白昼夢
傍にいればいるほど、感情が流されていく気がした。彼が微笑めば胸は温かくなるし、彼に抱かれれば、身体に熱が灯ってしまう。
このままではいられないと、自分の中にある理性が声を上げるけれど、人間というものは心地よいものにひどく弱い。
心とは裏腹に、握られた手を握り返してしまう。
「リュウ、その音楽、止めてくれないか」
「これ嫌い?」
「駄目なんだ、ピアノの音が、どうにも性に合わなくて、聴けない」
「そう、じゃあ違うのにしよう」
オーディオデッキから流れてきた音色に、寒気がして肌が粟立ち、身体が震えた。なぜか昔から、ピアノの音だけが聴けないのだ。
それはもう一つの嫌いなもの――雨音と、まったく同じ感覚だった。
耳にするだけで具合が悪くなってしまう。しかしリュウはクラシックが好きなようだ。
借りてきたCDの中から、次は弦楽器三重奏を選ぶ。バイオリン、ヴィオラ、チェロの音色が響き始める。
「宏武、顔色、平気そう」
「ありがとう、大丈夫だ」
「ねぇ、こっち向いて」
「ちょっ、こら! まだ日も傾いていない」
「少しだけ」
さっきまで二人で並んで、本を読んでいたはずなのに、いつ彼の中にあるスイッチが入ってしまったのだろう。身体を寄せてきたリュウに、ソファの上で組み敷かれた。
呆れてため息をつく自分を見下ろし、彼は瞳の中に熱を揺らめかせる。
いつもは無邪気な顔しているのに、こんな時ばかりは獣のような目をする。そんな目が時々怖くも感じるが、それが嫌悪ではないことを知ると、自分自身に落胆してしまう。
「リュウ」
たしなめるように名前を呼んだ、自分に彼は目を細める。そして次の言葉を紡ぐ前に、開きかけた口は塞がれてしまった。唇を食むように口づけられて、口先が熱くなる。
「駄目だ。離せ」
さらに奥へ深くへと、押し入ろうとする気配を感じて、身体を押し離そうとすれば、その手はあっけなく縫い止められた。
ここまで来ると、リュウが引いた試しはないのだが、それでも顔を背けて小さな抵抗を試みる。
「可愛い」
彼が小さく笑うのを感じた。その気配と共に身体に重みがのし掛かり、首筋に顔を埋められる。
濡れた舌にさらけ出した首をゆっくりと撫でられて、その感触に肩が小さく震えてしまう。
時折歯を立てて噛みつかれると、肌がひどくざわめいた。
腕をひとまとめに押さえられ、Tシャツの隙間から滑り込んだ手に身体をいいようにもてあそばれる。身体にまたがられ、のし掛かられては身をよじることも適わない。
いつもリュウのセックスは、少し荒いと感じてしまうくらいだ。
けれど彼が自分を手荒に扱うほど、どこか安心してしまう心もあった。きっと優しく抱かれたら、ますます情が移ってしまう。
「んっ、ぁっ、あっ」
「宏武の声、すごくいい」
漏れる声を塞ぎたくても、指先一つ動かせない。
彼はこんな時まで物覚えがいいから、目の前にある身体をどうしたら悦ばせられるか。それをしっかりと学習してしまっている。
いつも的確過ぎて、声を抑える余裕もなく追い詰められる。
それほど声が低くない自分は、少しかすれた女みたいな甘ったるい声を上げてしまう。
そんな声が、彼の中にあるなにかを煽るのか、何度も声をこぼすたびに、ガツガツと食らいつくように攻め立てられる。
声が漏れるのを防ぐのは、もはや不可能だが、自分に向けられる視線から逃れるように目を閉じた。
熱を孕んだ目に見つめられると、飲み込まれそうになる。
だから抱かれているあいだは、なるべく目を合わせないようにした。そうすると彼の感情だけで、自分の感情じゃないと言い訳ができる気がするのだ。
本当はそんなこと、言い訳にもならないことはわかってはいる。はじめに彼の手の中に落ちたのは自分だ。
それでもずぶずぶと、このまま彼に溺れていくわけにはいかないと思う。しかしそう思うのに、何度も名前を呼ばれると、胸がひどく苦しくなった。
いつか軋んだ胸が、砕けてしまうんじゃないかってくらいに。
「宏武」
「……ん?」
ふいに髪を梳く感触がして、自分の意識が落ちていたことを気づいた。いつも彼は、自分が意識を手放すまで、その手に抱いた身体を離してくれない。
今回もそれは同様だったらしい。
重たいまぶたを持ち上げると、心配げな顔をしたリュウが、ベッドの縁に腰かけているのが見える。
どうやらソファからベッドへと、運んでくれたようだ。そっと手を伸ばせば、その手は大きな彼の手に握りしめられた。
「どこか、行くのか?」
いつの間にか彼は部屋着から着替え、身支度を調えていた。あれから随分と時間が過ぎたのだろうか。ゆっくりと身体を起こすと、リュウは恭しく背に手を回す。
身体を重ねたあとの彼は、いつも甲斐甲斐しいほどだ。
しかし終わったあとにひどく心配はするが、その原因である行為は改める気はないらしい。一度スイッチが入ってしまうと、自分でも止める術を持っていないのだろう。
それは彼の素直過ぎる性格のせい、なのかもしれないが。
「買い物、してくる」
「そうか」
「アップルパイ、買ってきてもいい?」
「いいよ」
駅前にあるケーキ屋のアップルパイが、近頃彼のお気に入りだ。メメが作ってくれたアップルパイに似ている、と喜んでいた。
けれどそんなことを言って、顔をほころばせる彼を見ていると、帰りたくはならないのだろうかと疑問に思ってしまう。
大好きなメメが、家族がいる場所に帰らなくていいのだろうか。
だがそんなことを考えはするが、彼の心が移ろいで行くのは、なんだかひどく寂しく感じた。
「起きる?」
「ああ、まだ仕事が残っているからな」
いきなり彼に押し倒されなければ、一本くらい仕事を片付けられたんじゃないかと思うが、本気で抵抗しない自分も悪い。
結局はどんな言い訳しても、リュウを拒めない自分がいて、堂々巡りで終わってしまう。
もう腹をくくったほうがいいのだろうか。――いや、やはりそれは駄目だ。
二つの感情に挟まれて、思わず重たいため息を吐き出してしまった。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけてな」
「うん」
家を出るリュウに、財布と携帯電話を預けると、玄関先で出かけていく彼を見送った。
彼は一人で外へ出かける時、決まってこちらを振り返り、キスをしてくる。そしてついばむように何度も口づけて、満足すると満面の笑みを浮かべて出かけていくのだ。
まるでそれは恋人ごっこのようだと思う。しかしあまりにも嬉しそうな顔して笑うから、小さな行為をとがめることもできないでいた。
彼に触れられるのは嫌ではない。むしろ知らず知らずのうちに、それを待ち望むような気持ちが生まれ始めている。
いまも出かけたばかりなのに、早く戻らないかと、急いた気持ちになった。
「仕事するか」
相変わらず毎日のように、しとしと雨が降っている。だが近頃は、言葉にすっかり慣れた彼が買い物に行ってくれるので、外に出ることはあまりない。
雨音が響く中に出て行かなくていい、それだけでも気持ち的にかなり楽になった気がする。
しかしよくわからない、違和感を覚えることも増えた。それはこうして、リュウが家にいない時に感じることが多い。
誰もいない部屋の中で、自分以外の気配を感じたり、誰かに見られているかのような視線を感じたりする。
気のせいかとも思ったが、その奇妙な違和感は日ごと増しているようにも思えた。
いままで悪夢にうなされることは多かったが、こんな感覚は初めてだ。
「いつになったら雨がやむんだろうな」
今年は雨が長引き、夏が来るのが遅いだろうと天気予報は言っていた。まだあと二週間ほどは雨が続くとも、言っていた気がする。
思わずため息が漏れた。パソコンに向かったのはいいが、なんだか集中力に欠けている。
ちっとも仕事がはかどらなくて、手を止めてため息を吐き出す時間のほうが長い。それに仕事に集中していないと、微かな雨の音さえも気になってくる。
息をつき仕事用の眼鏡を外した。今日はもうやめにしよう。
「……ん?」
ぼんやりとパソコンの画面を眺めていたら、なにかがコツコツとぶつかるような音が聞こえてきた。
耳を澄ましてその音を聞くと、それは寝室のほうから聞こえてくるようだ。
リビングと寝室は、引き戸一枚で仕切られている。
そっと戸を引いて中をのぞいてみると、確かにこの部屋から音は聞こえている。部屋は横長で、入って右手にクローゼット、左手にはベッドがあり奥の壁面が出窓になっている。
雨曇りで夕方と言うこともあり、部屋は薄暗いけれど、窓があるのでわざわざ照明をつけるほどでもないだろう。
ベッドに乗り上がって、窓のほうへ近づいてみる。ここは三階だ。外の風で、なにかが飛んできて、引っかかっているのかもしれない。
雨粒で濡れる窓の向こうをのぞき込むと、上のほうに黒いなにかが見える。
さらに目をこらして見てみれば、それがなんなのかようやくはっきりした。
それと同時に、心臓の辺りがひやりとする。そこに見えるのは黒い革靴――靴先が、コツコツと窓ガラスを叩いているのだ。
どうしてこんなところに、そう思った瞬間、ずるりと二本の足が落ちてきた。
「……っ!」
声にならない悲鳴が喉奥で詰まる。
とっさに目を閉じて、顔を背けた。しばらく肩を震わせながら目を閉じていたが、リビングのほうで物音が聞こえたので、急いでベッドから飛び降りる。
リュウが帰ってきたのかもしれない。しかし期待とは裏腹に、リビングには誰もおらず、部屋はしんと静まり返っていた。
物音の元を探すけれど、これと言ってなにかが倒れたり、落ちたりしたわけでもなさそうだ。
不可解なことばかりで気が落ち着かない。いつの間にかリュウの帰りを待ちわびるように、玄関へと足を進めていた。