抗議する。
「まともなって、失礼だな」
「だってそうじゃない。高校時代は一生報われない片想いしてさ。卒業したと思ったらあっちへふらふら、こっちへふらふら。誰かと本気で付き合おうとしなかったし」
(高校は一年だけ、そういや一緒だったな)
最後の年は二人を同時に好きになって、とりあえず割って入って満足していた。
学年が違っても、そんな兄を見かけていたのだろう。そもそも彼氏が一真と同級生だった。
「三島さんの弟くんとは思わなかったけど」
「まだ付き合ってねぇよ」
「まだでしょぉ? お試し期間中なんだってね。お兄ちゃんにしては冷静だね」
「冷静じゃねぇから入院してんだろ」
「あ、そっか」
どうやら歳が近いので、希壱と真帆、いつの間にか二人は仲良くなっていたようだ。しかし結婚している妹にヤキモチを妬くほど、残念な兄ではない。
鼻歌を歌っている彼女の横顔に、肩をすくめるだけに留めた。
「もうすぐでお兄ちゃん、誕生日だね」
「……そうだったか」
「やだ、自分の誕生日も忘れたの?」
「そんなに気にするもんか?」
大げさに驚く真帆に眉をひそめながら、一真はサイドボードのカレンダーへ、ちらりと視線を向けた。
退院予定日の二週間後くらいだ。
(希壱の誕生日っていつだった? 夏だったような気はしたけど。去年はまだ再会したばっかりで気に留めてなかったな)
早いものであと二ヶ月もすれば、三年ぶりに再会をした季節が再び巡ってくる。
夏休みに入ってすぐくらいだったと、一真は再会した日を思い返す。まさかあの場所で再会をするとは、思いも寄らなかった。
(今年は色々イベントごと、してやりてぇなぁ。去年は誕生日もクリスマスも、なにもしてやれなかったし)
希壱はおそらくそういった、イベントが好きなはずだ。
恋人に祝われた経験がないだろうし、余計に気を使ってやりたい。
「お兄ちゃん、可愛い」
想像して、無意識に笑みを浮かべていたのだろうか。小さな呟きとともに、真帆の視線を感じた。
恥ずかしくはないが、なんとなく浮かれた自分を見られるのが癪で、一真は目をつぶって寝たふりをする。
さらに小さく笑われたけれど、無視をして目をつぶったままにした。
そうしたらうっかりと、目を閉じているあいだに眠ってしまったらしく、目が覚めたら室内は暗かった。
(さすがに真帆は帰ったか。いま何時だ?)
身じろぎをして一真が時計を見ようと、ベッドサイドのライトをつけたら、室内に人がいた。
一瞬驚いて体が反射的にビクッとしたけれど、よくよく見れば椅子に腰掛けた希壱だった。
一真が起きるのを待っていて、眠ってしまったようだ。
時計を見たら二十時を過ぎている。一真はベッドを降りて、希壱の傍まで歩いていく。
もうしばらくしたら面会時間も終わりなので、話せず今日が終わるのは嫌だった。
だがさすがにすぐ起こすのは気が引けて、眠っている彼の前でしゃがみ込み、じっと寝顔を見つめる。
(今日は何曜日だったか。連休明けだから忙しかっただろうな)
仕事終わりの、最近すっかり見慣れたスーツ姿。居眠りしてしまうくらい疲れているのに、たとえ数分でも、毎日欠かさず顔を見せてくれる。
「寂しがり屋は俺のほうだったな」
こうして顔を見るだけでほっとできる。
常に人の気配を傍に感じていたい。
愛する人が欲しい。
自分が人のぬくもりと愛に飢えていたなんて、希壱と再会するまで、一真は気づきもしなかった。
独りでも生きていける、そう錯覚していたのは、一真自身がそうでありたいと思っていたからなのか。
「……一真、さん?」
「起こす前に起きたな」
「いつからここにいたの? もっと早く起こしてくれて良かったのに」
「ほんの少し前だ」
重たそうなまぶたを擦りながら、希壱は背もたれに預けていた体を起こす。そして立ち上がった一真を、おもむろに引き寄せて膝に乗せた。
「入院して一週間ちょっとだけど。痩せたんじゃない?」
「三キロくらい?」
「いまはずっと寝てるから筋肉が衰えちゃうのは、仕方ないか。ご飯もまだあまり食べられないしね」
心配そうな眼差しで見上げてくる希壱は、腕を回した一真の体をぎゅっと抱きしめた。
「このくらいはすぐに戻る」
「うん。でもあんまり痩せると、俺が心配になるから。タンパク質がしっかり取れる、おいしいレシピを覚えておくね」
胃の修復にも、タンパク質は大事なのだとか。一真の退院に備えて、忙しい最中で希壱は色々なレシピを調べていると言っていた。
「希壱もしっかり食べてしっかり寝て、体を壊すなよ」
「気をつける。……ねぇ、一真さん」
「ん? おねだりか? いいぞ」
いつものおねだり声に、希壱が望んでいるものに気づく。すぐに一真が了承すると、嬉しそうに希壱の表情がほころんだ。
抱きしめていた一真の頬を撫で、彼はそっと唇を重ねてくる。
優しく、まるで壊れ物を扱うみたいなキスで、一真はくすぐったい気持ちになった。それと同時に、まだ気にしているのだろうかとも思う。
一真が胃を壊して倒れたのは、自分にも原因があると、口に出さないまでも、しばらく希壱はひどく気に病んでいた。
確かに間違いではないけれど、すべてではないので責任を感じるなと、何度も言ったのだが。
まっすぐな性格の希壱が、気にしないわけがない。乱暴にしたらガラスのように壊れるのでは、と感じていそうだった。
「遠慮がちだな」
「あんまりすると、ほら、さ。我慢とかも」
「なるほど。溜まってるんだ?」
「そこそこ」
「忙しいしな。退院したらいっぱい抜いてやるからな」
「一真さんが手に入るのは、あとどのくらいなのかな?」
照れくさそうにする希壱へキスを返したら、ちらっと窺うような眼差しを向けてくる。
彼の言う〝手に入る〟は、付き合えるようになるのほかに、一真自身も含まれているのだろう。
「希壱は俺が抱きたいのか?」
「う、うん。駄目?」
「……ああ、だからあの時、喜んでたのか」
ネコをしたことはないが、相手によると一真が言ったら、希壱の目が輝いたのを思い出す。当時から希壱が自分を欲していたと気づき、少しだけ一真は驚いた。
「元々はこだわりがなかったんだけど。一真さんが相手だったら、俺、そっちがいい」
「仕方ねぇな。可愛い希壱に俺の初めてをくれてやるか」
「ほんと! やった、嬉しい」
その日を楽しみにしていると、熱のこもった目で見られて、一真は胸がドキリとした。
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