第二十二節気 冬至

初候*乃東生(なつかれくさしょうず)

 二人でしっぽり温泉旅行、のはずが、なぜだか家族旅行にようになったあのあと。一人、留守番となった桜小路の家へ暁治は向かった。
 同じく留守番になっていた、子猫の雪を迎えに行くためだ。

 本当ならば、雪も幽世に連れてこられたらしいのだが、さすがに桜小路だけ仲間外れにするのは、気が引けたのだろう。
 家を留守にするからと桃が預けたとか。

 雪がちらつく中、徒歩十分はかなり身体が冷える。足早に歩き、暁治はようやく桜小路宅に到着する。
 平家の庭付き一戸建て。2LDKという広さは、一人暮らしには十分すぎるほどの広さがあった。

 だが彼の実家は、この家の敷地が二つ分くらいはすっぽり入るので、本人はそれほどそれを感じていないかもしれない。
 そんなことを考え、暁治は呼び鈴に手を伸ばす。しばらくすると、玄関扉が開き、数日ぶりの彼が顔を出した。

 暁治も平均より身長が高いが、桜小路はそれよりもかなり背が高い。
 目の前に立つとさすがに圧迫感がある。久しぶりのその感覚に、暁治は少しばかり苦笑いをした。

「宮古、帰ったのか」

「留守にして悪かったな。これは土産だ」

「わざわざすまない。あ、雪はいま寝ているんだが」

「そうか、上がっても?」

「もちろんだ」

 招き入れられた家は、彼が借りた時にも訪れたが、少しばかり生活感が増したようだ。生活用品が増えている。

 それでも静かなこの家で一人は、さすがに寂しくもなるだろう。猫が欲しいという気持ちは頷けた。

「あれ? 絵をまた描き始めたのか?」

 襖が開いた一室。床にスケッチブックや絵の具が広げられている。そして壁やイーゼルに立てかけられたキャンバスには、描きかけの絵があった。
 まだラフのような状態だけれど、視線が吸い寄せられて、立ち止まらずにはいられない。

 桜小路の絵は引力がある。見るものの足を止めさせ、呼吸をするのも忘れるくらい見惚れさせる。
 暁治が自分に足りない部分だと、そう思わせる魅力。

「ああ、宮古の絵を見て、立ち止まってはいられないと思った」

「このあいだは、どうでもいいって言ってたのに」

 この言葉は頭に血が上るくらい、暁治に突き刺さった。それは苛立ちだった。人にはないものを、たくさん持っているくせに――余裕だな、そう感じたのだ。
 暁治が足掻いて、必死になっていたものを簡単に手放す。

 それに腹が立ったのだ。

「この町は優しくてあたたかくて、美しい。それを感じたら、俺なんかが描かなくても、いいんじゃないかと思えた」

「うーん、インプット期みたいな感じか?」

「うん、それだな。いま自分に足りないもの、それがわからなかったんだ」

「お前に足りないものなんてあるのか?」

 彼は才能の塊だ。子供の頃から見てきたから、暁治はそれを直に感じてきた。生き物の躍動感、光の煌めき、息吹、温度、それらが感じられる。
 人物を、自然をより美しく、色鮮やかに表現できるのが、桜小路の強みだ。

 もちろん静物も、触れられそうに思うほど繊細に描く。写実的な絵は暁治も得意としているが、彼には到底敵わない。

「ふと、思ったんだ。つまらない絵だな、と」

「え?」

 ぽつりと呟かれた言葉に、暁治は驚いて振り返る。後ろに立っていた桜小路の表情は、真剣そのもの。冗談を言っているわけではないようだった。
 あの時、自分にも向けられた言葉。彼はなにを思ってこの言葉を呟いたのか。

「盛大なブーメランってやつだな」

「桜小路、俺に言った言葉、覚えてたんだな」

「ああ、すまない。いま思うとこれは傷つける言葉だったな。俺はどうやら言葉が足りないようだ。宮古ならもっといい絵が描けるのに、もったいないって言いたかったんだ」

「それは、言葉が足りてないというか。伝わる意味が全然違うぞ」

 難しそうな顔をして顎に手をやるその様子に、暁治はぷっと吹き出した。あの言葉の裏に、そんな意味があったなんて、誰が想像するだろう。
 それでも喉に引っかかっていた棘が、するりと抜けたような気分だった。しかし昔から彼は、言葉が足りない。

 よく言えばまっすぐで言葉を飾らない、と言えるだろうが。受け取り方を間違えると、辛辣に聞こえる。
 暁治に伝わったのは、後者だ。絵描き失格の烙印を押された気持ちになった。

「いままでなぜ、相手がそんなに不機嫌になるのか、よくわからなかった」

「お前ってさ、前から思ってたけど。結構天然だよな」

「そうなんだろうか? ここへ来て、人と接することや考えることが増えたら、自分に非があること、足りないものがあることに気づいたんだ」

「まあ、言葉が足りないのは確かだけど。お前の絵に足りないものがあるなんて、想像ができない」

 この部屋にある、デッサンやラフを見ているだけでも、その実力は見て取れる。彼がなにを思い悩んでいるのか、暁治にはまったく考えつかない。
 それでも黙って答えを待つと、桜小路はおもむろにキャンバスに近づいた。

「俺の絵からは、なんというか。愛情が感じられない。見るものに暖かなものを与える、愛が足りない気がするんだ」

「んー、愛? また抽象的な」

「いまの宮古の絵からは、それを感じる」

「そ、そうか?」

「ああ、心が豊かになったんだな。一番の原動力は、恋というやつだな。きっと」

 振り向いた桜小路は眩しそうに目を細めて、満足げに頷く。けれどしたり顔で、そんなことを言われた暁治は、頬の熱さに身悶えそうになっていた。
 朱嶺を描いたあの絵を見られた時から、なにか言われるのではと心配になっていたが、いまこんなところで。

 反論もできず、思わず遠くに視線を向けると、桜小路がふっと笑ったのを感じた。

「俺はいままで、絵のことしか考えていなくて。誰かを想うことも、誰かを労わることもできていなかった。ゆとりがないんだ」

「桜小路は、早い時期から大人に囲まれていたから。まあ、その辺は仕方がないんじゃないか?」

 学生の時から大人たちが、将来性のある彼に群がっていた。思い返せば彼に友達、と呼べるものがいたのかどうかさえ、わからない。
 もしいたとすれば暁治くらいなのではないか。

 音信が途絶えて訪ねて来るくらい。なんでも言ってくれると、信頼してくれるほど、彼の傍にいたのは暁治しかいなかった。

「気づいたなら取り戻せるんじゃないか?」

「そうだろうか。そうだといい」

「大丈夫だ。俺だって、ここへ来て得たものは大きい」

 小さく笑ったその顔に、グッと親指を立てて、友人の一歩にエールを送る。

 昔、祖父が話していた言葉を、暁治はふと思い出した。夏枯草という花は、夏に枯れゆくけれど、寒い冬に芽吹く花。ほかの花たちが枯れゆく中で、命を膨らませ、冬を乗り越える。
 どんなに暗く冷たい季節が訪れても、厳しい季節の中で芽を出し育つ。

 その言葉を振り返ると、それはまるで――いまの自分たちのようだと思えた。

「みゃあ」

「雪、おはよう。お姫様のお目覚めだな」

 二人で顔を見合わせていると、鳴き声とともに足元に柔らかな感触がした。擦り寄ってくる身体を抱き上げて、暁治は彼女の顎をカリカリと撫でてやる。
 気持ちよさそうに目を細めるその姿に、自然と顔も綻ぶ。

「あっ、そうだ。桜小路」

「なんだ?」

「これからうちで」

 二つ目の用事を思い出した暁治が、声を発そうとした瞬間。けたたましく家のチャイムが何度も響いた。そしてその音に混じって聞き慣れた声がする。

「はぁ~るぅ~! もう準備できてるよ!」

「うるさいぞ! 近所迷惑だ!」

「あ、宮古」

 催促するように鳴らし続ける恋人に、暁治はため息まじりに足を踏み出した。けれど呼び止められて、その足を止める。
 やけに真剣な声。
 その先を見つめれば、精悍な顔が決意を新たにしていた。

「あの時の言葉、いまさらだけど訂正する。お前の絵は優しくて愛に溢れているよ。とても素晴らしい絵だ。……俺は、宮古に負けないように頑張る」

「桜小路」

 胸がじわりと熱を帯びる。ふつふつと込み上がるような気持ちは、例えるならば情熱。
 自分も負けるものかと、本来の暁治の負けん気強さが内から湧いてくる。自然と持ち上がる口角に、桜小路は大きく頷いた。

「はる! とコウちゃん! もうクリスマスパーティー、始まっちゃうよ!」

「わかってるよ!」

 玄関から先へ上がれないのは妖怪ゆえか。早く! と急かすようにまたチャイムが鳴る。しかし大きな声に目の前の顔が、不思議そうに傾げられた。

「クリスマス、パーティー?」

「桜小路、行こう。のんびりしすぎて、日付も忘れたか? 今日はクリスマスだ。ご馳走作ってみんな待ってる」

「みんな、か。お前たちの家族に、入れてもらえるのは嬉しい」

「……家族。ああ、家族だな。でも桜小路だって、もう家族みたいなものだろう。さあ、行くぞ」

 驚いた顔をして立ち尽くす親友の、腕を掴んでもう一度足を踏み出す。
 その夜は久方ぶりに家の中が大賑わいになった。妖怪にクリスマスは関係あるのか、という突っ込みは、その時ばかりは心に納めた。