末候*虹始見(にじはじめてあらわる)

 雨は普段目に見えない水蒸気が、空の上の方の冷たい空気に冷やされて雲になり、さらに粒が大きくなると、雨となって降ってくるんだよ。

 小さいころ、田舎の縁側に座って空を眺めていた暁治に、教えてくれたのは祖父だった。
 古典文学や逸話だけではなく、幅広く雑多な知識を持った人だったと思う。
 先日教師になったと家に電話したとき、母が祖父と同じ学校だとひどく喜んでくれた。これもなにかの縁だねぇと。

 縁側のガラス戸の向こう、しとしとと降り続く雨を、桃がじっと見上げている。いつかの暁治と同じように。

「桃、こっちおいで」

 呼ぶと大きな瞳をこちらに向けて、たっと走って来る。小さい子犬のようだ。
 一応親の許可は貰ったはずだから構わないのだが、朱嶺同様彼女もいつの間にかやって来て、こたつにもぐって一緒にご飯を食べている。今日も暁治の隣で瞳を輝かせている桃を見て、この人懐っこさは兄に似たのだろうかと思いながら、可愛いなぁと頬を緩ませた。

 妹のようだと思いつつ、現実の妹はこんなに可愛くなかったと、本人が聞けば拳が飛んできそうなことを考える。
 もう電源は入れてないのだが、そろそろこたつもしまいどきだなぁと、とりとめもなく思いを巡らせながら、暁治はみんなの分の茶を入れた。

「じゃじゃーん、『菊花堂』のおいなりさーん」
「おいしーおいなりさーん!」

 玄関の軒下から家の中まで数メートル。しずく払いにタオルを使うほどでもなく、縁側を背にしてこたつにもぐる暁治から見て左側に並んで座った双子は、いそいそと風呂敷包みを開いた。

 先日も見たような変わり種のいなり寿司が重箱にぎっしりつまっている。どれも色とりどりに鮮やかで美味しそうだ。
 双子の席の反対側では石蕗がおいなりさんを小皿で取って配っている。女子力高いなぁと感心していると、なにか? と小首を傾げられて、なんでもないと首を振った。

「そいや、それは酒なのか?」

 白い髪の子供――そういえば名前はまだ聞いてなかった――が持っていた瓶は、石蕗の横にあった。暁治は酒好きというほどではないのだが、土産の包みや作って貰った弁当のふたを開けるのは好きだ。なにが入っているのかワクワクするからだ。

「はい」

 石蕗は笑顔で肯定すると、「飲みますか?」と聞いて来る。もちろんと頷くと、彼はまだ空っぽの湯呑みに栓を開けて注いだ。日本酒にしては白っぽい。

「おい」

「はい」

「これはなんだ」

「酒です」

「いや、甘酒だろ、これ」

「甘酒という名前の酒ですね」

「……」

 こいつがいい性格だったのを失念していた。暁治はがっくりと肩を落とす。

「心外ですねぇ。こちらにご訪問するのにどんなお酒をご用意しようかと、ずいぶん悩んだのですよ」

 まったく不服そうじゃない表情で、そんなことを言う。

「そしたらそこの朱嶺が、先生は麹で作った甘酒が大好物だと――」

「朱嶺ぇ!」

 先日の意趣返しに違いないと、暁治は自分の背中にまだ張りついている朱嶺の頭を叩いた。そう、朱嶺は暁治の背中にまだ張りついていたのだ。

「いたっ! はるひどい」

「ひどいじゃない。いい加減そこからどけ」

「やだ~、だいたいお酒持って来たって、はるしか飲めないじゃん。僕が飲めないのに、はるだけずるい」

「ずるいじゃない」

「まぁまぁ、でもこの甘酒なら私やシロやクロも遠慮なく飲めますね」

「シロやクロ?」

 言われて左を向くと、白い頭と黒い頭。そのままだ。人の名前としてシロクロはどうだろうと思う。
 名前のセンスはさておくとして、この中で酒を飲める年齢なのは暁治だけ。となるとノンアルコールの甘酒なのは、もしかしてグッジョブなのかもしれない。

「だがなにも一升瓶でなくてもよかったんじゃ?」

 まぎらわしいと口を尖らせると、石蕗はシロクロたちの分も注ぎながら、我が意を得たりとばかりに言う。

「あ、これ自家製なんです。氏子さんの田んぼで収穫した新米で作りました」

 学校周辺はそれなりに町の雰囲気なのだが、暁治の家の周りは田んぼと畑がそれなり多い。
 トイレも最近下水工事がされて汲み取り式から水洗に変わったばかりだという。昔は落ちたらどうしようと、深い穴を見ながら恐々と用を足したものだ。

 甘い甘酒を飲みながら食べるいなり寿司。
 寿司飯の甘味と相まって、正直あまり合わない気がする。もっとも甘酒の入った湯呑みを両手に持って、嬉しげに傾ける桃を見ると、まぁいいかという気にはなるのだが。

「はるぅ、僕にも一口」

「自分で食え」

 じだばたと背中で暴れる朱嶺に、冷たい声で返事をすると、「やっぱり仲良しですねぇ」などと石蕗が微笑ましげにこちらを見てくる。

「これ、なんとかしてくれ」

 いなり寿司を口に押し込んでやると、しばらく静かになるのだが、次はいくらが載ったのがいいだの、お茶飲みたいだの、やりたい放題だ。

「いやだと言いつつ、お世話してるからじゃないですか?」

 石蕗の言葉に暁治の身体が固まる。

「あれ、もしかして気づいてなかったんですか」

「……気づいてなかった」

 思えば初めて会ったときからこんな感じだったような。なんということ。

「ん~、先生はコレがいて迷惑ですか?」

 コレとか雑い言い方だと思ったものの、改めて尋ねられて首をひねる。

「いや、別に」

 もとより人の世話を焼くのは、そんなに苦にならないたちのようで、朱嶺たちが気ままに出入りしていても、特に思うところもない。
 なにか悪さをするなら別なのだが、やりたい放題の割りには彼らは礼儀正しく、食事のときも手伝いは当然のこと、たまに差し入れも持ってくるのだ。

 どうやらほぼ毎日家にやって来る朱嶺に、すっかり慣れてしまっていたようだ。

「嫌じゃないなら、落ち着くまでそのままでいてやってください。なんだか正治先生がいたときみたいです。私が遊びにきたときも、そんな感じでしたよ」

 じいさんが? 祖父の名前が出て思わず横を向くと、赤みがかった頭が見えて、ぐりぐりと手のひらでなでてやる。落ち着くまでとか野生動物じゃあるまいし。

「ん? 桃、どうした?」

 くいくいと、服の袖を引かれて隣を見ると、桃の小さな指が縁側を指している。

「どうやら通り雨だったみたいですね」

 掘りごたつから抜け出した石蕗が、縁側に出て空を見上げながら言った。

「はる、虹」
「きれーだよ!」

 同じように縁側に出た双子の言葉に上を見ると、確かに雲間から差す春の光に浮かび上がるように、薄く七色の虹が浮かんでいる。

「虹は冬には見えないもの、らしいですから、もしかしたら初虹かもしれません」

 虹は縁起がいいものとされる。もっと近くで見ようと思ったが、背中の重りで動けない。

「おい」

 なにを拗ねてるのかは知らないが、退いてくれなければ家の用事もできない。

「はる」

「なんだ?」

「うん、僕思ったんだけど」

 耳元で囁くような声に、くすぐったく思いつつ、まるで内緒話のような音に応える。

「僕、はるのこと好きみたい」