第十六節気 秋分

初候*雷乃収声(かみなりすなわちこえをおさむ)

 澄み渡る秋晴れの空。涼やかな風が吹き込む宮古家は大掃除の真っ最中。年末でもないのに、とぼやく声があるものの、家長の言葉は絶対だ。
 彼岸に入り、祖父母とご先祖様の墓参りを済ませ、ふっと暁治の頭の中に思い浮かんだのがつい先日。常日頃まめに掃除をしているが、寒くなる前にしまい込んだ布団を干して、納屋を片付けなければと思い至った。

 墓参りで思い浮かんだということは、祖父母からの言葉なのだろう。連休明けは雨マークだったので、朝一番に居候たちを叩き起こした。いまのうちにできることをやってしまおう、という考えだ。
 部屋の畳も天日干し。納屋も埃や蜘蛛の巣を払って、すべて中身を確認してメモをする。不要品はゴミに出し、かなりすっきりとした。

「暑さ寒さも彼岸まで、って言うけど。その通りに移り変わるのが、日本の気候の不思議だよな」

 朝からの労働でじんわり汗ばむけれど、通り抜ける風は気持ちがいい。夏特有の雷も鳴りをひそめた。
 庭に下りて、ぐっと身体を伸ばすと、暁治は大きく深呼吸をした。そのまま空を見上げれば、気持ちと身体が青空に溶け込みそうになる。

 広くて高い空は田舎ならではだ。この空は何色を混ぜたら、表現できるだろう、そんなことを考える。

「はる~! 終わったよ!」

「そうか、ご苦労さん」

 ふいにかけられた声に振り向くと、たすきを解きながら朱嶺がやってきた。身体を動かす掃除を、着物姿のままこなせるのは、着慣れているからなのだろうかと感心する。
 この古い家にとても馴染んでいて、祖父母と一緒にいたであろう光景が、容易く想像できた。あの二人も普段から着物を着ていたので、当時のことが思い起こされる。

「暁治! おれ、すごく頑張ったにゃ!」

「お、おう、そうか」

 しばらくぼんやりとしていると、いきなり横から抱きつかれた。暁治が視線を落とせば、くっついたキイチが、やけに真剣な顔で見上げてくる。そこには褒めて、と書いてあるように見えた。
 たんぽぽ色の髪の毛を、ぽんぽんとあやすように撫でたら、ピカピカの笑顔を浮かべる。

「ちょっと駄猫! はるは僕のだよ!」

「うるさいにゃ! そんなこと誰が決めたのにゃ! 暁治とおれは相思相愛なのにゃ」

「はあ? なに言ってんの! 帰ってきたら僕と結婚しようねって、約束したんだから!」

「待て待て待て! お前たち、なに勝手な話を繰り広げてるんだ!」

 急に顔を突き合わせていがみ合う二人の、首根っこを掴む。暁治が呆れたため息を吐き出せば、居候たちはふて腐れて頬を膨らませた。
 そう、二人は居候だ。どうして自分を取り合う展開になるのだろうと、頭を抱えずにはいられない。朱嶺はともかく、キイチまで。一人でも大変なのに、二人分考えるのは、暁治的に無理がある。

 さらには聞き捨てならない朱嶺の言葉に、焦りが湧く。最後に会ったのは小学生の高学年に上がる頃か。そんな昔の口約束、覚えていない。そもそも本当に言ったのか、疑わしい。

「暁治! 駄烏ばかり構ってずるいのにゃ!」

「え? そんなことないだろ?」

 思いがけないキイチの言葉に、頭に疑問符が浮かぶ。言われるほどなにかしたかと、暁治は首を捻った。しかしその反応に口を曲げられる。

「あるにゃ! ご飯は駄烏の好きなものばかりだし、お風呂先にどうぞ、とか。このあいだは布団まで買ってやったにゃ!」

「布団は、ほら。これから寒くなるし。古くなってきたから。あ、お前も人間用の布団、あったほうがいいか?」

 普段のキイチは寝る時は猫の姿に戻るので、猫用ベッドだ。いまは雪と一緒に寝ている。布団をもう一組、敷く場所は仏間になるだろうか。そんなことを暁治が考えれば、それを読み取ったキイチがますますふて腐れる。

「おれはいつも、ついでにゃー!」

 べしべしと痛くない猫パンチを食らいながら、これは恋愛云々ではなくて単なる嫉妬だと悟った。かなり暁治にべったりなところはあるが、キイチの好きはライクだ。
 だが言われてみると、やけに朱嶺に対して気を使っている気がした。暁治自身深く意識していなかったけれど、石蕗の言葉が効いているのだろう。

 恋愛というものを、暁治は最近はまったくしていなかった。絵を思うように描けず、余裕が欠片もなかったからだ。
 ここへ来て、ゆっくりとした時間を過ごすようになり、少しずつゆとりがでてきた。いい絵を描かなければと言う焦りは、のんびりとした時間の中で、癒やされている。

 その時間を作り出しているのは、朱嶺なのだろう。絵のことばかりを考えて、負の感情をループさせていたところに、騒がしい日常がプラスされた。暁治に必要だったのは、外に意識を向けること。
 図らずしも朱嶺はそれを実現させた。もちろん彼一人がしたことではないが、その中心にいたのは、間違いない。

「はる?」

「そろそろ部屋の畳を戻して、昼飯にするか」

「えっ? なんかいま、話をそらさなかった?」

 ふいに朱嶺が覗き込むように顔を寄せてきて、思わず逃げるように暁治は横を通り過ぎた。よくよく考えてみると、最後に会ってから干支が一回り以上。そのあいだずっと、それに気づいたら急にいたたまれなくなった。
 人とは時間の感じ方が違うのだとしても、短くはない。したのかもしれない小さな約束を、律儀に待っていたことになる。

 石蕗に言われて意識し始めていたが、もっと真面目に考えなければと思わされた。それとともにふと、品川となにげなく交わした会話を思い出す。
 ――恋した相手が人間ではなかったら。
 実際のところは、恋してきた相手が人間ではなかったら、ではあるが。どちらにせよ同じことだ。真面目に考えるということは、そういうこと。

「はーるー! 畳、戻すんでしょ?」

「あ、ああ」

 畳の前でぼんやり立ち尽くしていると、また訝しげなまなざしを向けられる。慌てて目の前のものを抱え上げて、そそくさと暁治は居間へ向かった。

「俺は何歳まで生きるんだろう」

 しゃがんで畳を戻しながら、そのまま考え込む。時間の流れが違うのだから、また確実に一人になる時が来る。最初から一人でいるのと、二人が一人になるのとでは、喪失感が違う。
 しかしだからと言って、それが避ける理由にはならない。当然それは朱嶺も理解しているはずだ。

「先の話を考えても仕方がないか。そのうち気が変わるかもしれないし」

「なんの気が変わるの?」

「わっ」

 ふっと影が下りて、視線を上げた先に整った顔がある。驚いて肩を跳ね上げた暁治は、後ろへ転ぶ前に支えられた。背後から覗き込んでいた顔は、見えなくなる。

「はるがぼんやりしてる間に終わったよ」

「昼ご飯は出前にしようにゃ」

 我に返って部屋を見渡せば、すっかり畳は元通だった。テーブルを元に戻す朱嶺と、出前メニューのファイルを手にするキイチ。その姿に暁治は驚きをあらわにする。

「えっ、そんなにぼんやりしてたか?」

「まるで置物みたいだったよ」

「さながら地蔵にゃ」

「悪い。昼飯は好きに選んでくれていいぞ。あっ、高いのは駄目だぞ」

 労働量を考えると、昼飯くらいはサービスしよう。そんなことを思いながらも、釘を刺すのを忘れないのが暁治だ。薄給の教師の財布は分厚くない。

「今日は蕎麦屋にゃ!」

「じゃあ、僕はカツ丼。はるは?」

「南蛮蕎麦、かな」

「電話してくるにゃー!」

 バタバタと駆けていく、キイチの後ろ姿を見送ると、縁側に向かった朱嶺がそこへ腰かける。そしてぽんぽんと膝を叩いた。

「なんだ?」

「ここにごろんってしていいよ」

「なんで?」

「なんだか疲れてるのかな? って」

「疲れては、ないけど」

 じっと見つめてくる視線に、暁治は誘われるように近づく。隣で膝を折って、どうしようかと考えるが、再び膝を叩かれてそこに頭を乗せた。

「雪になった気分だ」

「大きな猫だね」

 小さく笑う声を聞きながら、見えた秋の空にはうころ雲が浮かんでいた。