車の中は終始無言が続いた。誰も一言も話すことなく、どんどんと見慣れた道を過ぎ、マンションへと近づいていく。
もう少しで繋いだこの手を離さなくてはいけない。そう思うと、無意識に手に力を込めてしまう。
「宏武、ついた」
「ああ、うん」
マンションの前に車が止まると、リュウは扉を開けて手を引いてくる。ここでうだうだしていても仕方がない。
その手に引かれるままに車を降りた。けれど離れると思っていた手は離されることなく、繋がれている。
不思議に思いながら彼を見つめれば、車に乗っているフランツとなにか言葉を交わし、ドアを閉めてしまった。
状況が飲み込めずにいる自分をよそに、車はそのまま発進して行った。あとには自分とリュウが残される。
「帰らなくて、いいのか?」
「明日の昼まで自由。だから宏武といる」
訝しげな眼差しを向ける自分に、彼は満面の笑みを返す。そして繋いだ手を引いて、マンションへまっすぐと向かっていく。
一緒に過ごしたのはたったの二週間だが、それでも忘れずに覚えているのか。彼は迷うことなく、エレベーターに乗り三階を押した。
さらにそれを下りると、廊下を進み突き当たりの扉の前で立ち止まる。だが思えば、彼がいなくなってからも二週間か。
もっと長いような気がしていたが、この程度では忘れはしないかと思い直した。
「宏武」
「なに?」
鍵を開けて、部屋に入ると後ろから伸びてきた手に、いきなり引き寄せられる。驚いて振り返れば、顔を近づけてきたリュウに唇を塞がれた。
突然のキスに瞬きすら忘れてしまう。けれど唇を舐めた彼の舌が口内に滑り込むと、きつく目を閉じずにはいられない。
「……んっ」
熱を持った舌が口内をまさぐる。上あごを撫でられ、舌をこすられ、熱が伝染する頃にはあふれた二人分の唾液が、口の端を伝い落ちた。
だがそんなことなど気にとめる余裕はない。いまは自分もリュウも、ひたすらキスに夢中になっていた。
手にしたパンフレットがバサリと床に落ち、背中が壁に強く押しつけられる。するともっと奥へ深くへと、彼が押し入ってくる。
キスの合間に何度も名前を呼ばれ、そのたびに自分は肩を震わせた。
「会いたかった。宏武に触れたかった。ねぇ、宏武が欲しい」
スラックスのウエストから、シャツとインナーが引き抜かれて、その隙間にリュウの大きな手が忍び込む。
その手に肌を撫でられると、正直な身体はビクリと跳ね上がった。相変わらず少し乱暴なくらいだけれど、この身体は触れられることに喜びを感じている。
覚えているのだ、彼のこの手がどんな風に自分を愛していくのかを。
それと同時に、心には不安も浮かぶ。彼が本当に求めている相手は、自分ではないかもしれないという不安。
愛されている錯覚を、しているだけなんじゃないかと、そう思うほどに胸がキシキシと痛む。
しかし心が繋がっていないほうがいい、そう決めて彼に確認をしなかったのは自分なのだ。だから彼が自分に誰を重ねていても、それをとがめることはできない。
「宏武? なぜ泣くの?」
頭ではしっかりと理解しているのに、胸が痛んで苦しくて仕方がない。心が茨で、がんじがらめにされているかのように、ズキズキと痛む。
愛されていないのだと、そう思えば思うほどに、自分は彼が愛おしくて仕方がないのだと気づく。
この男に愛されたいのだと、「代わり」になるのは嫌なのだと、心が泣き叫んでいる。
無邪気な笑みも優しい手も、まっすぐに見つめるあの瞳も、すべてが欲しい。自分は彼のすべてが欲しいのだ。
どうしてこの気持ちに、気づいてしまったのだろう。なぜ彼に出会ってしまったんだろう。
「好きなんだ、あんたが好きだ。だからもう触れないで」
両手に力を込めて肩を押し離したら、彼は後ろへ一歩下がり、戸惑った表情を浮かべる。
ずるずると力なく、しゃがみ込んだ自分を見つめるリュウは、固まったように動かない。止めどなく涙がこぼれてゆく。
自分を見下ろす瞳に、耐えきれなくなって顔を俯けると、慌てたように彼は膝をついて両肩を掴んできた。
「待って、なんで? 好きなのに触れるの駄目、どうして? 宏武、好き」
――愛してる、そう囁いて涙で濡れた目尻に口づけられた。
それでもあふれる涙は止まらなくて、胸は相変わらず軋んで、息が詰まってしまいそうなほどだ。
「恋人のことは、もう忘れた?」
こちらをのぞき込む瞳を見つめ返して、問いかけた。すると彼の瞳は大きく揺れ、表情は強ばったように固くなる。
その表情を見て、胸が引き絞られる思いがした。やはり忘れていないのだ。
彼はまだ失った半身を愛している。きっと自分は、それを上書きするための代用品でしかない。
「もう帰って」
「嫌だ!」
「もうさよならだよ」
「宏武! 嘘じゃない! 愛してる。あなたを愛してる!」
揺さぶられる肩が痛い。肌に食い込むような力で掴まれて、思わず顔をしかめるけれど、それでもその手は離れていかない。
それどころか引き寄せられて、身体を抱きすくめられてしまう。
力強い抱擁に、息が止まってしまいそうになる。
抱きしめるその腕が嬉しいと、感じてしまう自分に嫌悪した。なぜこんなにも、好きになってしまったのだろう。
どうしてこんなに胸が痛むんだ。彼にさよならと告げたのは自分なのに、どうしてこの心は、言うことを聞いてくれないのか。
「間違いだったんだ」
「宏武?」
「あんたと寝たのが、そもそもの間違いだったんだ」
身体を繋いでしまったから、こんなにも心が引き寄せられてしまった。彼に抱かれて、愛されていると勘違いしてしまった。
甘い誘惑に負け、自分で自分の首を絞めていたのか。なんて愚かなんだろう。
今更そんなことに気がついても遅いと、わかっているけれど涙があふれてくる。
「泣かないで宏武。信じて、いま愛してるのはあなただけだ」
「空いた穴を埋める代わりには、なりたくない」
まだ心に恋人の影がある限り、どんなに愛していると囁かれてもその言葉を信じ切ることはできない。誰かを愛することで、欠けた心を埋めようとしているのが、わかるからだ。
出会ったのがいまじゃなかったら、もう少し時が過ぎていたなら、信じてもいいと思えたかもしれない。
けれど受け入れたとしても、彼はまたすぐに旅立ってしまう人間だ。これは一時の夢でしかない。
「リュウ、これで終わりにしよう」
夢ならば夢のまま終わらせよう。彼に触れるのはこれで最後だ。そう思えば泣き濡れた心も、少しは慰められるかもしれない。
緩んだ腕を解いてその場に立ち上がると、自分でシャツに手をかけた。ボタンを一つ一つと外し、それを滑り落とすとインナーも脱ぎ捨てる。
けれどベルトを外して、スラックスに手をかけると、その手を押し止められた。
「終わりにしたくない」
「抱いても抱かなくてもおしまいだよ。どっちがいい? リュウはこれからもっと羽ばたいていく人間だ。それを忘れないほうがいい」
投げかけた言葉に、リュウはぐっと唇を噛んで、顔を俯ける。その姿を自分はじっと見下ろしていた。
この結末に幸福は訪れない。訪れるのは終末だけだ。
それでも彼の答えを待つ沈黙のあいだ、彼と出会った日々が色鮮やかに巻き戻されていく。
ほんのわずかな時間だったけれど、彼といた時間は本当に心が満たされる時間だった。
こんな風に満ち足りた気持ちになったのは、遠い記憶の中で笑っていた、あの時以来ではないだろうか。
「宏武」
ぼんやりと彼を見つめていたら、彼はまっすぐに立ち上がった。そして腕を伸ばして自分を抱き寄せる。
その腕に抱きしめられながら、少しほっとした。彼がこのまま背を向けて、出て行かなかったことが嬉しかったのだ。
「ここじゃなくて、ベッドに行こう」
まっすぐと綺麗な茶水晶の瞳を見つめれば、返事をするみたいにそっと触れるだけの口づけをされた。
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