次候*熊蟄穴(くまあなにこもる)
「いやいやいや、ちょっと待ってくれ。なんでお前が……て、夢の中!?」
暁治が慌てて周りを見てみると、周りはどことも知れぬ真っ白な空間。ぷかりと浮いたように二人して座り込んでいた。
目の前の朱嶺は、暁治のように動じもせず、徳利をこちらに差し出している。
「飲まぬのか?」
思わず手元の盃に視線を巡らす。
「朱嶺……、朱嶺か?」
「他の誰に見える?」
「う~ん、朱嶺かな」
「うむ」
見つめるうち、ことりと首が傾く。見れば見るほど疑問が湧くが、まとう雰囲気以外は彼の朱嶺だ。
「なんなら脱ぐか?」
「いや、いい」
なにを脱ぐのかと思いつつ、暁治は首を振った。朱嶺ぽくはないが、面白そうにこちらを見る眼差しは、なんとなく懐かしいような気もするし、現実の朱嶺も言いそうな台詞だ。ついでに抱きついても来そうだ。見れば空いている手がわきわきしている。
「ここは夢なのか?」
「然り」
「なんでお前がいるんだ?」
「夢なのだから、我が出てきても不思議ではなかろ?」
「そうだけど」
どうにも釈然としないのはなぜだろう。
そういえば、と思う。
幽世で思い出した朱嶺は、こんな口調だった気がする。とすると元々こうだったのか?
見つめる暁治をよそに、彼はどこからともなく盃を取り出して、一人手酌で徳利を傾けた。手を伸ばした暁治は、ひょいと盃を取り上げる。
「あ、なにをする」
「酒はダメだ」
「また取り上げたな。横暴だ。再三言うが、我は未成年ではないぞ」
不満げに口を尖らせる姿は、現実の朱嶺と重なった。
「高校生は、飲酒禁止だ」
「なんと、それは殺生だ。卒業までまだ一年以上あるではないか」
「それくらい我慢しろ」
盃に溜まった酒を飲み干すと、文句を言いながらもまた朱嶺が注いでくれる。ちゃぽりと聞こえる水音から、まだ中身に余裕があるのが窺えた。先ほどから何度も注がれているのに、彼の持つ徳利は枯れる気配がない。夢だからだろうか。
「やけにはっきりした夢だな」
「そういう夢もある」
「そうなのか?」
頷かれて、ふむと鼻を鳴らす。
「そういえば」
こてりと、朱嶺は首を倒した。
「聞こうと思うておった。おぬし、我には絵を見せてくれぬのか?」
「ぶっ!?」
思わず吹き出した。咳き込む暁治のそばに寄った朱嶺は、その背をさすってくれる。落ち着いたのを見計らったのか、ぎゅうと抱きついてきた。辺りにはいつものからかう輩はいないと見て、今日は大人しく抱き込まれてやることにした。
「我を描いてくれたのであろ。はるの絵は見たことあるけれど、それはまだ見ていない。ゆーゆは見てるのに、我だけずるい」
ずるいずるいと身をよじる。どうやら石蕗から聞いたらしい。またあいつかと、肩を落とす。
「今度な、今度」
大人がその場を誤魔化すのによく使う台詞を言うと、三百歳のお子さまは大人しくなった。もしかして妖というものは、みなこんなに単純でチョロいのだろうか。
「しかし、なんで口調が違うんだ?」
どちらの朱嶺が本当だろうと、眉を寄せ考えていると、朱嶺はにまりと笑んだ。
「どちらも我だぞ。だがそうだな、うつつの我は、お前の理想のたいぷのはずだ。そうなるよう頑張った」
「ぐふっ!?」
先ほどより気管に入ったらしい。咳き込むたびに喉が痛む。冗談だろう。暁治にとって朱嶺は、今年の初めに出会ったときから、容赦なくこちらを振り回して、破天荒な非日常へと誘う嵐のような少年だ。間違っても理想ではない、はず。
そんな暁治の心情を知ってか知らずか、朱嶺は暁治の背をなでつつ、なにやら考え込んでいる。
「はるは、あいつが好きなのか?」
「あいつ?」
「桜小路」
唐突に話が変わって、暁治は面食らったものの、出てきた名前に唸った。
「我は別れてやらぬぞ」
なにやら勘違いをしているのか、ぷくりとふくれる朱嶺に向き直ると、暁治は頭をなでてやる。
「別れるもなにも、あいつは友人だし、小学生のころからの付き合いだしなぁ」
「我とも小学生のころからだ」
「まぁ、そうだけど。あいつは幼馴染みで友人、お前は幼馴染みでこっ、恋人……だろ」
「うむ!」
ぎゅぅと、抱きつく力が強くなる。顔が発火しそうに熱いが、どうやら納得してくれたらしい。
「七番目の兄者が、ホンサイは心に余裕を持つものだと、言っていた。ところでホンサイとはなんだ?」
「ホンサイ? もしかして本妻かな……あ~、う~んそうだな。一番大事な人という意味かな?」
間違ってはいない。と、思う。
「そうか。暁治もホンサイだからな。心に余裕を持つがいい」
にまりと目を細められ、先ほどまでの醜態を思い出して顔が赤らむ。夢だと思っていたから、愚痴を吐きまくってしまった。もっとも、今も夢の中のようなのだが。
「わかってるよ、ちっぽけな悩みだってさ。余裕なくて悪かったよ」
ため息混じりに、盃に吐き出すと、一気に煽る。周りも巻き込んで、最近の暁治は大人失格だ。
「暁治よ、おぬしはよくちっぽけな悩みと言うが、そんなに悩むのなら、それはちっぽけではないぞ」
「でも、そんな大したものじゃ」
「はるは真面目すぎだ。そこがおぬしのいいところでもあるが」
「ほんとに大したことないんだ。ただ、ちょっと引っかかっただけなんだ」
またひとつ、ため息混じりに呟くと、暁治は瞳を閉じた。
それはとある賞の展覧会だった。先だって小さいけれど初めての個展を開かせてもらい、自信をつけた暁治は、勢い込んで応募したのだ。数ヶ月かけて練り込んだ大作である。
結果は入選。こんなものかと思ったのだが、一緒に応募した幼馴染みが優秀賞を取って、彼の受賞は一気に霞んでしまった。
それは仕方がないと思う。桜小路の絵は、暁治の目から見ても素晴らしいもので、むしろ自分の未熟さを痛感する出来だったからだ。
赤や緑。青い空。色とりどりの花に彩られた美しい景色の中で、生き生きとした白馬が駆けている。躍動感溢れる力強いタッチは、彼独特のもので、惹き込まれずにはいられない。
ただ少し、自分との差を思い知っただけ。同い年で、いつも同じ位置にいたはずなのに、その差を思い知ってしまっただけだ。
そう、彼が暁治の絵を見て、その言葉を言わなければ。それだけで済んだはずなのだ。
――お前の絵って、つまんないよな。
熱心に暁治の絵を見ていた桜小路は、やがて眉を寄せると、そうぽつりと言った。
絵の魅力なんて、人それぞれで、一概に言えるものではない。わかってはいる。
こいつの好みに合わなかっただけなんだろう。
もしかしたら、別のシーンであれば、言い返せたのかもしれない。強くいられたのかもしれない。
幼馴染みだからの気安い言葉だったのかもしれない。元々彼は口数が少ない方だ。
だが少ない方だからこそ、気づいてしまう。それが彼の本心だと。
その後どうやって帰ったのか、覚えてはいない。ただひとつ判るのは、その日から暁治は絵を描けなくなってしまった。
祖父の訃報を受けたのも、ちょうどそのころで。雑事にとり紛れて数ヶ月。ぼんやりと遺品を片付けていたら、弁護士から相続の話を貰い、気づいたらこんな場所まで来てしまった。
「したが、もう描けるようになったのだろ?」
「うん、なんとかな」
アトリエを決めて、絵の具やキャンバスに囲まれていると、なんとなく手が寂しさを覚えたらしい。
描いてみると、あるとき霧が晴れたように目に色が映ったような気がした。
暁治は目の前で右手を広げて、閉じた。絵筆を握る手だ。そうありたいと思った手だ。
「なんで、あいつ、あんなこと言ったんだろうな」
「ん?」
「うん、実はな」
言いかけたとき、薄っすらと辺りが輝きを増した。明るい空間が、さらに明るくなる。
「どうやら、目覚めのようだな」
「え?」
それは一瞬の出来事。光で塗りつぶされる世界で、最後に見たのは楽しげな朱嶺の顔だった。
ふるり、寒さを覚える。目を開けると、肩に布団がかけられていた。視線の先には急須が載ったお盆が置かれているのが見える。どうやら仲居さんが気を利かせてくれたらしい。
「みゅ……」
もぞりと、動く腕の中に朱嶺がいた。寒いのか、彼の背に腕を回すと、ぺとりとへばりついて、幸せそうな表情を浮かべている。
旅館に着いてすぐ寝てしまったせいか、辺りはそろそろ夕暮れどきのようだ。
「ん、はるぅ……」
「起きたか」
「ん~ん、寝てるぅ。もう僕、春までこのままでいいよ」
朱嶺は冬ごもりに入る熊のように、暁治に抱きついたまま、布団に頭を埋める。
「馬鹿言うな。せっかく温泉に来たんだから、温泉入って飯を食うぞ」
「むぅ、僕が誘ったときは突っぱねたくせにぃ!」
それを言われると辛い。が、そこはずるい大人である。
「なんだお前、温泉に行きたくないのか。じゃぁ、俺だけ行ってくるかな」
「えぇっ!? もぅ、はるったらほんとずるいんだからぁ!!」
ぷくりふくれる朱嶺を見て、夢の中で言われた言葉が蘇り、ひょこりと胸が跳ねた。
――別に可愛いとか、思ってないからな。
少し口を尖らせると、ふと思い出す。そうだ。
「どうしたの?」
「あぁ、桜小路と話してみるよ。聞いてみたいことができた」
あれは暁治の夢だ。だが朱嶺は彼の顔を見て、目を大きく見開いた。
「そっか」と、やがて一言。
目覚める前に見たのと同じ、ほにゃりと笑う顔を見て、暁治はそういえばこの顔は好きかもと、そんなことを思った。