心に灯る火
彼が自分のことを、性的な対象として見ているとは、夢にも思わなかった。いつからそんなことを思っていたのだろう。
いままでそんなそぶりなど、まったくしていなかったのに。
少し幼さを感じさせる、邪気のない笑顔しか、見ていなかったからだろうか。
けれど熱を孕んだ瞳で見つめられると、なんだか胸がざわめく気がする。
綺麗な茶水晶の目は、こんな時もまっすぐで、縫い止められたように動けなくなる。彼に惹かれてはいけないと、気づいたばかりだというのに。
しかしリュウと一緒にいられるのは、あとほんの数日かもしれない。そう思うと、やはり彼と恋愛するのは避けたいなと思う。
本気で心に火がついてしまう前に、離れてしまいたい。彼に触れたいと思う前に、抱きしめたいと思う前に、いまから少しずつ離れる心の準備をしなくてはいけない。
そう強く思うには理由がある。
初めて出会った時から、彼は自分の身分を証明するものをなに一つ持っていなかった。財布も携帯電話も、ごく当たり前に持ち合わせているだろうものを、身につけていなかったのだ。
推測するに、彼はそういったものが必要ない環境で、生きてきたのではないかと思う。
誰かが代わりに、身の回りを世話してくれるようなそんな場所。
現に数日前まで、買い物すら一人でしたことがなかったくらいだ。多分自分とは住んでいる場所が、違う人間に違いない。
きっと彼を血眼で探している人はいると思う。見つかるのがあと数日先か、数週間か、何ヶ月かはわからないが、彼はいつか必ずいなくなる人間だ。
そんな彼に本気になるわけにはいかない。
けれど彼はいままで傍にいた人間とは、明らかに違う存在でもある。
これまでこの雨の季節を、紛らわしてくれるような相手に出会うことはなかった。だから憂鬱な雨を忘れさせてくれる、リュウの存在は自分の中では、すでに特別なんだ。
だがこれ以上、自分の内側に入ってこさせるわけにはいかない、とも思う。そうしなければきっと、引き離される時に、胸が引き絞られるほどの痛みを感じてしまう。
「リュウ、離して」
まっすぐに茶水晶の瞳を見つめ返せば、彼は少し泣き出しそうな表情を浮かべた。
唇を引き結んで、肌に触れていた手を離して、両手を握ってくる。それを恭しく引き寄せて、リュウは指先に口づけを落とした。
「いまはこれだけ、許して」
じっとそれを見つめる視線に気づいたのか、リュウは顔を上げて、ゆるりと口の端を持ち上げる。それはなんだか、とても寂しげな笑みだなと思った。
「宏武、ごめんね」
握られていた手が離されると、熱を失ったみたいに、手のぬくもりがなくなる。とは言えども、またその手を掴むこともできなくて、黙ったまま彼の顔を見つめた。
すると彼はこちらを見ていた目を伏せて、踵を返し立ち去っていった。
その背中が見えなくなると、胸が少し締め付けられるみたいに痛んだ。けれど彼の気持ちに、応えることができないのだから、これでいい。いいはずだ。
いまはまだ家主と居候、という関係性から外れてはいない。好意を抱いてしまうのは避けられないが、愛してしまわなければいい。
いままで通り、彼の深いところに立ち入らなければ、問題ないだろう。
なんとかなるはずだ。
いや、なんとかしなければならないんだ。
もしかしたらこんなことを、考えてしまっている時点で、すでに手遅れなのかもしれないけれど。
リュウのあとを追うように、洗面所を出て部屋の扉を開けば、彼はキッチンで黙々と料理を始めていた。
その横顔を見つめるけれど、振り向く様子もないので部屋を横切り、仕事机へ足を向ける。
彼の機嫌を損ねてしまっただろうかと、キッチンに立つ姿を見つめながらパソコンを起動させた。
いつもだったら、もっと楽しげに料理をしているのに、今日は口を引き結んだ少し硬い表情だ。
「雨、うるさいな」
リュウが来てから、家の中でほとんど感じることのなかった雨音が、いまはやけに耳につく。机の上に放置されていたヘッドフォンを耳に当てると、適当に音楽をランダム再生させた。
音がすべてシャットアウトされて、音楽だけが鼓膜を震わす。けれど視線を持ち上げれば、彼の姿が視線に止まってしまう。いまばかりはこの隔たりのない、広い空間が恨めしく思えた。
「集中しよう」
意識を彼から引きはがすように、画面に視線を向けた。無心でキーボードを叩くことに集中する。けれど意識をそらそうとすればするほど、彼のことが気になって仕方がない。
人間というものは単純だ。一度でも心を動かせば、すぐに捕らわれてしまう。自分の意志の弱さに、ため息が漏れてしまった。
「宏武、ご飯」
「ああ」
結局、食事の支度が調うまで、ぼんやりと彼を見つめてしまった。だが顔を上げた、リュウの視線からはうまく逃れたので、それは気取られてはいないだろう。
仕事に没頭しているように見えたのか、彼は傍までやって来てこちらの肩を叩いた。自分はそれに、いま気づいたかのようなそぶりで頷いてみせる。
「オムライス、できたよ」
ダイニングテーブルに足を向ければ、お店で出されるものと比べても、遜色ないほどのオムライスがあった。
「うまそうだな」
「頑張った。食べてみて」
椅子を引いて席につくと、リュウも向かい側で椅子に腰かける。料理をして少し気持ちが上向いたのか、彼のはいつもと変わらない笑みを浮かべていた。
それに誘われるままに、スプーンを手に取り「いただきます」と両手をあわせる。
オムライスはふわとろとした甘い卵が柔らかくて、たっぷりかけられたデミグラスソースと相まって、見た目もとても綺麗だった。
卵の下に隠れたチキンライスはケチャップ味で、バターをたっぷり使っているのか、ほんのり甘い。
卵やソースと絡めて食べると、口の中が幸せになる。
「どう?」
「うまいよ。いままで食べたオムライスの中で一番おいしい」
オムライスとは、こんなにおいしいものだっただろうか。優しくて甘い温かな味がする。
口に入れるほど、おいしさが広がっていくようだ。
ひたすら黙々と食べていると、向かい側でリュウが小さく笑う。不思議に思い首を傾げたら、ますます笑みを深くして、楽しげな顔をする。
「おいしいって言いながら食べてる、宏武は可愛いね」
「……っ、そんなに見てないであんたも食べたらどうだ」
「うん、いただきます」
柔らかな笑みを浮かべて、目を細めるリュウはとても幸せそうだ。
そんな顔で見つめられると、どうしたらいいかわからなくなる。けれど気がつけば、彼をじっと見つめていた。
少し目を伏せて、スプーンを口に運ぶ仕草や、オムライスを咀嚼して飲み込むたび上下する喉元。
そんなところを見つめては、胸をドキドキとさせる。彼は見目がいいし、所作が綺麗だから、つい見とれてしまう。
「そういえば、リュウは箸の使い方なんて誰に習ったんだ?」
「メメ、んーと、おばあさん教えてくれた。宏武と同じ日本の人」
「ふぅん、おばあさんが日本人ってことは、リュウはクォーターなのか?」
日本人のおばあさんの血が強いのだろうか。リュウはどちらかといえば東洋よりの顔立ちをしている。
造形の整ったところを見ると、純日本人といった感じではないけれど、親しみのある顔立ちだ。
「それにしても聞き取りは得意なのに、話すのが苦手なんて珍しいな」
「……マモンあんまり日本、好きじゃない」
首を傾げた自分に、リュウは少し寂しげな目をして俯いた。リュウが日本語をあまり話せないのは、母親に使うことを禁じられていたから、なのだろうか。
しかしそれ以上、深い話までするのはためらわれて、自分も彼と同じように口をつぐんでしまった。
そのままなんとなく気まずい雰囲気が流れて、二人でただ黙ったままオムライスを食べた。
それはすごくおいしいのに、少し味気なく感じてしまう。俯いて浮かない顔をする彼は初めて会った時のようで、なんだか落ち着かない気持ちになった。