おいしくいただきます
オーナメントが入っていた、段ボールを片付けて二階へ上がると、志織の部屋に通された。
二階の自宅はゆとりのある1Kで、八畳ほどの部屋と広めのキッチン、バスとトイレは別になっている。カフェの改装と一緒に新しくしたと聞いた。
そして彼の自室はベッドに机にテーブル、にゃむのキャットタワーとごくシンプルだ。テレビはほとんど見ないらしく置いていない。おかげで店と同じように静けさが心地いい。
そこでぼんやりと過ごしているだけでも、気分が落ち着いていく。もしかしたら初めて出会った日に嗅いだ、あの柔らかな匂いが染みついているからかもしれない。
「今日のご飯はなにかな?」
志織とにゃむがキッチンへ行ってしまい、雄史は部屋に一人取り残されていた。
ここは愛猫と一緒に、追いかけたいところなのだが、いくら広いとは言え、身体の大きな男が二人もキッチンにいるのは窮屈だ。
この場はにゃむに譲り、大人しく待つしかないだろう。そう思いながら雄史はスマートフォンの着信を確認して、急ぎの連絡にだけ目を通した。
しかし最初は仕事のことを考えていたのに、ニヤニヤとそこに収められている写真を眺め始める。
付き合い始めて一ヶ月ほど。そのあいだにフォルダには、彼の写真が数え切れないほどに増えた。捻挫をした足では不自由だろうという名目で、ほぼ毎日のようにこの場所に通っているので、それは必然だ。
だが蓋を開けてみれば、毎日ご飯を作ってもらったり、弁当を作ってもらったりで、世話になっていたのは雄史のほうだった。
しかしなにかに向かう横顔も、凜々しくて格好がいい。時折見せる笑顔にも胸がときめいた。
少しでも傍にいたい、という気持ちは正直であるべきだ。そんなことを思って、雄史は一人含み笑いをした。
「雄史!」
「はーい!」
お気に入りフォルダを作っていると、キッチンから呼ばれて慌てて立ち上がる。廊下に飛び出して、そっとその中を窺えば、振り返った彼に皿を差し出された。ふんわり香ってくる甘酸っぱいような懐かしい香り。
それに気づくと口の中に唾液が溜まる。
「わぁ! やったぁ、ナポリタン!」
それを目にした途端、雄史の声が大きくなる。ベーコンにウィンナー、タマネギにピーマン――シンプルだけれど味わい深くて、志織の作る料理の中で一番のお気に入りだ。
いままであえてそれを口に出した覚えはないが、こうしてイブという日に出てくると言うことは、しっかりとそれを把握されていたのだろう。
ケーキの好みといい、自分をよく見ていてくれるのを感じる。
瞳を輝かせて顔を持ち上げれば、さらに白い化粧箱も掲げて見せてくれた。蓋が持ち上がると、苺とマンゴーとブドウが盛りだくさんのミニホールケーキが姿を現す。
「雄史の好きなフルーツを集めたぞ」
「すごい! 至れり尽くせりだ」
「なにせ半年前から予約されてたからな」
「えへへ、もうあれから半年も経ったんですね。早いなぁ」
初めて出会った時は、こんな風に傍で笑い合う日が来るなんて、雄史はまったく想像もしていなかった。
あの日、雨降りでなかったら、あの場所で立ち止まらなかったら、いまはなかったのだ。
偶然の出逢いだったけれど、それも振り返れば運命のようにも思える。おいしいコーヒーと、おいしいケーキにほだされたのだとしても、心のベクトルが彼へと向いたのは気の迷いではない。
初めから惹かれている部分は大いにあった。自分とは違う眩しい人――傍にいるだけで、どんなことも拭い去ってくれる温かい人。惹かれずにはいられない。
「いっただきまーす!」
部屋に戻っていそいそとテーブルに向かうと、雄史はナポリタンを拝む勢いで両手を合わせる。その様子に志織は楽しげに目を細め、ベッドに腰かけたままフォークを持ち上げた。
「んっ、やっぱりこれおいしいっ」
熱々のナポリタンはひどく優しい味がする。母親が作るものとも、お店で出てくるものとも少し違う。甘み、スパイス、まろやかさ、どれにおいてもほかと格段に違った。
「俺、このナポリタンなら毎日食べてもいい。なにが違うんだろう?」
「うーん、そこまで特別ではないんだけどな。ケチャップの配合とウスターソースとバターの配分?」
「志織さんにしかわからない、微妙なさじ加減ですね、きっと」
パスタのもっちりさも、ベーコンやウィンナーのカリッと具合も、野菜の炒め具合も独特のように思えた。志織を横目に見ながら、黙々と頬ばってしまうくらいにはおいしい。
しばらくするとすっかりナポリタンに夢中で、小さな笑い声に雄史は我に返った。声の先に視線を向けると、ティッシュの箱を引き寄せた志織が笑いながら近づいてくる。
「雄史、小さい子供みたいだな。口の周りケチャップがすごい。そんなに腹減ってた?」
ちゅるりと最後の一本を吸い上げたら、引き抜かれたティッシュで口元を拭われた。そして丁寧に拭き取られたあと、思いがけず唇が近づく。
小さなリップ音を立てて触れたそれに、じわりと頬が熱くなっていくのがわかった。
すぐに離れていくと思っていたのに、一度離れた唇はまた優しく触れてくる。そうするとうずうずとした気持ちが込み上がってきた。
「志織さん、俺って色んな意味で食欲旺盛だって知ってます?」
「うん」
「あんまりお腹は減ってないんですか? まだ半分しか食べてないけど」
「いまはそれほど。雄史、食べる?」
「んー、志織さんとナポリタンを比べたら、いや、比べようがないですよね。じゃあ、一緒にお風呂に入ります? 足、痛くないですか?」
「うん」
言葉のやり取りをするたびに、近づいてくる彼がたまらなく可愛い。さらにどんどんと近づいて来て、のし掛かるように雄史の身体を押し倒してくる。
うずうずとした気持ちになっているのは、どうやら雄史だけではなかったようで、手を伸ばせばそこへ頬をすり寄せてきた。
「志織さん、可愛いね」
「……っ、……くな、い」
「ん? なに?」
「可愛く、ない」
「駄目ですって、そういうのがますます、可愛い」
ピアスを指先で弄び、耳元へ唇を寄せると、息を吹き込むように囁いた。何度繰り返しても、慣れない彼はそれだけで頬を染める。口先で食んでちろりと耳たぶを舐めれば、顔をさらに赤らめて首をすくめた。
けれど恥ずかしさだけではないのは、瞳を見るとわかる。熱を帯びたブルーグレーは、いつもよりも青みが濃いように見えた。
「ほんと、綺麗な色。外国の血が混じってたりとかします?」
「全然、純国産だ」
「ふぅん、……あ、ちょっと、そらさないでくださいよ!」
瞳をのぞき込んだら、さらに照れくささが湧いてきたのだろう、目を伏せられる。それがひどくいじらしく見えて、引き寄せた唇を塞いだ。
「んんっ、……んっ、……っ」
可愛さのあまり息を継ぐ間もないほど口づけたら、ぎゅっと強くシャツを握られる。指先が震えて、どんどんと彼の余裕がなくなってくるのが感じられた。
それとともに身震いしてしまいそうな、ゾクゾクとした感覚が広がる。
力の抜けてきた志織の肩に手をかけると、雄史は一気に体勢を入れ替えた。