引き止められた人は、大きく瞳を開いて幸司を見ている。突然のことに驚いたのだろう。深みのある赤色のルージュで彩られた唇は、言葉を紡げずにいるのか薄く開いたままだ。
その表情にどうしようかと、幸司は逡巡した。しかしここで引き下がっては、せっかくのタイミングを逃すことになる。
「あの、時間がある時で、いいので」
「……それって、脱ぐの?」
「え?」
「デッサンモデルじゃなくて?」
「ち、違います! 写真です! 写真のモデルです」
「絵のモデルじゃなくて、カメラのほうなんだ。カメラマン志望?」
「は、はい」
鞄から取り出したカメラを差し出すと、その人は幸司の手元に視線を落としたきり、口を閉ざしてしまった。
長いまつげが頬に影を落とす。ふいに訪れた沈黙に、忘れていた緊張感が戻ってきた。
こんな綺麗な人を前に、どうして冷静でいられたのだろう。そう思うと心臓が早鐘を打ち始めて、まるで全力疾走したあとのようになる。
自分の顔が徐々に、赤く染まっていくのがわかり、幸司はとっさに顔を下げた。
「いいよ。写真を撮られるの好きだし」
「ええっ? ほんと、ですか?」
高まる鼓動に限界を感じ始めたところで、楽しげな声が聞こえてきた。思いがけない返事に勢いよく幸司の頭が持ち上がる。
まじまじと目の前の人を見つめると、不思議そうに見つめ返された。
「もしかして、とりあえず声かけてみた、みたいな?」
「ち、ち、ちが、いますっ! あ、あなたが良かったんです。えっと、その、浮かんだイメージにぴったりで」
「そうなんだ。その代わり、お願い聞いて」
「おね、が、い?」
訝しげに首を傾げた幸司に、ふんわりと艶やかな笑みを返したその人は、ぱっと腕を取るとぴったりとくっついてくる。
それに驚いて肩を跳ね上げれば、よし行こう――と言って歩き出してしまった。
お願いの内容もわからぬまま連行されて、幸司の頭にいくつも疑問符が浮かんだ。
通りを抜けて連れて行かれたのは、住宅街の一角にある撮影スタジオだった。そこがスタジオとわかった理由は単純で、以前アルバイトで撮影に携わった時にも訪れた場所だからだ。
すらりとした美人に撮影スタジオ。やはりモデルだったのかと、幸司は一人納得をした。
腕をとられてスタジオに入れば、受付にいた人がああ君か、と声をかけてくる。
アルバイトをしたのは数ヶ月前で、さほど時間が経っていなかったためか、覚えられていたようだ。
しかし社交性のない自分のことだ。顔を覚えていたというより、陰気な雰囲気を覚えられていたに違いない。
そんなことを思いながら、幸司は頭を下げた。
「てっちゃーん! カメラマン拾った」
「えっ? 拾った?」
スタジオの一室に、迷いなく入っていくのにつられて、幸司もそのまま足を踏み入れる。そこは採光の明るい、十畳ほどの広さがある部屋だった。
室内には脚立に乗った申し訳程度のカメラと、撮影用のライト、姿見と化粧台。そして椅子に座った人。
撮影にしてはあまりにも簡素だ。部屋を見回していると、呼びかけられた人が慌てたように立ち上がった。
この人も随分と背が高いなと、自分より高い人を幸司が見上げれば、英国人紳士を思わせる、穏やかな風貌をしたイケメンと目が合う。
今日は煌びやかな人をよく見る日だ。そう思いつつも不自然に視線をそらしてしまい、あまりにも失礼すぎたと焦りが湧いた。
けれどコミュ障極まれりな幸司には、また正面から視線を合わせることは難しい。
この場面をどう切り抜けようかと、頭の中で考えを巡らせていたら、靴音が響いてイケメンが近づいてくる。
さらに長い幸司の前髪の奥を、覗き込むように身を屈めた。
「どこで拾ってきたんだよ、こんな逸材」
「道の途中でね、どーんって運命的な」
くしゃりと頭を撫でた大きな手は、ぽんぽんとなだめるかのように触れてくる。だがそのあとすぐに深いため息が聞こえて、場違いが過ぎた、と幸司は我に返った。
「す、す、すみません! お、俺、帰ります!」
「えー、駄目だよ。真澄のお願い聞いてくれるんでしょ?」
逃げ出したくて、身体を引こうと力を込めた――が、掴まれた腕が離れていかないどころか、ものすごい力で引き寄せられる。
予想外の展開に、頭の中を真っ白にさせれば、勢いよく両腕に抱きしめられた。
鼻先に緩く波打つ髪が触れ、ふんわりと甘い匂いがまた香る。その匂いに幸司は身動きできなくなった。
「真澄、お前はなんの了解も取らずに連れてきたのか?」
「お願い聞いてあげるから、お願い聞いてってちゃんと言ったよ」
「じゃあ、この子はなにくんで、なにしてる人だ?」
「え? 知らない」
優しい低音の声に、呆れが含まれているのがわかる。それでも綺麗な人――真澄はあっけらかんと言い放つ。そして名前はなんていうの? などと平然と聞いてくる。
振り向いた顔は至近距離。数センチ先で合った視線に、ボッと音がしそうな勢いで、幸司の顔が茹で上がった。
「ちょっと、真っ赤、可愛い」
きゃらきゃらと笑う声に、穴があったら入りたい、と猛烈に思わされる。抱きしめられていた腕はほどかれたが、逃がすまいとしているのか手を握られていた。
これまで彼女などいたことのない幸司は、女性と手を繋いだこともなかった。それなのにぎゅっと握られて、顔が燃えるように熱くなる。
「まったく、お前はいつも適当だな」
「だって、てっちゃんが撮る写真なんて絶対ダサい」
「仕方ないだろう。小島さんは腹痛で来られないって言うんだから」
「てっちゃんが器用なのは、髪を切る時だけだよ」
顔の火照りにのぼせそうになるが、すぐ傍で口論し始める二人が気にかかる。そろりと空いた片手を挙げて、幸司は存在が失われそうな自分をそっとアピールした。
「ああ、ごめんな。俺は野坂徹二、こいつは立花真澄。俺たちは美容師で、今日はカタログを作るために、カットしたウィッグの撮影をする予定だったんだ」
「び、美容師さん」
いまどきのお洒落な美容院には、こんなに顔面偏差値の高い人たちがいるのだなと、小さく息をつく。
普段の幸司は近所の理髪店で、千円カットをしてもらっている。
気の迷いを起こして、踏み込まなくて良かった、の意味のひと息だ。
「お、俺は、神崎幸司です。専門学校の二年です。い、一応写真の専門で、……でも、あっ、アシスタントの経験しか、ないです」
「大丈夫大丈夫! ずぶの素人が撮るより全然いい。それに真澄はこうちゃんが気に入ったから」
「こうちゃんっ?」
恐る恐る自己紹介をしたら、晴れやかな笑みを浮かべた真澄に肩を叩かれた。その勢いにも驚くが、突然呼ばれた呼び名にも驚く。
これまで幸司は友達が少なかったので、あだ名で呼ばれたことがない。そのあとも呼び方は訂正されず、初めての体験に幸司の胸はドキドキと鼓動を速めた。
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