自分たちの関係を、誰かに言って回りたいわけではない。誰かに知って欲しいのかと言えば、それも否だ。周りに詮索されたくないし、興味本位に近づいても欲しくない。
叶うならごく平凡な幸せの中で、穂村と一緒に静かに生きていければいい、そのくらいの感情だ。それなのにとっさに口に出してしまった。彼の名前を。
言わなくていいことを言ってしまったと、後悔した時には遅くて、それでも言葉にしたら少し胸が軽くなった。つかえていたものが取れたような、そんな感覚だった。
あの時の自分は、他人に知って欲しかったのではなくて、それが夢や幻でなく現実なのだと、実感できるなにかが欲しかったのだろう。
いままでこんなに苦なく傍にいられた相手は初めてで、こんなに人が愛おしいと思えたのも初めてだ。だから一人勝手にいまある二人の時間を、穂村を失うことを想像して不安になる。
ずっと一緒にいよう、そんな言葉を何度も彼は口にするけれど、この世の中に絶対というものはない。穂村を疑っているということではなく、ほんの些細なきっかけだけでもひびが入ることがある。
そこはお互いの想い合う気持ちで乗り越えるところだろう――彼にはそう怒られそうだが、そこまで前向きな人間だったら、そもそもこんなことで臆病風を吹かせていない。
もっと最初の頃は素直に、一緒にいるのが楽しい、幸せだって思えていたはずなのに、どうしてここまでこじれてしまったのだろう。やはりあまりにも満たされすぎるから、それが怖くなるのか。
「どれだけ不器用なんだよ、自分」
いまある感情に気づかれたら、きっと穂村に心配をかけてしまうだろうし、愛情が足りないのかと思われてしまう。
もらっているものは、足りないどころか溢れていきそうなくらいなのに、至らないと感じさせたら嫌だ。できるなら素直に彼の手を握って、ただまっすぐに彼のことを信じて想っていたい。
「あ、……そろそろ時間だな」
自分肯定と素直さはこれから身につけるとして、ぼんやりしているとそのあいだに引っ越し業者が来てしまう。昨日まで使っていたものを、急いで段ボールに詰め込んでいく。
そうして時間まであとわずかという頃に、携帯電話が着信を知らせた。ズボンのポケットからそれを取り出して見れば、穂村からだ。すぐさま通話を繋げると、いつもより覇気のないおはようの声が聞こえてくる。それに驚くが、これはあれだろう。
「まだ返事をもらってないのか?」
「うん」
先日、北川に自分たちのことを伝えたと聞いた。けれど直接言うのはやはり怖かったようで、メッセージを送っただけなのだと言う。それに対し、どうやら向こうはまるで避けるかのように、そのことを話題にしないらしい。
だがほかの話はちゃんとしてくれているので、穂村を無視しているわけではない。しかしそれが余計に彼の不安を煽っていた。はっきりと言ってもらえれば、どちらの答えでもすっきりするのに。
「返事が怖い」
「大丈夫だよ。あの子はこんなことでそっぽを向くような子じゃない」
「わかってはいるんだけど」
「……今日、いい返事、聞けるといいな」
「うん」
絶対にそんなことはない。わかっているのに怖くなる。心の中に湧き上がる相反する気持ち。状況こそ違えど、それはなんとなく自分の中にある感情に似ている気がした。
きっと大丈夫、だがもしものことが起きたらと不安になる。
この感情はそれほどおかしなものではないのだろうか。誰しもが持つものなのか。自分のこととなるとさっぱりわからないが、穂村が感じている気持ちは至極当然な反応なのがわかる。
「あ、来たみたい」
「そうか」
「じゃあ、荷物の積み込みが終わったら、駅で待ち合わせしよう」
「うん」
まだどこか暗い声音だけれど、あまり心配をしても余計に不安になるだけだろうと、なにも言わずに通話を切った。そしてふと自分の中にある感情を、穂村は気づいているのだろうかと気にかかった。
もし気づいているとしたら、自分と同じように不安にさせないためになにも言わずにいてくれるのだろうか。しかし彼はどちらかと言えばまっすぐだから、なにか感じたのなら真っ先に言葉にしてくれる。
なにも言わないということは気づいていないのか、さほど気にしていないかのどちらかだ。
「気にしていない、のはちょっと寂しいかな。……って、自分が一人で不安定になってるだけじゃないか」
余計な心配をかけるよりも、気づいていないなら気づかないままのほうがいい。気持ちが整理できたら、この感情を打ち明けたらいい。そうしたらきっと彼なら、優しく笑って耳を傾けてくれるはずだ。
「あっ、こっちも来たな」
自分の不安定な気持ちでぐらぐらしている場合ではない。いつもお日様みたいな彼が、萎れたままでいることのほうが一大事だ。せっかく不自由さが減って明るくなったのに、また影が差したらこちらまでしょげてしまう。
部屋に響いたチャイムに重苦しい気持ちを切り替えた。
「おはようございます。今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします。……あれ? 横山?」
扉を開けるとキビキビした様子で、二人の作業員がキャップを脱いで頭を下げた。けれどそのあと、顔を持ち上げたうちの一人に視線が吸い寄せられる。こちらが気づいたことを知ると、彼はにぱっと陽気な笑みを浮かべた。
明るい茶髪にわりとぱっちりとした黒目がちな瞳。見た印象可愛らしい顔をしているけれど、その性格がわんぱく小僧といった調子なのをよく知っている。その人物は穂村の友人の一人、横山与一だ。
「横山、知り合いなのか?」
「そうなんですよ。高校の時の先生っす」
じっと見つめてしまった自分の視線に、手前に立つ先輩らしき青年は不思議そうに首を傾げた。それに横山は至極明るい声で応える。
北川だけではなく横山までと思ったが、仲のいい二人だ。一緒にバイトをしていても不思議ではない。しばらくまじまじと見てから、からっとした笑みを浮かべる彼に、深い詮索は必要なさそうだと思った。
「今日は来る予定だったやつが、風邪を引いたって言うから。俺、立候補しちゃった」
早速と荷物の運び出しが始まってから、ふいに横山が楽しげな目をして笑った。その顔を見て、北川から自分たちの話を聞いていることがわかる。しかし反応を見る限り、面白がってはいるが、からかいや冗談だと流しているわけでもなさそうだ。
それどころかいつもとなんら変わらない様子を見せる。なにも変わらなさすぎるが、やはり心配するようなことはないと逆に安心した。
「あ、先生。荷物が片付いたら遊びに行くからよろしくね」
「たまり場にするなよ」
「広いんでしょ? 俺んちも正樹んちもワンルームだし。でも冬司の実家に突撃するのは気が引けてたんだよねぇ」
「……たまにならな」
「よっしゃ! 言葉質をとったからな!」
万歳と両手を挙げて喜ぶ横山に思わず笑ってしまう。ぴょんぴょんと跳ねていきそうな勢いの背中を見ていると、あちら側に横山が行ったほうが良かったのではと思う。
こう元気の塊みたいな彼とは違い、北川はあまり多くを語らないタイプだ。言葉が足りなくて、穂村の不安をさらに煽っているのではないだろうか。ズバリとなにも包み隠さずに言ってくれるほうがいまは救われる。
順調に片付いていく部屋を見ながら、早く穂村に会いたいなと気持ちが急いた。きっと落ち込んでいるだろう彼を、大丈夫だよって抱きしめてあげたい。大事な友達はやはり優しくていい子たちだったって、教えてあげたい。
この件以来ずっと浮かない顔をしていたから、またいつもの笑顔を見せてくれたらいい。
「それでは、昼を挟んでから新居にお伺いしますので、引き続きよろしくお願いします」
一時間ほどで荷物がすべて運び出された。がらんとした部屋を見ると少し感慨深い気持ちになる。六年も暮らすと思い出はいくらか残るもので、ふと思い返してその場に立ち尽くしてしまった。
けれどいい思い出はさほどない。楽しかったのは穂村と一緒にいた一年分くらいだ。ほかは大して色濃いものではないが、いままで色々なことがあった。恋愛面も仕事面も。
いまの仕事を続けているのはやはり穂村に出会ったからかもしれない。告白をされたのは、彼が二年生をやり直す少し前のことだけれど、いつも傍にいるその存在に癒やされていたのだと思う。
ものごとに無関心であったから、学校でのいじめのようなものは、当時さほど堪えてはいなかった。それでもフラストレーションは溜まっていたし、家でやけ酒することも多くあった。
それでも保健室にやって来て、陽だまりのような温かさで笑う穂村を見ているだけで、心が清水で洗われるような気持ちになれた。彼がいた四年間はいま振り返っても幸せだったのだと思える。
これからはいつでも一緒にいられる――それを改めて感じたら、胸の中にあるモヤモヤが少しほどけるような気がした。
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