伝わる熱03
余計なことを口走ってしまいそうでとっさに口を引き結んだ。そして真っ直ぐと向けられる視線から逃れるようにゆるりと目を伏せる。冷静になると火照った頬が冷めて今度は冷や汗をかいた。
普段崩すことのない表情を思い起こしてなるべく平静を装う。けれど手のひらにはじっとりと汗をかき、心臓は全速力でもしたかと思えるくらいに早鐘を打っている。沈黙がやけに長く感じられて、なりふり構わず逃げてしまいたい気持ちにすらなった。
「穂村は一年のときずっと保健室通いだったって聞いています。湯川先生と一番長く一緒にいる生徒だから心配な気持ちはわかりますが、少し落ち着きませんか。重篤というわけではないんですよね」
「え……ああ」
かけられた言葉をゆっくりと瞬きをして飲み込む。伏せた視線を持ち上げて鹿島を見ると心配そうな表情でこちらを見つめてくる。その目になにかを疑うような色は見えなかった。これは気持ちの内側までは悟られていない。まだ大丈夫だ。ようやく落ち着いて息が吸えた。
「悪い、少し苛ついていた。八つ当たりだったかもしれない」
気が急いていつも以上に荒立ててしまっていたような気もする。あそこまで言う必要もなかったと言われれば確かにそうだとも思う。
「湯川先生を新任のときから知っている先生たちはみんな言ってましたよ。来た頃の先生はすごく人当たりもよくていつも優しかったって」
「そんなのは昔の話だ」
「去年定年退職した先生に、ずっと嫌がらせをされていたって本当ですか」
含みもない真っ直ぐな言葉。その問いかけにとっさに返すような言葉は思いつかなかった。でも一瞬ざらりと嫌なもので心臓を撫でられたような気持ちになった。
素直で実直で裏表がない。それはいいことなのかもしれないが、なんでもない顔をして土足で人の内側に踏み入ることは、果たして許されることなのだろうか。
「……人間はみんな蓋が外れるとお喋りになる」
やんわりと深いところまで抉ってくる言葉に乾いた笑い声が漏れた。肩をすくめて両肩に置かれた手を払いのけると、今度はこちらから真っ直ぐと見つめ返す。
戸惑ったように揺れる目は鹿島の真正直さを現している。いままで他人に蔑まれたことのないお日様ばかり浴びてきた人間の目だ。いつでも人の懐にするりと入り込んで、ちやほやともてはやされる。
穂村と同じ光の側に立っている人間だけど、彼とはまったく違う。暗い澱みを知らないそんな目をしている。いま自分がどれほど他人の傷口を抉っているかなんて気づきもしない。
「みんな前みたいに話せたらいいなって言ってますよ」
「いまさらどうでもいい。悪いけどのんびり話に付き合っていられない」
「湯川先生っ」
「なにがしたいの?」
背を向けたのとほぼ同時に引き留めるように手首を掴まれた。けれど引き留めた本人もなにをしたいのかよくわかっていないのだろう。紡ぐ言葉を見つけられずに開きかけた口を閉ざした。
この男はこの男なりに事態の改善を試みようとしているのだと思う。それは言葉にされなくとも感じる。けれど切り刻まれたものは簡単に、元の形に戻りはしないのだ。
「先生から手を離せ」
声を発するために息を吸い込んだ。けれどそれよりも先に聞き慣れた声が手首にまとわりついた戒めを解いた。
その声に引き寄せられるように視線を持ち上げると、意志の強い眼差しが射るように鹿島を見据えている。意表を突かれたのか、鹿島は瞬きを忘れたかのようにその目を見つめていた。
真っ直ぐとこちらへ向かってきた穂村は、ぼんやり立ち尽くす自分を引き寄せるように手を伸ばす。掴まれた腕からじわりと感じる体温。その熱さにはっと我に返った。
「穂村」
鹿島から庇うように穂村は自分の肩を抱き寄せてくれた。身長はお互いさして変わりがないから、自ずと頬を寄せ合う形になる。触れる手も頬も熱くて、倒れてしまわないかと心配になった。
けれども穂村は身体の不調などおくびにも出さずに、爛々とした鋭い眼差しを見せる。そして彼は目の前に立ちはだかる鹿島に向けて、大きく声を荒らげた。
「許してやってもいいなんて言葉。言っていいのは傷つけられた人間だけだ。加害者が許して欲しいなんておこがましいだろっ。ましてや関係のない赤の他人が言っていい言葉じゃない。先生に謝れ。正義感がなんでも人のためになるなんて思うなよ!」
言葉を突きつけられた鹿島は目を見開いてじっと穂村を見つめていた。上辺の優しさだけでは、人を救うことは出来ないのだとようやく気がついたのだろうか。正義感を振り回して息巻いていた彼は憑きものが落ちたような顔をしている。
片やこちらは心に刺さっていた棘がぽろぽろとこぼれ落ちていく感覚に戸惑っていた。思っても言葉になど出来なかったそれは奥底でずっとくすぶっていたものだ。感情を他人に否定されるのは、もう慣れていた。自分はそれほど堪えたことはなかったと思う。
けれど一陣の風が過ぎ去ったあとの顔色を窺う愛想笑いには辟易していた。暗にこちらが折れるのを待っているかのような態度に苛立ちが募った。それがずっと自分の心の中で占められていた想いだ。
「ふ、ははは、穂村はすごいな。言えなかったこと全部言っちゃうんだ。いままで誰もそんなこと言えなかったよ」
可笑しくておかしくて、たまらず何度も笑いが込み上がってくる。けれどもそれとともに目から溢れた水がこぼれて止まらなくなった。なんだかスイッチが壊れたみたいに感情がちぐはぐだ。でも胸は痛くない。ちっとも痛くなくて、目を丸くする穂村の顔が可愛くて仕方がないって思えた。
「穂村のそういうとこ好きだよ。すごく、好きだ。……眩しくて、あったかくて、優しくて」
自分も血の通った人なんだって思える。君が好きだって感情が動いて、目の前の景色に色がついて、ちゃんと両手で愛しい人を抱きしめられる。感情が錆び付いて動かないんじゃないかって思ったこともあった。
誰かの感情に振り回されるのなら、もう一人でいるほうがいいなんて思ったこともある。でもいまはそんなこと全然思えなくて、穂村がいてくれることが本当に嬉しくて、眼差しを向けてくれるだけで心が軽くなる。これが自分の小さな幸せなんだって気づかされた。
「先生、涙腺壊れたんじゃないの? あーあ、俺に似てあなたも泣くのが下手な人だね」
呆れたような声は優しくて、たくさん泣いていいよって彼は肩を揺らして笑った。だからこんなに涙をこぼして泣くのは初めてなんじゃないかって思えるくらいに、自分も泣いて、笑って、そして彼を強く抱きしめる。
いつも守ってあげたいと思っていた背中は思ったよりも大きくて、いつの間にか自分のほうが救われていた。穂村がいてくれる世界は煌めいた虹色に見える。誰かを好きだと想う気持ちはこんなにも温かいのだと初めて知った。
あなたはいま幸せですか――そんなことをいま問いかけられたら、間違いなく緩みきった顔でYESと答える自分がいるだろう。彼は自分の救世主だった、なんて恥ずかしげもなく言えるかもしれない。
まだそんなに長くもない人生だけど、彼と出会った数年はなににも代えがたいと言える。世界が変わって見えるというのはこういうことだ。
「穂村、大丈夫? 吐き気とかない」
「ないよ。大丈夫、先生は運転上手だね。寝ちゃいそう」
「病院に着くまで寝ててもいいよ」
「んー、やだ。せっかくふたりきりなのにもったいないだろ」
助手席で毛布に包まって小さく丸まっている穂村は、先ほどからうつらうつらしている。まぶたがゆるりと落ちては目を瞬かせる――それを何度も繰り返していた。
しかしどうしても眠りたくないのか、眠気を誤魔化すためにたわいのないことを呟いて小さく笑っている。その横顔がひどく可愛くて、横目に盗み見ては自分も口元を緩めた。
「鹿島は先生に気があるのかな」
「それはないな。あれはお節介なだけでそういうのとは違うと思う」
いつも優しくしてくれる人が困ってたからなんとかしたくなった。たぶんそれくらいの感情だ。その感情が悪いことだとは思わないが、一度は蹴躓いて痛い目見たほうがいいんじゃないかなんて思ったりもする。
あれは人生が順風満帆すぎるんだ。他人の痛みどころかきっと自分の痛みも知らない。
「先生優しいからな。あいつのこと気にするだろ」
「そうでもないよ。改めて関わり合いになりたくないタイプだなって思ってる」
「そうやって先生の中に存在するのがなんか許せない。先生が誰と付き合っても平気だなんて言ったけど、やっぱり無理だ。俺、そんなことになったら嫉妬で真っ黒焦げになりそう」
甘えた声がふて腐れたような声に変わる。毛布を被り、目だけを覗かせた穂村は窺うようにこちらを見た。その視線に笑ったら文句を言いたげに目を細められる。許しを請うように手を伸ばして彼の頭を撫でると、そっと前髪を指先で梳く。
「穂村、苦しくない? 熱上がってないか?」
「大丈夫だよ。心配しないでよ。このくらい大したことない」
触れた額は汗ばんで熱を感じた。毛布で隠れた顔をのぞき込むとひどく青白くて、心臓がすくみ上がる。なんでもないと笑ってみせる笑顔に胸が締めつけられる思いがした。
彼はいつも自分の苦しさを悟らせない。長い時間を一緒に過ごしてきたのに、いまだにその気丈さにだまされてしまう。いまも笑う声につられて見落とすところだった。
「俺のことは大丈夫。それよりも、先生。俺、なにも出来なくてごめんな」
「え?」
「気づいていたのになにも出来なかった。俺も人のこと言えない」
「……穂村は、ちゃんと救ってくれたよ。吐き出すものをいつも笑い飛ばしてくれて、穂村と話してるだけで気持ちがすっきりした」
気持ちがささくれ立ってしまわなかったのは、穂村が傍にいてくれたからだと思う。仕方ない大人だなって笑ってくれて、先生だから仕方ないねってどうしようもない自分を受け入れてくれた。その明るさと優しさにいつだって救われてきたんだ。
「そう、それならよかった。俺、先生が傷つくとこは見たくない。先生を守りたいんだ。本当に、せん、せが」
「穂村?」
もしも君がいなくなったらなんて、考えたことがないって言ったら嘘だ。けれど考えるほどに胸が苦しくなる。君がいない世界なんてきっと息苦しくて生きていけない。
心が離れてしまったなら、物理的に離れるくらいは我慢が出来る。でも君の息吹が感じられない世界では、心が凍えて生きた心地がしないだろう。
だから、どうか置いていかないで――そう心が叫んでしまう。