忘れていた記憶

 なかなか戻ってこないロヴェを待ちながら読書をしていたリトの元へ、来客の知らせがあったのは日が暮れた頃だ。
 ここにリトがいると知っているのは、宿屋のハンナとシグル、タットだけだった。

 宿屋に勤める者はあの日、ダイトが迎えに来たので薄々気づいているかもしれないが、ハンナが口を噤んでいる事情に首を突っ込まないだろう。

「――日に焼けた肌に赤茶色の髪、瞳は茶色。おそらく名乗ったとおりタットみたいですね。どうしたんだろう? 彼はいまどこに?」

 ダイトから告げられた特徴は確かにタットのようだった。とはいえ彼が訪ねてくる理由がさっぱりわからない。

「正門の受付室で待たせているようです」

「僕がそこへ向かっても大丈夫ですか?」

「特に危険な様子は見受けられなかったと報告はありました。ですが外部からの訪問ですので、私以外の護衛も付けてもよろしいですか?」

「もちろんです。正門へはこれから僕が向かう旨を言付けてください。ミリィ、着替えをお願いします」

 いまの状況での訪問は些か訝しく感じるものの、おそらく自分が動かなければ答えがわからない確信があった。
 王宮内でも接触する相手を厳選するほどなので、外部から来たタットへは皆、警戒を怠っていないだろう。

 身内と言える存在を疑うのは心苦しいけれど、これからの立場を考えると常に疑問を持つ必要がある。
 ミリィにしっかりと着付けをしてもらい、リトはタットの待つ正門へ向かうことにした。

 獅子宮殿から秘密の通路を使って王宮まで行き、そこから正門までは馬車という道のりは、わかっていても果てしなく感じる。
 室内で勉強している時間も長いが、平民として過ごしていたときと、変わらず動いているような気もした。

 ミリィは部屋で待機し、ダイトと白の騎士団から数名、リトの護衛を買って出てくれた。受付の担当兵に改めて人物の確認を取ってから面会を行う。
 確認用の小窓から見た横顔は、間違いなくタットだった。

 少し俯きがちではあったものの、仕事の際にできたという手や頬の小さな傷、常に身につけている一点物の耳飾りも間違いないだろう。
 ダイトを帯同して部屋に入ると、リトに気づいたタットはゆっくりと立ち上がり、顔を上げて笑みを浮かべた。

 いつもと変わらない笑み――に見えたのは一瞬で、光のない瞳に気づいてリトは一歩、後ろへ下がる。

「ダイト! 彼は違う! ……っ、ダイト?」

 とっさに視線を背後へ向けたが、先ほどまでそこに立っていたダイトの姿がなかった。
 徐々に空間が溶け落ちて、周りの景色が変わっていく。リトは室内になにかが仕掛けられていたのかもしれない、と気づいた。

(もしかして特殊なスキル持ち?)

 立ち尽くしてしまったリトの目の前へ、タットだった男がいつの間にか移動していた。改めてみると、似ても似つかぬ二十代半ばくらいのひょろりと縦に伸びた、痩せぎすの男だ。
 ひどく痩せているせいで、水色の瞳がやけにぎょろりとして見える。

「あんたはいいなぁ、ちょっと特別ってだけでまともに暮らせて」

「え?」

 自分を見下ろす〝自分によく似た瞳〟には、妬みや憎しみ、怒りが混じっていた。
 だがその意味を知る前に、突然リトの意識が遠のき始める。踏ん張ろうと気を保っても、地の底へと引きずり込もうとする無数の手に引っ張られる感覚がした。

 どんどんと黒い沼のような影に飲み込まれていくのに、まったく抗えずに最後はトプンと水へ沈むみたいに暗闇に落とされる。

 

 影の沼に飲み込まれたリトは、しばらくして懐かしい場所に立つ自身に気づく。
 爽やかな青空の下、光を反射して煌めく美しい水面は、育った村の近くに流れていた川だ。

 季節は夏の頃に思えるが、夢なのか陽射しの熱さは感じない。それでも夢とは思えないほど現実的で、いまにも子供の笑い声が響いてきそうに思える。

(子供? あの村に僕以外の子供なんて、いたっけ?)

 非現実な世界にいると思い出したくないと閉じた蓋が、不安定に揺らぐ感じがする。
 ずきんと痛んだ頭をリトが抑えると、騒がしい笑い声が本当に聞こえてきた。

 水面をバシャバシャと揺らし、浅瀬を駆け回る子供の姿。
 そこには七、八歳程度だろう頃のリトの姿もある。相変わらず細くて小さくて、周りの子たちはいつもリトをお姫さまのように扱っていた。

『リトは大きくなったら俺と結婚するんだぞ』

『ずるい僕だよ』

 キャッキャと騒ぐ、子供たちの平和な笑い声は胸が穏やかになるのと同時に、リトの心を切なくさせた。

『リト、ここどうしたんだ? 怪我をしたのか?』

『あっ、違うよ。きっとこれは――』

 ふっと子供たちの声が遠ざかった途端、視点が変わってリトは自分が水の中にいると気づく。同時に折れそうなほど細い首に、しわだらけの手が絡み、水底へ沈めようとしているのにも気づいた。

 ジタバタと暴れる抵抗を物ともせず、なにかに取り憑かれた表情でリトを水に押しつけるのは――養祖母のパルラだ。

『ああ、なんでまだ生きてるんだい。ほかの子はあっという間だったのに。見つかるわけにはいかないんだ。知られるわけにはいかない。お前がいなくなればわたしは自由になれる』

 ひどく残酷な言葉を聞けば、重たい蓋がひび割れ砕けた音が耳の奥で聞こえた。

(おばあちゃんが、僕を……)

 パルラを自身の祖母だと、疑わぬほど大切にしてもらった記憶がリトにはある。
 怪我をすれば誰よりも心配してくれ、風邪を引いて寝込めばいつだって、一晩中リトの傍で看病をしてくれた。

 普段から口数の多い人ではなかったけれど、確かに向けられる眼差しから愛情が感じられたのだ。
 それはリトの錯覚で、巻き込まれた現実から逃れられないと知り、最後まで役目を果たそうと気持ちを切り替えたゆえなのか。

 もう存在しない人に答えを聞くことはできない。
 だとしてもリトにとって、記憶が戻ったいまも大好きな祖母だったのは変わりがなかった。

「うっ……」

「いつまで寝てるんだ?」

 意識が浮上をしたのを、まるで見計らっていたかのように水を頭から掛けられた。
 冷えたそれは先ほどの光景をまざまざと思い出させ、リトは体が強ばり動けなくなる。

「あんた、婆さんに殺されかけたんだな。それなのにすっかり忘れて甲斐甲斐しく世話してたとかバカだなぁ」

(僕の記憶を覗いていた? この人、一体いくつ特殊スキルを持ってるの?)

 リトが横たわるすぐ傍の岩場に腰掛けるのは、受付室で見た男だ。
 ボサボサの長い髪、着古した衣服もすり切れている。なにより目立つのは彼の首にはめられた金属製とおぼしき首輪だった。

(見た目が人族寄りの場合は、魔力量が獣人ほど多くないし、珍しいスキルをたくさん取得するのは難しい、っていうのは間違いだったのかな?)

 先日の爆発物の隠蔽や完璧に他人になりすまし、ダイトたちまで欺ける今回の能力。
 さらには人の記憶まで覗けるなど、そこまでスキルを駆使できるのは現在王族くらいしかいないはずだ。

「そんなに訝しそうな顔をして見るなよ。俺は元々獣人だ。耳や尾は幼いうちに切り落とされた。聴力は弱ってるがスキルで補える」

「えっ、切り、落とされた?」

「あんたも番紋なんてなかったら、繁殖用に使われてたかもな。あいつらは獣人はただの獣、神の子孫なんてくそ食らえって感じなくせに、獣王の番に手をかけるのをためらったんだ。心の底で恐れがあったんだろうな」

 あまりに衝撃的な言葉が続いて、リトは放心してしまいそうになる。
 リトをパルラに預けたのはルダール伯爵家だとベルイは推測していた。だがそもそも血縁などではなく、裏で獣人を掛け合わせて彼のようなスキル持ちを作っていた、ということなのか。

 リトの持つスキル無効化が生まれつきだったのは、交配による副産物という可能性が高い。
 まさかロヴェの治世で、そのような非道が続いているとは思わず、なかなかリトは混乱から立ち直れない。

「深く張り巡らされた根を根こそぎ取り除くには時間がかかるんだよ。あんたの番は有能だから、あと五年、十年先には俺たちも自由になれるかもな。……それまで生きていればだが」

「助けを、助けを求めよう! きっとここにも助けが来るから、そうしたら」

「俺たちは指示に従わないとすぐさま処分されるんだ。俺はわりと重宝されていたが、今回はさすがに捨て駒かもなぁ。なんとしてもあんたを処理したかったみたいだ。なんだかんだと獣王に自分たちの悪事がバレるのが怖いんだろうよ」

「首、輪……」

 おそらくなにかスキルが使われていて、彼の行動に異常があれば警告、もしくはその身に危害が加わるのだろう。
 リトは自分の無効化のスキルであれば、取り除けるのではと考えたが、無闇に触れて失敗しては目も当てられないどころか、彼の生死に関わる。

「本当は僕をあの場で処理するか、ここで済まさないといけなかったんじゃ? ……もしかして、貴方はわざと見つかるのを待ってる?」

 周囲は谷底のような岩場。容易くたどり着くのは難しそうではあるけれど、ロヴェや王宮の騎士たちならば必ず見つけ出すはずだ。
 あえて彼側の人間たちが近づけない場所を選んだのは、建前上リトを捕らえておきながらも匿っていると考えられた。

 初めて目が合った瞬間、彼の瞳に浮かんだ色は妬み、憎しみ、怒りに隠れた――救いを求める哀願だった。