二人のクリスマス

 口づけを交わしたあの日を境に、雄史の毎日はさらに変化をしていった。

 一日、また一日と、時間を重ねるたびに――愛おしさが日ごと膨れ上がっていくような気分だ――そんな一文や台詞は、小説や漫画、はたまたドラマや映画で見聞きしたことがある気がする。

 だがいまの雄史にはその言葉こそまさにで、時間が過ぎるほどに、志織への気持ちが募っていく一方だった。
 朝昼晩と鬱陶しいくらいにメッセージを送って、いらない日常報告をして、時間が空けばすぐに彼の元へと向かった。そんな雄史に彼は、驚いたり呆れたりもしていたが、なんだかんだと笑って受け入れてくれる。

 これまではカフェが、一番落ち着ける場所だと思っていた。けれどいまは志織の傍が、なによりも心安らげる場所だと気づいた。

「あっ! 志織さん! 駄目ですよ、そんなに重たいもの持っちゃ」

「え? これはそれほど重いものじゃない。と言うか、なんだか俺は妊婦かなにかみたいな扱いだな」

「だって、足。かなり重症だったじゃないですか」

「いまはあんまり痛みはないぞ。それにもう一ヶ月くらいは経つし」

「捻挫を甘く見過ぎです。普通は完治するのに、一ヶ月半くらいはかかるんですよ。足を庇う癖がついちゃうので、痛みが完全になくなるまでは無理しちゃ駄目です」

「ほんと心配性だな」

 ぱっと、両手に抱えられていた段ボールを取り上げると、彼はため息をついて肩をすくめる。それでも文句を言うつもりはないのか、黙ってほかの小さな段ボールを抱え上げた。

「オーナメント、これで全部だと思う」

「あ、はい。じゃあ、全部飾っちゃいますね」

 明るい照明が灯っている店内――二人がいそいそと準備しているのは、カフェに飾るクリスマスツリーだ。明日の二十四日を前に飾り付けをしている。

 例年通りだと、十二月に入った時点で飾り付けているらしいのだが、医者から長い立ち仕事を控えるように言われて、一ヶ月ほど店を閉めていた。
 本当であれば、年明けくらいまでゆっくりしていなさい、とも言われている。しかしクリスマスケーキの予約を受けていたので、昨日から志織は店のキッチンに立っていた。

「志織さんはケーキの準備で忙しかったんだから、座っててもいいですよ」

「雄史こそ、仕事終わりで疲れてるだろ?」

「大丈夫です! 明日と明後日は有休を取ったんで、問題なしです!」

「年末の忙しい時期に、よく連休なんて取れたな」

「それはもちろん、日々の行いです」

「うん、まあ、毎日頑張ってたもんな。偉い偉い」

 得意気に胸を反らして見せると、それに目を細めた志織が頭を優しく撫でてくれる。その手のぬくもりに頬を緩めたら、彼もつられるようにやんわりと微笑んだ。

 明日と明後日はイブにクリスマス――朝から上機嫌だった雄史に、職場の反応はさもありなんといった感じで、ひどく生温かかった。

 けれど仕事を終わらせた頃には、スキップでも踏みそうなほど、機嫌は最高潮になっていた。いまもツリーに飾りを付けながら、雄史は鼻先でジングルベルを歌っている。

「でもせっかく休みを取ってくれたのに、悪いな。なにもしてやれなさそうだけど」

「いいんです。接客業がクリスマスに忙しいなんて、わかってます。ただ俺が傍にいたいだけなんで」

 クリスマスに仕事を休みにしたからと言って、志織とデートができるわけではない。だとしても特別なイベントの日に、一緒にいられるだけで嬉しいと思える。
 これまでの雄史はクリスマスだから休みを取る、なんてことは一度もなかった。

 こんな風に心が弾むのは初めてのことで、それがますます気分を上昇させる。瞳を輝かせて後ろを振り向けば、カウンターの椅子に腰かけた志織が笑みを返してくれた。

 さらにじっと見つめると、小さく首を傾げてくる。その仕草に顔がニヤニヤとしてしまい、ひどく自分の顔が情けないものになっていくのがわかった。
 少しくらい触れてもいいだろうか――そう思って腰を上げると、雄史の背中に突然小さな重みがかかった。

「ニャーッ!」

「いっ、痛い痛い! にゃむ、いつの間に下りてきたの? 痛い! 爪、爪が刺さってる!」

 ふいの衝撃に肩が跳ね上がるほど驚いたが、背中で文句を言っている志織の愛猫は、爪を突き立てて背中をよじ登ってくる。
 ワイシャツにインナー程度ではその爪は防ぎようがなく、バリバリとされてさらに雄史は悲鳴を上げた。

「こら、にゃむ。お前は、まったく」

「わわっ」

 呆れた声で近づいてきた志織が、にゃむを背中から引き剥がそうとするけれど、引っかけられた爪が離れていかない。
 ぴんとワイシャツを引っ張られて、しゃがんでいる雄史の身体がひっくり返りそうになる。

 そのあいだずっと、にゃむはみゃーみゃー、びゃーびゃーとひっきりなしに鳴いていた。最終的に爪を一つずつ外してもらい、彼女は志織の腕の中に収まる。
 上から見下ろしてくる顔が、得意気に見えるのはなぜだろうか。

 すりすりと身体を寄せてご主人様に甘えるにゃむは、一変してゴロゴロと喉を鳴らしている。そんな様子に雄史は、猫、相手は猫、たかが猫、されど猫、などとくだらないことを考えていた。

「背中、大丈夫か?」

「大丈夫です。たぶんそれほど傷にはなってないと思います。にゃむに思いきり引っかかれたの、志織さんが帰ってこなかったあの日だけです。こうして見るからに機嫌悪いけど、いままで本気で噛みつかれたこともないし」

「そうか、それならいいけど」

「はい、平気です! だけど、……なんで俺こんなに嫌われてるんですかね? わりと動物には好かれるほうだったんですけど」

 そもそもファーストインプレッションは、決して悪いものではなかったはずだ。興味深そうに近づいてきて、人なつこそうに見えた。そんな彼女の機嫌をひどく損なったのは――匂い、だろうか。

「あの、俺って、変な匂いしますか?」

「いや、特別な匂いはしないけど? あえて言うならコロンのいい匂いがする」

「ですよね。匂いとかそういうのは、いつも気を使ってるんです、けど。最初に会った時に匂いを嗅がれて、すんごい機嫌悪くなったんですよ」

「……ああ、それはあれだろう」

 雄史が入念に袖口の匂いを嗅いでいると、志織はなにか合点がいったようだった。
 相変わらずゴロゴロとすり寄っている、にゃむの鼻先を撫でて、それをツンツンと指先で突く。ふみゃっと変な声を上げたけれど、彼女は至極幸せそうだ。

「雄史から俺の匂いがしたから、機嫌が悪くなったんじゃないか? 二階のスーツの周りでもしばらくウロウロしてたし」

「えっ? それって、もしかしなくても……嫉妬ですか?」

「うん、たぶんそうだ」

「にゃむにライバル認定を受けてたってこと?」

「そういうことだな」

 ちらりと視線を向けたら、彼女はやけにツンとした顔をしている。さらにはふいっとそっぽを向く。その反応に雄史はがっくりと肩を落とした。しかしうな垂れて床に手をつけば、なだめるように頭を撫でられた。

「動物って勘がいいよな」

「いままでの彼女さんにも、こんな感じですか?」

「いや、にゃむを拾ってから付き合った人はいないし、彼女はいたことないからな」

「ん? 彼女はいらないとか、前にもそんなこと言ってましたけど、……あれ? 志織さん、もしかして恋愛対象って男の人?」

「いまごろ気づくとか、ちょっと遅くないか?」

「そ、そうなのっ?」

 困ったように笑ったその顔に雄史は慌てて立ち上がり、すぐ傍にある顔をじっと見つめた。そのまましばらく見つめ合っていると、ふっと気配が揺れて、目の前の瞳が近づいてくる。
 それに応えるように、ほんの少し背伸びをすれば、口先にぬくもりが触れた。柔らかな感触に雄史の口元が緩んだ。

「志織さん」

「ん?」

「好きです」

「唐突だな」

 小さな告白に目の前の瞳が柔らかく微笑む。その笑みを見るだけで、心が満たされるような気持ちになる。それを噛みしめて、小さく笑った雄史は彼の唇にそっと、自分の唇を寄せた。