幸せの本当の意味
やはり寝顔を何時間も見つめる男なんて、気持ち悪いという言葉しか見当たらない。志織に見つめられるのは本望だけれど、ほかの誰かだったら、少しばかり引くだろと思えた。
いくら懐が深いとは言え、生理的に受け付けないことだってあるはずだ。しかし顔を青くしている雄史に、彼はふっと笑みをこぼしてシーツを叩く
「ほら、入れ。風邪を引くぞ」
「え、気持ち悪くないです?」
「なんの話をしてるんだ?」
「あ、いや、その」
「暖房が入ってても、いまの時期は寒いだろう。……まったく。ほら」
予想とは違う反応が返ってきて、しどろもどろになっている雄史の頬を、彼は労るように撫でる。
触れられた手はひどく温かく、思いのほか自分が冷たかったことに気づいた。
絶対に怒られる、と思っていたが、そんな優しい理由で咎められるとは思っていなかった。
小さなことだけれど、やはり彼の優しさは人を包み込む。そう思って雄史が締まりなく笑うと、志織は不思議そうに目を瞬かせた。
「どうした?」
「あ、いや、えっと、にゃむが、すごい文句を言ってるけど」
「それはいいから、早く入れ」
「はい」
催促するみたいに、またシーツを叩く彼に頷き返せば、掛け布団を持ち上げてさらにこちらへ来いと促された。
すると腹の辺りで丸まっていたにゃむは、嫌そうにニャーと鳴いた。そしてもそもそと志織の身体を横断して、背中のほうへ移動していく。
「ん? 鈴?」
「ああ、にゃむにクリスマスプレゼントをあげました。いつも背後から忍び寄られるので、わかりやすいように鈴の付いたアクセサリー。あっ、でも嫌がったら外してくださいね」
「プレゼント、か。そういや、あんたに用意してなかったな」
「大丈夫です。ケーキも用意してくれたし、これをつけていてくれたら十分です」
「これ?」
少しばかり難しい顔をした恋人に小さく笑って、雄史は先ほどつけたピアスを指先で突く。
そんな仕草に不思議そうに首を傾げてから、志織は耳元に手をやった。そこで覚えのないものがあることに気づいたようだった。
「はい、鏡」
なにかを探すように志織が視線を動かしたのを見て、雄史は宮棚にあるスタンドライトを付けてから、コンパクトミラーを差し出す。
鏡を手に取ってじっとその中をのぞき込んだ表情は、どこか幼い印象を受けた。
わくわくとしたような、期待を含んだ顔。
そんな表情はすぐに柔らかな笑顔に変わった。
「綺麗でしょう?」
「うん、いいな」
「志織さんに絶対似合うと思ってました。俺、さすがです」
「自分で言うか」
「んふふ、自信ありましたからね」
鏡を覗いている横顔にそっとキスをして、彼の隣に身体を滑り込ませる。肩が触れるほど寄り添えば、お返しとばかりに志織は頬にキスをしてくれた。
その感触に雄史は顔が緩んで仕方がなかった。それとともに、幸せ――そんな想いが胸に広がって、ドキドキと鼓動が高鳴っていく。
「幸と不幸は、人生において半々だ、って言う人がいますよね」
「ん?」
「俺、ずっとそれは嘘だって思っていたんですけど。やっぱり嘘ですね。だって俺いま、幸せしかないし、きっとこれからも幸せしかないと思うから。半々って言うのは嘘です」
「……うん、幸せは幸せだって思ったら幸せだし、不幸だって思ったら不幸になる。幸運を掴まえられるかはどうかは、自分の心持ち、行い次第だ。そういや最近、ため息の数が減ったな」
「え? そうですか?」
「うん」
「そっか。……それは全部、志織さんのおかげです」
あの日、志織に会うまでは、すべてが嫌で嫌で仕方がなかった。
いきなり仕事が変わって、慣れないところに放り出されて、どうして自分ばかり、と思ってきた。けれど彼の傍にいて、優しさに触れているうちに気づいた。
ずっと代わり映えのない毎日を送ってきた自分は、いつの間にか新しいチャンスを与えてもらっていたのだと。
可能性を摘むのも、咲かせるのも自分の手だ。常に前へと進み、チャレンジをしている背中――それを見ていると、自分も前に進まなくてはと思わされた。
立ち止まっていてはなにも始まらない、それに気づいた。
ちゃんと周りを見渡せば、どんな時でもフォローしてくれる、心強い仲間に恵まれている。そう思えばすべてがプラスで、悪いことなど一つもない。
できないことを言い訳に、自分の可能性から目を背けてきたけれど、志織の言うようにすべては心持ち次第だ。
「志織さんがいつもおいしいものを食べさせてくれて、優しく励ましてくれて、いっぱい褒めてくれて、目いっぱい愛してくれたから。俺、頑張れました」
「雄史?」
「いままで全然、思いつかなかったんですけど。俺に誇れるもの、一つだけありました。一途でよそ見する心配がないってところです。これからは俺もいっぱい、志織さんを愛していきますね」
驚きを含んだ瞳がまっすぐに雄史を見つめる。その視線に笑みを返して、伸ばした両腕で雄史は傍にある身体を包み込んだ。
腕の中で小さく震えた彼は、しがみつくように背中に手を回してくる。
「志織さん、大好きです」
不器用な自分は、この腕ですべては抱きしめきれないかもしれない。それでも決して離さないでいることだけはできる。
自分の胸元に顔を埋める志織に頬を寄せて、雄史は抱きしめる腕に力を込めた。
「俺はにゃむのしっぽに、運良く引っかかったのかもですね」
「うん、おかげで俺はあんたに会えた。いいことがあった」
「志織さんが言ってたいいことって、俺ですか? なんだか運命ですね。ああ、クリスマスに志織さんと過ごせるなんて幸せだな」
「……雄史は、なんでそんなにクリスマスにこだわるんだ?」
「ああ、それは……俺の誕生日だからです」
「えっ? 二十四? 二十五?」
「二十五日です」
「明日かよ! 言ってくれればケーキは明日にしたのに!」
あっけらかんと答えた雄史の言葉に、叫び声に似た大きな声が返ってくる。顔を上げた恋人のあ然とした表情に、ぷっと雄史が吹き出すようにして笑ったら、不機嫌そうに顔をしかめられた。
さらには近づいてきた指先に、ぎゅっと頬をつねられる。
「そういうのは前もって言っておけ」
「すみません、でもいいんです。志織さんが傍にいてくれるだけで、俺は幸せです」
「明日は、チョコケーキだな。フルーツこれでもかってくらいあいだに挟んで、二段のでかいやつ作ってやる」
「え?」
ふっと眉間のしわがほぐれて、満面の笑みが雄史に向けられた。その瞬間、愛おしさが膨れ上がる。
何度もキスをして好きの言葉を囁けば、ぬくもりはまた胸にすり寄ってきた。
温かくて優しい――この腕に掴まえた大切な想いを、雄史はぎゅっと腕の中に閉じ込める。
なにげないささやかな『幸せ』
それはどんなものよりも輝いて見えた。
おいしい恋が舞い降りる/end