07.甘い果実の香り

 可愛くて愛しくて、触れるたびに感情があふれ出す。何度も刻みつけるみたいに身体を繋げて、腕の中に閉じ込めて、唇が腫れそうなほど口づけた。しつこいくらい押し開いて、最後のほうはほとんど泣かせてしまった。
 それでも気持ちは収まるどころか膨れ上がる。好きだよってなだめるみたいに繰り返し囁いて、それに応えるように縋りついてくる雪近に堪らなくなって、馬鹿みたいにきつく抱きしめた。

 その身体を離した時にはもう出すもの全部出し切った感じで、疲労感が半端なかった。それでも腕の中で眠る顔を見たらそれもどこか吹っ飛んで、幸せを噛みしめてしまうほどだ。でもいままで自分がこんなに性欲が強いとは思っていなかったから、半分くらい使ってしまったゴムを見て我ながらかなりドン引いた。

 これだけしたらそりゃあ、疲れるし意識も飛ぶはずだ。散々無理をさせて、最中に二回くらい失神させたのは反省している。本当に自分でも驚くほどだ。
 目を覚ましたら目いっぱい甘やかしてやろう。なんでも言うことを聞いてもいい。

「ゆーきー。もう昼過ぎたぞー」

「んー」

「ご飯買ってきたから、飯食おう」

「うーん」

 寝ている雪近のために閉めていたブラインドカーテンを薄く開くと、夏の陽射しが少しだけ部屋に広がる。けれどベッドの上でタオルケットを被っている雪近は、唸り声を上げるもののまったく動かない。そっとベッドの端に腰かけて肩を揺すると、小さく身じろぐ。ほんの少し見えている頭のてっぺんにキスを落とせば、くすぐったそうに肩をすくめた。

「身体きつい? 大丈夫か?」

「ん……へ、いき」

「雪? もう一回。ちょっと、あーって声出してみろ」

「あ゛ぁ、んんっ」

「お前、声カスッカスだな」

 いつもは通る声が喉に引っかかったようなガラガラとした音を響かせる。少し苦しそうに喉で咳をする雪近はもぞりと寝返りを打ってこちらを向いた。ようやくタオルケットから覗かせた顔は眉を寄せて少し辛そうだ。手を伸ばして頬を撫でてやると、すり寄るように顔を寄せてくる。

「こ、え、出し過ぎた、かも」

「夜にエアコンもつけっぱなしだったし、乾燥したかな。ちょっと待ってろ」

「うん」

 こちらをじっと見つめる雪近の額に口づけて、ベッドから離れるとキッチンへ足を向けた。そして冷蔵庫の中を覗いてそこから瓶を取り出すと、ケトルポットに電源を入れる。お湯が沸くあいだに瓶の中身をスプーンで掬ってたっぷりとマグカップに落とす。琥珀色をしたそれは粘度が高く、とろりとスプーンに絡みながらカップの底へと溜まった。

「ほら、雪。これ飲んで」

 湯を注いで混ぜたマグカップからは甘い香りが漂う。身体を起こしてベッドに座る雪近にそれを手渡せば、不思議そうにマグカップをのぞき込んだ。

「はちみつと大根の擦ったやつ。喉にいいから」

「ん、ありがと」

「接客業だから結構風邪もらって喉やられることも多いんだ。だからいつも作ってんの」

「なんか、痛いのちょっと和らいだ」

 カップに息を吹きかけながらちびちびと飲む顔を眺めて、もう一度頬を撫でた。風邪でも引いていないかと思ったが、熱もなさそうだしひどいのは声だけのようだ。それにしても昼間の光の下でも雪近はやけに色っぽく見える。

「あー、これ結構、痕が残りそうだな。悪い」

 寝落ちる前に綺麗に身体を拭いてTシャツとハーフパンツを着せてやったが、それでも目につく部分のキスマークがやばいことになっている。首筋や鎖骨の辺りにうっ血の痕がかなり散っていた。襟元の緩いTシャツに指を引っかけてチラリと胸元を覗くと、こちらもだいぶひどい。自分でしたことだが、呆れて頭が痛くなる。

「平気だよ。どうせ今月いっぱい、大学休みだし。俺、そんなに行く用事ないから」

「次からは気をつける」

「いいのに。俺に夢中な大悟さん、好きだよ」

「そういうこと言って、甘やかすな。ほら、立てるか?」

 やんわりと目を細めた雪近の口先に唇を寄せると、触れた口元が綺麗な弧を描く。猫のように奔放そうな瞳で見つめられると、やたらと胸が騒いでしまう。空気を誤魔化すように手を差し伸ばせば、それを見透かしたような目をしながら手を重ねてくる。

「わぁ、ご馳走だね」

「昨日ちゃんとした飯食えなかったからな。近所にあるレストランなんだけど、電話して頼んだら持ち帰り用に包んでくれた。お前、さすがに行くのしんどいだろうしな」

「そっか、じゃあ今度連れてってね」

「おう、そのつもりだ」

 ダイニングにある二人掛けのテーブルには、パスタとピザとサラダが載っている。盛り付けた皿は安物だが、まだ温かい料理は充分に美味しそうに見えた。
 生ハムとナスのオリーブオイルパスタと海老のトマトソースパスタ。マルゲリータに彩り鮮やかなイタリアンサラダ。それを見ながら笑みを浮かべる雪近に椅子を引いて座らせると、俺も向かい側に腰を下ろす。

「雪、誕生日おめでとう」

「ありがとう」

「よし、好きなだけ食え」

「いただきまーす」

 両手を合わせると思い思いに皿から取り分ける。見た目もいいが、ここの料理は味もかなりいい。口に運んだ雪近の顔も好感触だ。すらっとしているのに食べるのが好きだから、雪近は人の倍くらいはぺろりと食べてしまう。
 俺は酒があればそんなに食べなくてもいいので、昨日買っておいた缶ビールに口をつけると、美味しいものを食べてご機嫌になった雪近を眺める。

「ケーキも買ってきたから、腹に余裕持たせておけよ」

「平気、全然食べられる」

「お前の胃袋には毎回驚かされるな」

「大悟さんが小食なんだよ」

「いまさら食っても育たないからな。雪、口のところ、ソースついてる」

 目を瞬かせる雪近にトントンと指先で口の端を示せば、大雑把に口元を拭ってべろりと手のひらを舐める。子供みたいな行動だけど、舐め上げる赤い舌がちょっといやらしくて目を細めてしまう。真っ昼間から俺の思考は相変わらず邪だ。

「ねぇ、大悟さん」

「ん? なんだ?」

「今日も泊まっていい?」

「……いいけど、襲わない可能性はゼロじゃないぞ」

「んふふ、いいよ。昨日は大悟さんの好きにされちゃったけど。今夜は俺が大悟さん泣かせてあげるから」

 にっこりと微笑んでそんなことを言われたら、まためちゃくちゃに泣かせたくなる。俺を煽っているのに気づいているのか、いないのか。まあ、乗り気なのは大歓迎だけど。それに結構雪近もタフだな。昨日あれだけやったのにけろっとしてる。
 元々丈夫だし、体力もあるし、気にしなくても大丈夫なのだろうが、ほかのやつともこんな感じだったんだろうか。素行が派手って噂されるくらいだから、かなりお盛んだったのは想像できる。雪近も若いし、淡泊そうに見えるのに性欲は旺盛な感じがする。

「大悟さーん、ケーキ!」

「あ、もう食ったのか?」

「うん、ご馳走様。……それより、どうしたの? そんな難しい顔して」

「え? いや、なんでもない。ケーキな。ちょっと待ってろ」

 気にしないとか言いながら、結構気になるもんだな。雪近の初めての相手ってどんなやつなんだろう。初めてキスしたのはいつだろう。なんかやばいくらいに悶々としてる。あ、これはかなり悔しいんだ。

「大悟さん、なに考えてるの?」

「……っ! び、びっくりした。いきなり背後に回るなよ」

 冷蔵庫の前でぼんやりしていたら、耳元で声が聞こえて腰の辺りに手が回った。背中に感じた気配に肩を跳ね上げると、回された腕にぎゅっと抱きしめられる。後ろから頬にすり寄ってくる雪近に思わず大きな息を吐き出してしまった。あからさまに態度に出過ぎだ、俺。

「なに考えてたの?」

「あー、んー、いやー、なんて言うかちょっとした嫉妬って言うか。雪のことが気になって。でも、気にするな。それ言ったら自分はどうなんだって感じだし」

 自分だって雪近が初めてなわけじゃない。付き合ったやつもいれば、付き合ってなくても寝たやつだっている。雪近だけに理想を押しつけるみたいな考え方はおかしい。確かに俺のことを好きだったのに、ほかのやつと関係を持っていたって考えると気持ちがざわつくけど。それは想いを言葉にしなかった俺も悪い。

「んーと、初めては、高校三年の初め頃。よくある出会い系サイトで、大悟さんに似ている人がいて、興味本位で」

「雪、いいよ。言わなくて」

「それでちょっと味を占めて、結構頻繁に相手を探してた。やる時は大悟さんのこと想像してするから、上でも下でもどっちでもよくて」

「もう、いいって」

「でもね、キスしたのは、大悟さんが初めてだよ」

 少し切ない声で囁かれて、ふいに伸ばされた手に顎をすくわれる。驚いて振り返る前に顎を引き寄せられて唇にぬくもりが触れた。覆い被さるように口づけられて、唇を食まれて、耳まで熱くなる。
 雪近と初めてキスをしたのは、二ヶ月前だ。告白の返事をくれた時に、好きだよって優しい声で囁いて、そっと口先にキスをくれた。照れたように微笑んだ雪近の表情はいまでも覚えている。

「キスはね、好きな人としたいって思ってたんだ」

 見上げた顔はちょっと泣きそうに見えた。だから両腕を伸ばして抱きしめた。目いっぱい抱きしめたら、雪近もそれに応えるように強く抱きしめ返してくれる。

「雪のキスは甘い匂いがするよな。ストロベリーのすごい美味しそうな匂い」

「あ、そんなにリップの匂いきつかった?」

「いや、すぐ傍にいてほんのり匂うくらい。でもいつも匂いがするたびにキスしたくて堪らなかった」

 隣で一生懸命に勉強している雪近の傍で、いつもドキドキしていた。鼻腔をくすぐる甘い香りに誘われて、柔らかな唇に見とれてばかりで、やましい自分に呆れてた。同じような匂いを感じるたびに雪近を思い出して、想いを募らせて、お守りみたいにストロベリーのリップバームを持ち歩いていたこともある。

「リップ塗り立ての時はほんとかぶりつきたい気分だった」

「そんなに?」

「ああ、すごい堪んなかった」

「ごめん、いまご飯食べたばっかりで匂いしないけど、もう一回キスしていい?」

「いいよ」

 真面目な顔をして見つめてくるから、思わず笑ってしまった。だけど嬉しくて両頬を包むとそっと雪近を引き寄せる。やんわりと触れる唇からは甘い香りはしなかったけど、なんだかひどく甘やかで何度もついばむように口づけた。

「あ、そうだ。ケーキは苺のショートケーキ。特別に苺を増し増しにしてもらった。お前、食べるのも好きだろ?」

「うん、好き」

「小さいホールケーキだから四等分にして、半分は夜にでも食べよう」

 優しい眼差しに見下ろされて、自然と口元が緩んでしまう。でもほんの少しだけ気恥ずかしくて、誤魔化すみたいに目を伏せた。だけどまっすぐに視線が想いを伝えてくる。その想いに胸がはち切れそうなほど鼓動を速めた。

「大悟さん」

「なんだ?」

「俺のこと、好きでいてくれてありがとう。諦めないでいてくれて、ありがとう。俺、絶対に大悟さんのこと大事にするし、ずっと傍にいるし、ずっと好きでいる」

「……当たり前だ。誰が手放してやるかよ。もう俺は絶対に離さないからな」

「うん、嬉しい。大悟さん、大好き」

 ふやけたように笑ったその顔が可愛くて、伝わる好きの想いに溺れそうなほど浸って、感情があふれてこぼれ落ちそうになる。好きでいてよかった。諦めないでよかった。――想いを伝えてよかった。
 もうきっとこれ以上の恋は出会えない。甘い果実の香りに誘われて、心が引き寄せられたあの時から、胸の中にあるのはずっとずっと一人だけ。これからもそれは変わらない。

end