カミングアウト
初の大人デートは充実の一時間半だった。人生の思い出になりそうなくらいの出来事と言える。
真澄は終始ご機嫌で、最後まで幸司を離さなかった。
そんなせっかくのデートが、それだけの時間で終わってしまったのには理由がある。日付を過ぎてすぐに、幸司が眠気を催したからだ。
普段は友達と遊ぶ以外に予定がないので、そろそろ布団に入る時間だった。
「またデートしようね」
「は、はい、約束ですよ」
「うんうん、約束約束」
どこか軽い返事をする真澄に心配になるが、彼は満面の笑みで幸司の小指と、自分の小指を結ぶ。
指切り――たったそれだけの仕草で胸が高鳴るのは、やはりこの人が好きだからだろう。
笑っている顔を見ながら、幸司はそれをじっくりと噛みしめる。
ふと上がった目線につられて見つめ返せば、なにかを思いついたのか、真澄はぱあっと明るい笑みを浮かべた。
戸惑いがちに幸司が首を傾げると、小指がほどけて、代わりに両手が伸ばされる。
その動作は一瞬で、避けることも止めることも叶わなかった。
「んっ」
伸びてきた両手に頬を掴まれ、ぐっと力任せに引き寄せられる。そして口を柔らかなもので塞がれた。
驚いて固まっていると、閉じている唇を舌でこじ開けられる。
滑り込んできたそれは、驚く幸司の気持ちなど意に介さず、たっぷり味わうみたいに口の中で暴れていく。
歯や上顎、頬の裏まで隅々と撫でられて、立っている足が震えた。
「んぅっ」
「はあ、こうちゃん、口の中が熱いね。お酒に酔ってる? それともおねむだからかな?」
唾液の糸が引く――そんな場面を、経験するとは思わなかった。こぼれるものを指先で拭われて、ビクンと肩が跳ね上がる。
そんな自分の反応に幸司はとっさに俯き、頬を染めた。
しかし恥じらうほどに、目の前の人は嬉々とした顔を見せる。また口づけようとしているのを察して、幸司は後ろへと逃げた。
「真澄さん、ここ外」
「こんな時間だし人は少ないよ」
「でも見られてる」
「見せつけておきなよ。真澄、こんな格好だから、男同士だってバレないよ。大丈夫大丈夫」
無責任に、あっけらかんと笑う彼にため息がこぼれた。確かに終電を過ぎた時間帯で、駅に人はほとんどいない。
しかし誰もいないわけではなく、見るからに濃厚な口づけを交わしている、自分たちに向けられる視線を感じた。
しかもいま立つ場所は幸司の最寄り駅だ。いつどこで知り合いと遭遇するかわからない。
「こうちゃん、真っ赤か。可愛い」
「もう、見ないで。ま、真澄さん、家までタクシーだよね? わざわざここまで送らなくても良かったのに」
「えー、あわよくばこうちゃんちに、って思ったんだけど」
「だ、駄目! うち実家だし、家族全員いるし、こんな時間に連れ帰ったら」
「そっかぁ、ざんねーん」
幸司が言い終わらぬうちに、あっさりと後ろへ下がられてしまった。それに少しばかり寂しさを覚えるが、このまま真澄を連れ帰るわけにはいかない。
明日、幸司は休みだが、彼は仕事がある。
ここからどのくらいの場所に、家があるのかわからないけれど、送るべきは自分のほうだったのではないか。
「じゃあ、真澄は一人寂しく帰るね」
「ええっ、そんな言い方」
「うそうそ、大丈夫。今日は楽しかったよ」
「う、うん、俺も楽しかった」
幸司の頭をあやすように撫でた真澄は、機嫌良さげに笑ったあと、両手を広げて見せてくる。
じっと見つめられ、幸司はおずおずとその腕の中に収まった。
「明後日は忘れずに店に来てね」
「わかった」
「いい子いい子。こうちゃんは可愛いね」
ぎゅっと抱きしめられて背中をぽんぽんと叩かれる。真澄のぬくもりと香りを感じれば、急に離れがたくなった。
それでもしばらく抱き合うと、彼はゆっくりと離れていく。
「それじゃあ、またね」
「うん、おやすみなさい」
ひらひらと手を振られて、タクシーに乗り込んでいく姿を見送る。車が走り去るのを見届けてから、幸司はいつもより軽い足取りで一歩を踏み出した。
お酒が入ってふわふわとしている自覚はあるが、それだけではない。やるだけやったあとはすぐに帰ってしまう彼が、こんな時間まで一緒にいてくれた。
たったそれだけのことがご褒美のように思えた。
付き合うと言ってくれて、またデートしようとも言われた。それが夢ではないと確認するために、繋がったばかりのメッセージアプリを起動させる。
――おやすみなさい。また会うの楽しみにしてる
――早速ありがと~! 次はパンケーキでも食べに行く?
――行きたい!
――調べておくね
――そうだ。二人でいる時くらいは素でもいいよ
――優しい! そういうところいいよね
可愛いイラストを受信して、そこに描かれた大好きの文字にドキドキとする。恋人らしいやり取りにほんわりと、胸が温かくなった。
「ただいまぁ」
「おかえりぃ」
「おかえりなさい」
「……! びっくりした! 小春、咲斗、お前たちこんな時間まで、どこに行ってたんだよ」
玄関扉を開けて声を上げた瞬間に、背後から聞き慣れた声がして、肩が大きく跳ね上がる。
驚き戸惑う幸司の背中に、どーんという声とともに二つの重みがのし掛かった。
腰に巻きついて笑っている少女は、妹の小春で、その後ろで小春を抱きしめているのが弟の咲斗だ。
四つ下の弟妹は、そっくりな顔を持ち上げて幸司を見つめる。
「コンビニに行ってきた。こはがお腹空いたって言うから」
「こう兄も食べる? ケーキとアイス買ってきたよ」
「そっか、うん、食べるよ」
二人に押されて家に上がると、明かりの灯ったリビングに足を向ける。しかし踏み込む前に、後ろにいた小春たちに追い抜かれた。
パタパタとスリッパの音が響き、すぐにまた違う声が聞こえてくる。
「そうなのか!」
「まあ、それはお赤飯ね!」
「あれ? 父さんと母さんも起きてたの?」
「幸司!」
「恋人ができたんですって?」
「ええっ?」
こんな時間に、家族全員揃うなんて珍しいものだ、のんきにそう思っていた幸司は、両親の反応にまた肩を跳ね上げた。
とっさに二人の傍にいる弟妹を見れば、含みのある顔で笑っている。
駅から家まで徒歩六分ほど。
一番近いコンビニは駅から徒歩一分だ。そのことを瞬時に理解すると、幸司は茹で上げられたように顔を赤くする。
先ほどの場面を見ていた人の中に、家族である小春と咲斗が含まれていたのだ。
「すんごい美人だったよ」
「スタイル良くてモデルみたいな人だった」
「そうか、でも幸司だって元はいいんだから。……そうだ! この機会にイメチェンなんてどうだ?」
「いいわね、髪の毛も明るく染めちゃいましょう!」
なおも煽ってくる弟妹に苦笑いしか浮かばない。
秘蔵の酒でも持ち出しそうな勢いの父と、本当に赤飯を炊き出しかねない母を、どうやって止めるべきか考えてしまう。
「いや、あの、見た目はそのままでいいって言ってくれたから」
「まあ、なんてできた彼女さん」
「……あ、えっと、……彼氏です」
「え?」
反射的に返事をしてしまい、賑やかだった空気が一瞬にしてしんと静まる。黙ってそれとなく頷いていれば良かったものを、どうして訂正してしまったのか。
じわじわと込み上がってくる焦りに、熱かった顔が急速に冷めていく。
しかしそんな幸司に小春と咲斗はあーあ、と呆れた声を上げた。
「こう兄、言っちゃった」
「せっかくオブラートに包んであげたのに」
「え、なに? 気づいてたの?」
「気づくよー。女性の格好してたけど、ねー」
「そうそう、骨格を見ればわかるよ」
「えっ、そうなの?」
得意気に語る二人に、幸司はまた顔を赤くしてあたふたとする。
どれほど近距離で見られたのかは定かではないが、友人たちでさえ彼を女の子だと疑っていなかった。
それなのに一目見ただけでわかる、この二人の洞察力が怖い。
「お父さん、残念ながら男性同士の仕方は教えてあげられないなぁ」
「いい、いいよ! 教えてくれなくったって!」
ひどく難しい顔をして唸った父に、声が思わず上擦った。そもそも教えてもらう以前に段階を超えている。
さすがにそれは口にできなくて、あれこれ言い訳を連ねて誤魔化した。
兄の、息子の恋人が男だったことに驚くどころか、興味津々過ぎて――やはり連れてこなくて良かったと思う。
こんな時間に恋人を連れ帰ったら、聞き耳を立てられやしないか、そう考えたのは見当違いではなかった。